迷走する顕正会を斬る


淺井昭衞会長の足跡と変節

    顕正会年表 (私家版)


      
昭和49年 (1974)          _
1月15日  創価学会、第5回教学部大会開催。原島崇教学部長「池田先生が何回も重ねて表現する『創価教学』とは一体何なのか。端的に申し上げれば未曾有の仏法実践者である会長に直結する教学であります。即ちこれこそ日蓮大聖人にダイレクトにつながっていく教学」と講演。
1月23日  創価学会、聖教新聞に「本当の仏法は僧侶仏法ではない」と掲載。
1月25日  創価学会、福島源次郎副会長。聖教新聞紙上で「『感応の妙』の基本は、あくまでも『師弟の感応』であることを忘れてはなりません。…… 池田会長の心に、自分の心をどのように感応させていくか。たえずその姿勢が自分にあるかどうかが大事なのです」と。
1月26日  創価学会、池田大作会長、香港訪問。1月26日 ~ 1月31日。
1月28日
 妙信講、理事室設置。理事長を設置する布石である。11支部の陣容となる。
1月 日  創価学会、「正本堂事業の会計上のつき合わせをしておかないと国税局にふみ込まれる」との名目で、大石寺の法人事務と経理のすべてを公開させ、詳細な検討作業に着手。
2月16日  創価学会、池田大作会長、大聖人の再誕を匂わす。
 日蓮大聖人誕生の地を訪れた際、「確か、あの時もこのメンバーだったなあ」、境内の千年杉に「なつかしいなあ!」と、自身が大聖人の再誕であるかのように側近に振る舞う。
(※ その杉は、大聖人入滅後の木であり、却って馬脚を顕した )
3月1日
 妙信講、「冨士」巻頭言、浅井昭衛本部長「大御本尊に祈念せよ」
「妙信講、卑しく非力なりとも今国立戒壇を叫ぶべき資格を有する唯一の講中であれば、『寧喪身命不匿教』の仏誡を恐れてただ死地に赴かんとするのみである。
 ここに有り難きかな、大聖人は大慈悲を垂れ給い擁護を下された。されば虎視眈々の中に昨年十二月二十二日、何らの魔障なく重大なる御本尊はお出ましになったのである。お出ましの大御本尊は、妙信講の大願たる十万達成祈念の御本尊であられる、不可思議の力まします、祈りの叶わぬことはない。…
 十万達成すれば国立戒壇は再び宗門の公論となること間違いない。これ大聖人の御意なるがゆえである。それにつけてもあの悪書「国立戒壇論の誤りについて」を刊行した宗務院はどのような気持でいるのか、懺悔の一分も無いのなら必ず大罰を蒙ろう、名利の為に権力に諂い法を曲げるくらい恐ろしいことはない。御本仏の御眼を蔑ってはならない。妙信講はジッと見ている。三月一日」(「冨士」第127号 )
3月7日  創価学会、池田大作会長。アメリカ合衆国、ペルー共和国、パナマ共和国を訪問。3月7日 ~ 4月13日。
3月10日  小野田寛郎 (陸軍中野学校出の旧日本兵)、フィリピン・ルバング島で29年ぶりに発見される。
 1945年2月28日、アメリカ軍約1個大隊1000名がルバング島に上陸、日本陸軍の各隊はアメリカ海軍艦艇の艦砲射撃の大火力に撃破された。米軍にフィリピン全域を制圧され、小野田は終戦後もルバング島に取り残された。
3月14日  創価学会、聖教新聞に戸田会長の獄中の悟達を、「自らの生命を燃え尽くすような実践があって『自解仏乗』は可能になる」とし、「御本尊、池田大作会長に直結し」と、本尊と池田大作会長を同列に並べる。
3月19日  創価学会、池田大作会長、パナマ共和国にてノリエガ将軍と初対談。
3月25日
 妙信講、研修部。「如説修行抄」講義開始。
3月27日
 宗門、在勤式。細井日達管長、「今、我々はたいへん馬鹿にされておる。坊主、坊主といって馬鹿にされておる。馬鹿にしている人が正しいのか、馬鹿にされておるの我々が正しいのか、一概には言えないでしょう」
4月1日  創価学会、池田大作会長。「法華経を媒介として、ご自身の境地を開き "生命" そのものに迫っていかれた。… 創価仏法の原点は、いうまでもなく戸田前会長の悟達にあります」と。(「大白蓮華」4月号 )
4月2日  創価学会、池田大作会長、「私の仏教観」刊行。
4月8日
 妙信講、宗務院に登山について意向確認の書状送付。
「妙信講の御登山御内拝について昨年五月十一日、書状を以て妙縁寺御住職を経て正式に願い出ましたが、その後一年を経んとして未だお許しもなく、而もその折「国立戒壇を主張する間は許されず」との意向が妙縁寺御住職を経て伝えられております。… 此処に事は極めて重大なれば、改めて真意を糺します。宗務院の御意向はこの伝言に、相違なきやと。
 もし妙信講が仏法の歪曲に与せず、国立戒壇の正義を主張するが故に御開扉を妨害せられるならば、妙信講は本望であります。未だこれ御遺命の正義守護の御奉公ことおわらず、徹底を欠くの証拠であります。さればいよいよ妙信講の命運を賭して、歪曲の根源を断つのみであります。… よって正式の回答、必ず四月中にせらるべきであります」(「御遺命守護の戦い」浅井昭衛 )
「日達上人は、これを、七百年来続いた日蓮正宗にとっての危機だと感じられ、「たとえ自分一人でも大石寺と御本尊を守る」とまで宣言された。… このように緊迫した状況の中で、宗門内には「創価学会と手を切るべし」という御僧侶達も増え、その中から陰で妙信講をけしかける人達も出ていたのである。こうした状況を見て、浅井昭衛は「今こそ創価学会を叩き、宗門から追放して自分が宗内の主導権を握るチャンスだ!」と判断したのである。「御法主上人も宗務院も、そして僧侶方も、最後は創価学会を叩く妙信講を支持してくれるだろう。そして創価学会さえ追い出せば、宗内にはもはや恐いものはない。宗務院や法華講など力で押さえつけられる」。こうした打算があったから、浅井はにわかに「信義に悖ると言われようと結構だ」と言い放って、第二次大戦末期、急に不可侵条約を破棄して北方領土や旧満州に攻め込んだ、ソ連にも似た行動を取ったのである。この見方が正しいことは、その後の妙信講の振る舞い、行動を見ればよくわかる」(「あの頃のこと」第九回 山崎正友 「慧妙」第202号 )
4月10日
 宗門、弾正教会、千葉県市川市大和田に移転、弾正寺と寺号公称。
4月12日  創価学会、山崎正友・八尋頼雄顧問弁護士、報告書『本山について』を作成・提出。(「山崎・八尋報告書」)
「本山の問題については、ほぼ全容をつかみましたが、今後どのように処理していくかについて、二通り考えられます。
  一つは、本山とはいずれ関係を清算せざるを得ないから、学会に火の粉がふりかからない範囲で、つまり向こう三年間の安全確保をはかり、その間、学会との関係ではいつでも清算できるようにしておくという方法であり、いま一つは、長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて、背後をかためるという方法です。…
  本山、正宗は、党や大学、民音以上に学会にとっては存在価値のある外部と思われ、これを安定的にひきつけておくことは、広布戦略の上で欠かせない要素ではないかと思われます。…
 そのための布石としては、
 一、本山事務機構、法人事務、経理事務の実質的支配。
 二、財政面の支配、学会依存度を高める。
 三、渉外面の支配。
 四、信者に対する統率権の支配、宗制宗規における法華講総講頭の権限の確立、海外布教権の確立等。
 五、墓地、典礼の執行権の委譲。
 六、総代による末寺支配。
が必要です。
 これらのことは機会をとらえながら、さり気なく行うことが必要であり、今回のことは、一、二、三を確立し、さらに四までを確立できるチャンスではあります。いずれにせよ、先生の高度な判断によって決せられるべきと思いますので、ご決断を仰ぐ次第です」
4月25日
 宗門、細井日達管長、法華講連合会春季総登山で創価学会の"会長本仏論"を批判。
「御書に「天に二日無く地に二王なし、一仏界二尊の号なし」という事を、仰せになっております。… 最近ある所では、新しい本仏が出来たようなことを宣伝しておるということを薄々聞きました。大変に間違ったことであります。もしそうならば正宗の信仰ではありません。… そういう間違った教義をする人があるならば、法華講の人は身を以てくい止めて頂きたい。… 教義の間違った広宣流布をしたら大変であります」(「蓮華」6月号 )
4月30日
 宗門、早瀬道應総監。総本山で、細井日達管長の意向として「国立戒壇を捨てねば登山は不許可」と、妙信講に伝えた。
「4月30日、宗務院の一室で早瀬総監は、悪びれた様子でいかにも云いにくそうに、この手紙について次のように回答した。 「実は猊下の御意向として、妙信講が国立戒壇を主張する以上、御登山を許すことはできないと云われているので......」と。池田大作はまたも宗門に圧力をかけたのであった。この時点でなぜこのように見えすいたことをと、一見不可解でもあるが、それなりの理由はあったのである。
 当時彼が最も恐れていたのは、宗門の中では妙信講、外では共産党であった。ゆえに共産党から昭和45年4月に「国立戒壇は憲法違反ではないか」と質されれば、政府の照会に対しあわてて「国立戒壇は放棄した」と回答し、細井管長にも「国立戒壇の名称は今後使わない」旨を宣言させたのであった。 一方、宗門内において妙信講から御遺命違背を強く責められれば、その道理に屈伏して確認書を作り、さらに聖教新聞紙上においても正本堂の意義を訂正してきたのであった。 しかしこの上妙信講に「国立戒壇」を高唱され、宗門がこれを黙認すれば、日蓮正宗は国立戒壇を放棄していないことになり、こんどは共産党から反撃される恐れがある。よって細井管長をして、登山にことよせ妙信講の口を封じようとしたのである。
 この年に「創共協定」なるものが結ばれたのも、このことと無関係ではない。後年、池田大作は法廷において「創共協定は妙信講対策のために結んだと日達上人に説明した」と証言し、また宮本共産党委員長は、昭和50年7月30日に「学会が国立戒壇を捨てたので、創共協定を結んだ」と語っているが、この両者の発言を並べ見る時、思い半ばに過ぎるものがあろう。
 そもそも御遺命守護の戦いは、創価学会が憎くて起こしたものではない。ただ法を惜しむ一念、大聖人への忠誠心のゆえである。ゆえに学会の首脳部さえ懺悔すれば、組織に動揺もなくやがては末端にも滲透すべしと思い、初めは内々の確認書で決着とした。…
 しかるにいま再び不実を見た。ならばどうしても、政府への欺証を徹回せしめなければならない。この根が残っている以上、学会も宗門も、国立戒壇を否定し続けなければならないし、正本堂の誑惑を保持し続けなければならないのである。
 しかしこれを迫れば、今度こそ妙信講に死罪たる解散処分が下されることは目に見えていた。だが私は大聖人の御眼を恐れた。大事の御遺命を守るに徹底を欠く「ゆるき行者」との御叱りを恐れた。未だ御遺命守護の御奉公は終っていないのだ。ここに三度目の諫暁に立つ決意を堅め、第十六回総会においてこれを発表した」(「御遺命守護の戦い」浅井昭衛 )
(※ 浅井昭衛理事長は、「登山にことよせ妙信講の口を封じようとした」と云うが、そうだろうか。試練と忍従の長期間、登山停止は妙信講員の結束を固めこそすれ、そんなことで妙信講の口を封じることはできない。登山停止に効果がないことは、細井日達管長も池田大作会長も、そして浅井昭衛理事長も判り切っている。新設の妙信講本部会館には妙縁寺重宝の御本尊が安置され、十万達成を目指して全国末寺で御本尊下附が可能となっている。「宗門がこれを黙認すれば、日蓮正宗は国立戒壇を放棄していない」ことになるのは、妙信講にとってむしろ願わしい事態ですらある。櫻川 忠 )
5月6日  創価学会、池田大作会長。細井日達管長に目通りし「賞本門事戒壇正本堂建立」本尊の裏書に、「此の御本尊は、正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇たることの証明の本尊也」と付け加えるよう要求。
 細井日達管長これを退け、「此の御本尊は、正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇であることを願って建立されたのを証明する本尊』と修正。(藤本メモ)
5月9日  創価学会、北條副会長。「日蓮正宗国際センター」設立の承認を求めて細井日達管長に目通りするも、細井日達管長これを強く拒否。
 細井日達管長、「日蓮正宗とは別個に学会として作ればいい。… 正宗は小さいままでけっこう。… 教義はどんなことをしても守らなければならぬ。国際センターのことは学会だけでやったらよい。… いくら学会が折伏して増えたといったって、謗法する人が増えたのでは何もならん」
 北条浩副会長、創価学会本部に戻るや烈火のごとく顔を紅潮させ、「もうこれでハイ、オサラバだ」と怒り、後に池田大作会長に「本山の件」とする報告書を提出。
「9日の本山お目通りの際、猊下の話は大へんひどいものでした。之が猊下かと疑うほど、また信心そのものを疑いたくなるほどひどいものでした。… 広布の上に重大障害となりまた宗門僧侶等の問題の一切の根源がここから出ていると感じました。(池田)先生が前々から見抜いておられた本質がさらけ出されたように思いますが、あまりにひどいので、かえすがえす残念です。
 広宣流布など全く考えていない。自分達の私財がふえることと、信徒を見下してえばって暮せれば満足、という風にしか考えられません。学会が生きぬいてゆく為には、相手に信心がないならうまく使ってゆくか、徹底的に戦って学会の旗を守って死んでゆくか。いづれにせよ、先生の最大のご苦心にふれる思いで決意を固めました」 「広布の上に重大障害となり、また宗門僧侶の問題等の一切の根源がここから出ている」(北条報告書)
「日蓮正宗から分離独立し一宗一派をつくるその土壌は、創価学会内に池田大作会長中心に十分できあがっていたからこそ『北条報告書』もそれをかくことができた」(『池田先生への手紙』、原島 嵩 )
(※ "北条報告書" 流出の経緯 … 山崎正友顧問弁護士は創価学会の実態を知ってもらうべく、内部資料を持ち出し阿部日顕管長に預けていた。この資料の返却を願った際、山口法興師(後に正信会)によってコピーされ流出した )             
5月18日  インド共和国が核実験、6番目の核保有国となった。インディラ=ガンディー政権は、西部ラジャスターン州で地下核実験を行った。核軍縮の世界的な流れに反し、国際的批判が巻き起こった。
5月19日
 妙信講、第16回総会開催(渋谷公会堂)。「"国立戒壇の正義"断じて護持」、浅井昭衛本部長、理事長に就任
 浅井甚兵衛講頭、「今妙信講の為すべきことを思えば、この斗いにはどうしても若き精力と、強盛なる信心、勇猛心が必要である。この斗いの前に私は憶憾ながら、すでに七十歳をこえております。老人が指揮を取ることは斗いのマイナスである。「麒麟も老ゆれば驢馬に云々」と言葉がある。故に私は専ら後方の任務に当る所存であります。 そしてここに改めて本日、信心と勇気と実力を具えた若き新理事長に、今後の斗いの一切の指揮采配を一任いたします。講中一同新しき理事長指揮の下に、御遺命たる国立戒壇建立の御奉公に、一路前進してもらいたい」と述べ、浅井昭衛新理事長に講務を統括し対外的に講中を代表する一切の責任と権限が附与された。
 浅井昭衛理事長、「先月4月30日、宗務院に出向いた時、それについてキッパリと云い切ってまいりました。「妙信講はいかなることありとも国立戒壇の正義は捨てない。不純な取引きの如き御登山は大聖人の御意に叶わぬから、今はかえって御辞退申し上げる」と答えてまいりました。… 妙信講はいかなる誘惑にも脅迫にも負けない。…
 今後、妙信講はいかにすべきか。重大なことであれば、私はここしばらく人を避け、心を静めてこれを勘えておりました。そして今、結論として決意することは "御遺命守護の御奉公未だおわらず、徹底してその悪を断ち、法の為、国の為、早く国立戒壇を宗門の公論とせねばならぬ" との事であります。… 師子王の心を取り出し、国立戒壇への怨嫉をこの際徹底して打ち砕き、さらに政府への詐わりの回答も断じて訂正せしめる。…
 私は決意しております。この事をなすに当って、その徹底を期するためには、時として、或は止むなく信徒の分をこえた発言もせねばならぬかも知れない。今これを憚り恐れていては大事は為し得ない。宗門に秩序あるはよくよく承知であります。護法の為とは云え、万一にも権威を犯し奉り、正宗信徒として分をこえたる非礼僭越がもしあれば、事おえたる後に幾重にもお詫び申し上げ、自分の責任はとらせて頂く。
 また妙信講の行動は出所進退正々堂々と、仏法の上にはもちろん、世間の法においても一分のあやまちも犯さない、但し、もし自分の不明により、国法の落し穴あらば、一切の責任はこの私にある。ただいかなることありとも、大聖人の御守護を給わり、断じて国立戒壇への怨嫉は打ち擢く決意であります」(「冨士」130号 )
 総会終了後の支区部長会で、浅井昭衛理事長「この理事長職を私の死装束とする。断じて国立戒壇への怨嫉を粉砕する」と。
(※ 70歳の父に「麒麟も老ゆれば驢馬に劣る」と云わせ、全権を掌握した浅井昭衛理事長、今(令和3年)や90才である。浅井甚兵衛講頭からすれば、申し分のない驢馬となっている。櫻川 忠 )
5月24日
 妙信講、創価学会に公開討論申し入れ。常在寺にて浅井昭衛理事長、秋谷栄之助副会長に「公開討論申入書」を手渡し、回答を5月末日までにせよと要求。
 公開討論申し入れ書「此処に妙信講黙す能わず諫訴三年有半、その間、昭和45年9月11日には確認書、同47年10月3日には公式の訂正文を学会に出さしめ、歪曲すでに是正されるかに見えて今日に至りました。
 然るに此の度、宗務院より妙信講に対し国立戒壇の放棄を迫り、応ぜざれば登山停止との暴挙が行われました。これ表面は宗門の意志のごとくに見えるも、裏に学会の意向瞭然にして本心よりの懺悔訂正なき事また顕然であります、… 事、此処に及べば、その無懺すでに大聖人の許し給わぬ所であります。果してすでに立てたる正本堂が御遺命の戒壇なりや、将又広宣流布の暁に立てらるべき国立戒壇が御遺命の戒壇なりや、この事、仏法の大事・宗門の大事・国家の大事にして、これに過ぎたる大事は無ければ、学会と妙信講において各々命運を賭して公場にこれを諍論すべきであります」(「冨士」第131号 )
 浅井昭衛理事長「総会終了後、直ちに御遺命守護の徹底のためにまず第一歩の斗いを進めて参りました。さる5月24日、総会の5日後ですが池袋の常在寺に於て、学会の代表三人に来てもらってその席で公開討論の申し入れ書を正式に渡しました。その公開討論とは、一つには口頭討論、いわゆる言論による討論、この豊島公会堂に於て、出来れば来たる6月20日に、お互いの聴衆の見ている前で果して大聖人様の御遺命とは何であるか、という事を徹底して論議しその道理のおもむくまま一挙に事を決したい。もし口頭討論ということが先方が好まなければ誌上討論ということも提案しました。… 今月(五月)の月末迄に、何等かの返事がくることになっております」(「冨士」第130号 )
「無用な騒ぎはできるだけ避けたいとの学会側の配慮で、学会幹部が浅井に会い 再三再四「戒壇問題は冷静に論議しよう。その間おろかな行為を慎むべきである」と説得し、一時は浅井もその気になって具体的な話し合いのルールとスケジュールの段取りについて三案が話題にのぼり、いよいよ5月24日に常在寺において最終的に煮つめて結論を出そうということになりました。
 ところが、5月24日、常在寺にあらわれた浅井は、今までの話を一切破棄して 一方的な内容の公開討論申し入れ書を読み上げ「イエスかノーか」と迫りました。学会側は大いに驚き、その信義に違背する姿勢を非難したところ、浅井は「どのような無茶なこと、信義を無視した、ルールを無視したと云われてもかまわない」「けしからんというのも一つの返事であるし、こんなもの受け取れるのかというのも自由である」等と横暴な言辞をはき、文書を置いたまま逃げるようにして帰りました」(「元妙信講等処分の経緯について」)
「国立戒壇と正本堂の意義については、双方主張が平行線となってしまい、引き続き、継続して法論を行なうということで先送りされたから、法論が続けられるはずだったが、双方ともあまり熱意を示さず法論は行なわれなかった。それでも数ヶ月に一度くらいのぺースで、秋谷・山崎対浅井の会談は続けられた。昭和四十九年五月末になって、妙信講は浅井昭衛を理事長にする人事を総会で発表し、… 浅井昭衛の独裁的地位を確立して、その上で秋谷副会長および私との対決の席で一方的に『公場対決申入書』を突き付けた」(「あの頃のこと」 山崎正友 「慧妙」第202号 )
5月26日
 妙信講、5月度総幹部会開催(豊島公会堂)。「仏法が曲がれば必ず国は亡ぶ」
 浅井昭衛理事長「いずれに致しましても、道理を尽して大聖人様の御遺命とは何であるか、若しそれがわかったならば全責任をとって、宗門に対し国家に対し身をもって過ちを正す、正義を示さなければいけないという義務を双方に負って進めておりますので、このことが軌道に乗れば誠にありがたい事、すべてが道理を先とした平和裡の解決がつくものと思っています。 万一このことが軌道にのらなければ、それはその時、すべて大聖人様の御仏意であります。事の済むまで徹底して行なわなければならないと思っております。
 私は十万達成・八年後になれば、国立戒壇は自然に宗門の公論となるという路線を今までとっておりましたが、恐らくは大聖人様が "それでは遅い、日本でたった一つの正系門家が八年間も国立戒壇を放棄するとは何事か" ということの思し召しが、いわゆる今回の「御登山停止」ということになって、妙信講に対し事の解決を迫られているのだ、すなわちこれ大聖人様の御命令であるということを強く感じております」(「冨士」第130号 )
(※ 「これ大聖人様の御命令」というのは、認知心理学でいう典型的な「確証バイアス」に他ならない。"八年" が待てずに暴走し、"試練と忍従" も "御遺命守護" も自ら台無しにしてしまった。その自身の大失態に対し、大聖人様に宗門に妙信講員に重い責任を負うべきである。しかし、浅井昭衛会長は責任のすべてを他者に転嫁し、自身に一切の非を認めない。櫻川 忠 )
5月27日  創価学会、聖教新聞『名字の言』、「仏法僧の三宝であるが、この『僧宝』が問題なのである。『僧宝』と言っても僧侶を意味するのではなく、社会の中で実践し『法』を正しく伝持する人々のことである。… 今日における『僧宝』つまり仏法実践者の組織としては創価学会」と掲載。
5月29日
 宗門、創価学会に「妙信講との公開討論禁止」との返書。
「私は、二度にわたり浅井昭衛と一対一で会い、暴発を思いとどまるよう説得した。「ことによっては、創価学会が宗務院にとりなして、登山が叶うように力添えしてもいい」とまで言った。だが、浅井昭衛は「あなたや秋谷さんの気持ちはよくわかる。しかし、我々はもうこれ以上、我慢を続けるつもりはない。今、根本的に邪義を糺さなければ、もはや糺す時は永久に来ないだろう。今、振り上げた拳を降ろそうとしたら、妙信講は空中分解する。もう、後戻りはできない」と、方針を変えようとしなかった」({あの頃のこと」第九回 山崎正友 「慧妙」第202号 )
5月29日  創価学会、池田大作会長、第一次訪中。5月29日 ~ 6月16日。
 池田訪中団は、香港から深圳へ徒歩で国境を超え、北京・西安・鄭州・上海・杭州・広州の6都市を巡り、北京大学などを訪問。李先念副首相との会見では中ソ対立を背景に、中国の核兵器先制不使用、平和5原則堅持の言明を聞き出した。
(※ 池田大作会長は訪中直前に、東京で陳楚駐日中国大使、トロヤノフ駐日ソ連大使と相次いで会談している。6年前(1968年9月8日)、池田大作会長は第11回学生部総会で「日中国交正常化への提言」を発表していた。当時の日本政府は、外交の障害になるとの見解を有し、外務省幹部が駐日米国大使・在日米軍司令官等との協議の席上で、池田発言への懸念を表明していたことが、後年明らかになっている )
5月31日
 宗門、細井日達管長、寺族同心会大会で創価学会批判。
「このままでは軒を貸して母屋を取られる。… 大聖人のご法門を、永久に少しでも曲げずに、また、いろいろな混じりものもなく純粋に保っていく、ということがもっとも大切なことと思います。その時、そのためには、あるいは一時身を小さくするときもありましょう。… 私は、どこまでも一人でいいから本山を護りたいと思います」
6月3日  創価学会、細井日達管長の意向によるとし、妙信講との公開討論を書面で拒否
「我々としては、今日まで貴殿との実りある話し合いを望んで、そのために誠意ある姿勢を貫いて参りました。また今もその気持ちには変わりありません。しかるに、貴殿の24日の突然の挙に対し甚だ心外の念を禁じえません。そもそも宗門が話し合いを要望されたのはあくまで宗門の統制内で信徒同士で誠実に、紳士的に意見の交換を行うようにということであり、決して対決・公開の席での討論といった形をさすのではありません。… 猊下を苦しめ、本山の宗教上の権威を冒潰するような形での討論にはとうてい応ずることはできません」(「冨士」第131号 )
6月13
 妙信講、重ねて創価学会へ念告
「見えすいた小細工こそ厳に慎むべきであります。もし真に猊下の御意とならば、学会・妙信講の代表打ち揃って御前に詣で承わるべきであります。それも為し得ず、しかも強いて猊下の御意なりと学会が強言するならば、敢えて此処で云わねばなりません。即ち猊下御自身が近年学会の横暴と教義の歪曲に対し、いかほど御心痛と御憤りを懐かれ給うかを。すでに活字にされた公式の御指南なれば此処に引き奉る。猊下には本年4月25日、全国の法華講信徒に対し、次の如く仰せであります。『最近ある所では、新しい本仏が出来たようなことを宣伝しておるということを薄々聞きました。大変に間違ったことであります。もしそうならば正宗の信仰ではありません … 』(蓮華五月号所載)と。
 この強烈の仰せ下しを学会はいかように拝し奉るか。猊座利用の大不忠が自ら招いた業報と深く慎むべきであります。いずれにせよ熱願せる公開討論はすでに不可能となりました。私は道理を前とした唯一の平和的解決の手段として、この公開討論に賭けておりました。今やその道も閉されたのであります。… いさゝかの怖畏懺悔もなきこの無道心、断じて大聖人の許し給わぬ所であります。されば「当に苦治すべし」の御金言に任せ、妙信講非力なりとも御守護を給わり、一死を賭して歪曲の根源を断ち、更に御遺命の正義を一国に顕わすのみであります。右念告まで」(「冨士」第131号 )
「折から、一度攻撃の矛を収め、静観していた妙信講が、日蓮正宗と創価学会のただならぬ雲行に宗内の主導権を握ろうと、創価学会との休戦協定を一方的に破棄し、攻撃を開始した。秋谷栄之助(当時・副会長)と私が、東京・常在寺において、妙信講の浅井昭衛と面会し、懸命になだめたが、浅井昭衛は、『理不尽と言われようと、信義にもとると言われようと、かまわない。御自由にどうぞ。我々は、創価学会に宣戦布告する』と言い残して席を立った」
「妙信講は、さっそく堰を切ったように、機関紙や街頭示威行動、パンフレット等で、激しく創価学会攻撃を展開、さらに宗務院に対しても噛みついた。… 宗内では『毒を以て毒を制すだ』と、妙信講の肩を持つ僧侶も少なからずあった」(「あの頃のこと」山崎正友「慧妙」2003年11月16日号 )
6月15日
 宗門、細井日達管長。「信徒が、もし僧侶を驕慢の心をもってばかにし、あえて、僧侶をなき者にしようとする心がもしあるならば、それは信徒としての道を誤る」と。(応供師満山供養、法華講目通りの際)
6月18日
 宗門、細井日達管長、富士学林研究科にて創価学会と妙信講の双方を批判。
「この辺でも、最近、或る書が御書だということを盛んに言われてきております。私の耳にもしばしば入ってきています。又、誰れ誰れが仏であるという言葉も、この近所で聞かれるのであって、私は非常に憂慮しています。… 大聖人以外に本仏があるなど日蓮正宗ではない。日蓮正宗の教義でないものが、一閻浮提に広がっても、それは、広宣流布とはいえないのであります。…
(戒壇建立の)この建立という言葉が、建物を建てると、こう決まっているものではない。… じゃ、建物が国立っていう、誰か偉い人が立ててくれなければ、そこへお参りしてもさっぱり御利益がないのか、というような考えではしかたがない。建物なんかどうでもいいんです」(『蓮華』7月号)
「創価学会、池田会長と固有名詞こそ出てないが、この談話が誰を指しているのかは明瞭である。注意したいのは、これらの談話が掲載されたのは、それぞれ昭和49年5月、6月、7月である。妙信講への解散処分は同年8月12日。不協和音を奏でながらも、妙信講抹殺のためには一致団結で共闘していたのである。…
 宗門の伝統教義である事の戒壇即国立戒壇説の抹殺は、池田大作の野心から発している。それに日達上人と宗門が、伝統教義を歪曲してまで追随協力した。これに金魚の糞のように法華講連合会がくっついていった』(「冨士大石寺顕正会」下山正恕 )
6月18日  創価学会、北條浩副会長。報告書 『宗門の件』を、池田大作会長に提出。
「広布の前途を大きく開いて帰国された先生に、このような報告を申上ることは洵(まこと)に残念なことであり、且つ申訳ない限りでありますが、報告を怠ってご判断をあやまらせてはより以上重大なことと思い、中西、秋谷、山友と相談の上、ご報告申上ます。また私たちなりに検討しました対策もしたためますので、ご指示賜りたく、その上で、私どもいかなる事なりとも闘う所存です。
 かねて先生の仰言っておられた通り、私たちの到底想像することの出来ない、みにくい姿であります。いづれにしても私たちは断乎たたかいぬく決心です。Gの心理は、一時的なものではない … 長期的に見れば、うまくわかれる以外にないと思う。本質は、カトリックとプロテスタントのような違いである。戦術的には、すぐ決裂状態となることは避けて … 当面Gの異状心理をしづめ、新しい進路を開きたいと考えます。但し、やる時がきたら、徹底的に闘いたいと思います」
6月26日
 妙信講、6月度総幹部会開催、1万2千世帯突破。
 御遺命守護特集号の「顕正新聞」第18号発行。浅井昭衛理事長の号令一下、創価学会との公場対決を求めて、「顕正新聞」第18号の百万部一斉配布を開始。
「妙信講の一方的な宣戦布告によって、創価学会は、折から日蓮正宗との関係が悪化していたこともあり、背腹に攻撃を受けることになりそうな形勢となった。それではたまらないから、日蓮正宗との関係修復に必死となった。…
 国際センターは、創価学会だけでやります。数々の非礼はお許しください。今、創価学会は、正本堂建立に全力をあげてきた直後で、無理を重ねてきた反動もあり、苦しい中で内部充実を計っています。しかし、必ず近いうちに寺院建立など、御奉公を再開します。…
 妙信講は、無法な暴力集団であり、浅井昭衛は、創価学会に取って代わって、宗門を思うがままに牛耳ろうとしています。御奉公を何もしないで、要求を突きつける、えげつない連中です。彼らの天下になったら、宗門は暗黒です。ここは、妙信講を徹底して排除するために、御宗門と創価学会が、一致団結して当たらなくてはなりません。宗門と学会がいがみ合うようでは、必ずつけ込まれます。我々は、全力をあげて、妙信講の暴力から御宗門をお護りします等々と、宗門側の説得に努めた。…
 結果、御法主上人も宗務院も、何をするかわからない妙信講に実力で対抗できるのは創価学会しかないから、当面は創価学会と和解し、一致して妙信講問題を根本的に片付けることになされた。
 逆に、創価学会にとっては、妙信講の暴走のおかげで、『危機一髪』だった日蓮正宗との関係を修復し、破門される危機を免れることができたのである」(「あの頃のこと」山崎正友「慧妙」2001年9月1日号 ) 。
6月 日
 妙信講、正本堂完工式の来賓を問題視。
「正本堂の落慶式に先立って行なわれた完工式に、ローマ法王庁から二人、米国から二人、都合四人のキリスト教神父を正式に招いていたのであった。… しかし妙信講がこの悪事を知ったのは二年後の49年夏であった」(「なぜ学会員は功徳を失ったか」 浅井昭衛 )
 宗門、浜中和道師。「聞くところによると浅井昭衛は、6月頃に『いよいよ学会をやっつけようとしている時に、こういう願ってもない攻撃のネタが見つかった』と大喜びしていたそうです」(「元妙信講問題について」)
7月1日  創価学会、「大白蓮華」7月号発行。「指導の要点」(雪山居士)で、謗法容認の論。
 伝統的な宗教行事への参加について「悪鬼乱入の寺社に関係するのであるから、それ自体『謗法』であることは否定できない。ただ広布のためという目的観と、御本尊への信仰によって、これを越える善根を積み、帳消しにするのである。その意味で、それが謗法であると自覚できる人ならば、自らの責任において、あえて、これを犯してよいともいえる」
(※ 内藤国夫によれば、"雪山居士"とは桐村泰次とのこと )
7月2日
 妙信講、国立戒壇に関する五箇条の質問書を、宗務当局に発送。
7月3日
 妙信講、「冨士」編集後記に「顕正新聞」第18号の配布状況。
「◇ 6月28日の夜、全支部に配布されてからわずか三日間で、実に二年前の御遺命守護のあの一ヵ月に及ぶ斗いを大きく上廻る御奉公が展開され、7月3日現在の配布数は実に20万部に及んでいる。
 ◇ 都内全域、さらには地方に於ても、前回にはみられなかった新しい地域での御奉公がある。ことに各地で、正義に目覚めて行動を共にする正宗信徒が次々に立ち上がっており、その反応も顕著で様々な形であらわれている」(「冨士」第131号 )
7月4日
 宗門、妙信講に対し五箇条の質問書につき、宗務院より第1回目の回答。
7月 日
 宗門、細井日達管長。「大白蓮華」7月号の謗法容認記事について『蓮華』にその破折特集を組むよう指示。ただちに全国僧侶から、破折論文が集められる。
7月6日  創価学会、池田大作会長。お詫び登山の体裁で、細井日達管長に目通り。謗法の是正と正宗の厳護を約束し、『蓮華』での破折論文掲載の中止を求む。
7月7日  第10回参議院議員通常選挙、公明党は14名当選。
 物価上昇や地価上昇が社会問題化し、田中内閣による経済失政への批判が強まっていた。投票率は史上最高(73%)となり、野党に票が流れた。自民党は、目標とした参院過半数維持に必要な63議席に1つ及ばず敗北。田中内閣は求心力を失い、やがて金権問題が問題視され、退陣に追い込まれる。
7月8日
 妙信講、重ねて宗務当局に質問書を発送。。
7月15日
 宗門、妙信講に対し宗務院より、第2回目の回答。
7月20日  創価学会、聖教新聞で周徳光議長(東南アジア仏教会議)の「香港メンバーは、久遠の師である池田大作会長を大歓喜の中で迎えることができ……」との、海外代表挨拶を掲載。
7月25日
 宗務院、妙信講にデモ行進を中止するよう誡告。
7月27日
 宗門、細井日達管長。「宗門の現況」指導会で、創価学会批判。
「先月の中頃でしたか。… 北條副会長ならびに山崎弁護士が …. 創価学会と日蓮正宗とのまん中に、もう一つに日蓮正宗国際センターというものを造るという趣旨で来られました。私ははっきり断りました。… 正宗としてはその上に一つ、また被宗教法人ができることになる。… こっちもその下につくんだから何ともする事ができなくなる。その意味からはっきり断りました。どこまでも日蓮正宗は、たとえ小さくても宜しいから、大聖人の教義を守っていきます。…
 会計を、大石寺の会計を調べるという。大石寺も宗教法人で、その年その年に税務署へちゃんと会計報告して通っておる。それにもかかわらず、また第三者が来て会計報告まで調べるというのは、どうも私には意味がとれない。その時に北條さんがいうには、もし調べさせなければ手をわかつ。おさらばする、とはっきりいったのです。…
 一人でもお山を守りたい。たとえ学会と手を切っても、百姓をしてもいいからお山を守ろう、と皆にも言っているんです。… それは正本堂を造ってもらって有り難い。… もし学会が来なくて、こちらの生活が立たないというならば、御本尊は御宝蔵へおしまいして、御開帳願う人があったら御開帳しよう、と覚悟を決めたわけです」
7月 日  創価学会、池田大作(名誉)会長。山崎正友裁判における法廷証言。(昭和58年)
 弁護人:「…先程あなたは昭和49年の7月ごろ、日達上人が学会とは手を切るという発言をしておられたことをきいた覚えがあると、こう言われましたね」
 池田:「手を引くですね。手を引いてもいいという意味の話があったようです」
7月28日
 妙信講、明治公園で「立正安国野外大集会」開催。炎天下、パトカーに先導された3千名の妙信講員が、「政治のために仏法を曲げるな」「謗法与同を許すな」「国立戒壇こそ大聖人の御遺命」等のプラカードを持って、四谷駅まで2キロをデモ行進。「8月15日までに、国立戒壇を否定した政府への欺瞞回答を撤回せよ。もし撤回しなければ、妙信講が文部省に対して訂正する」とした決議文を創価学会本部に届ける。
 決議文「然るに創価学会池田会長は、政治選挙のために世間に迎合し、恐れげもなく御本仏一期の御遺命たる国立戒壇を否定し、未だ広宣流布もせぬ今日、俄かに正本堂を立て、これを以て「宗門七百年の悲願の達成」「御遺命の戒壇の成就」と宗内外に宣伝し、さらに昭和45年4月には、時の政府の国立戒壇についての照会に対し文書を以て公式に御遺命を詐わりました。これ、まさしく上は御本仏大聖人に背き奉り、下は純信の数百万信徒を欺き、外には一国を誑かすものであります。
 而してもし8月15日までに訂正なき時は、誠意すでに無きものとして、則ち妙信講は文部省に対して訂正を為し、以て学会の国家欺瞞の罪を正系門家の一講中として償うものであります」(「御遺命守護の戦い」浅井昭衛 )
 浅井昭衛理事長「大聖人の御遺命を政府に尋ねられたのに、世の抵抗を恐れ、偽わりの回答をするとは何事か。国家を諫むべき正系門家が国家を欺き御遺命を曲げたということは、日本の将来に重大なる悪影響を及ぼすこと疑いない。これ国の破れる第一の原因であります。さればここに本日、立正安国野外大集会の総意を以って、創価学会に対し、政府への欺瞞回答を撤回するよう強く求めたい、そして万一にも撤回せぬ時は、妙信講が正系門家の一講中として文部大臣に対して訂正を為し、はっきりと御遺命の正義を示そうと思う、これを本日この席で決議しようと思いますがいかがでしょうか。(大拍手)」(「冨士」第132号 )
7月31日
 宗務院、妙信講に解散を前提とした「通告書」を送付。「訓諭に従わず機関紙配布・デモ等を強行したのは宗規違反、8月7日までに弁疏せよ」と。
「傘下の講員を量動員し、機関誌の大量配布、デモ行進などの大衆行動にまで及んでいます。これらのことは宗門の秩序と統制を乱す破和合僧の行為であり、… いやしくも日蓮正宗を名乗り、多くの信者を宗門の方針通り指導すべき講中としては、このようなことは断じて許されるべきではありません」
「まず、宗務院から、妙信講に対し、宗規に定められた手続きにのっり、処分手続きに入ること、処分に対して書い分があれば、言い分を『弁疏』として提出するよう、通告書を送り付けた。その上で、所定の手続きを経て、妙信講に対する解散命令が出された。浅井昭衛は、講中の動揺を恐れて、解散命令を受けたことを隠そうとしたから、私が集めた講員名簿に基づき、『解散処分』を発表した日蓮正宗の機関誌『大日蓮』と、法華講連合会機関紙『大白法』、そして、御法主上人に肉筆で認めていただいた講員に対する呼びかけの書状(速やかに寺院につくように、との内容)を、全講員に送り付けたのである。同時に、法華講青年部と創価学会青年部が共同して、妙信講員への『折伏』を開始した。こうして、日蓮正宗と創価学会の徹底した反撃にあって追い詰められ、うろたえた浅井昭衛は、ついに創価学会本部襲撃という最後手段に踏み切ったのであった」(「あの頃のこと」山崎正友 「慧妙」2001年9月1日号 )
8月1日
 宗門、阿部日顕師、総監代務者に就任。
8月1日
 妙信講、「冨士」編集後記。
「◇ されば浅井先生は、8月1日の班長会で次のように指導をされている。『立正安国野外大集会を契機に、かくれたる悪が必ず表に出てくる。早ければこの八月、遅くともこの九月には何等かの山がくると思っている。自分はこの山を楽しみにしている。悪を呼びよせ、この悪を乗り越え、この悪を成仏せしめなければ、この事は絶対解決できないと覚悟している。御遺命守護の為にすべてを投げ打つ妙信講でなければ到底頑張れるものではない。もし大きな山を迎えれば正宗信徒としての本懐これにすぐるはない。正しいものは必ず勝つ。… 』と。
 ◇ 迎える山とはなにか、いままでの経緯よりみれば、先生が敢て口にされない一事にあることを伺い知る我等である。すでに一同の決意は出来ている。この先生の斗いが、妙信講の斗いが勝利せねば、日本の運命はない。正系門家の存在もなくなる」(「冨士」第132号 )
(※ 表に出てくる「かくれたる悪」とは、池田大作会長を想定していたのだろう。しかし「悪」は、かくれて出てこない。やむなく矛先を「悪」に加担すると見なす、阿部信雄総監代務者へと変更した。しかし阿部師との公開討論も果たせず、裏にかくれて着々と妙信講対策を練っていた策士 "山崎正友" から、ノーガードでカウンターパンチをまともに喰らい、"大きな山" を迎えてしまった。櫻川 忠 )
8月4日  創価学会、池田大作会長。大石寺における高等部夏期講習会で、「仏法者として、本門戒壇の大御本尊を、一生涯忘れないでください」と。
 久留米「水天宮カッパ祭」に、創価学会が組織的に参加した。
8月6日
 妙信講、宗務院に「通告書」への回答書を提出、総監代務者阿部信雄師に公開討論を申し入れ。
「いずれが仏法上正しいか、即ち "御遺命の戒壇は正本堂にして国立戒壇に非ず゛との義と、"御遺命の戒壇は広布の暁の国立戒壇なり゛とする義といずれが大聖人の御意に叶うか、この事こそ事態を解決する鍵であります。
 されば全宗門の見守る中に、是非を決すべきであります。此処に七百年未聞の悪書たる『国立戒壇論の誤りについて』をものせし阿部信雄師を宗務当局の代表として、妙信講は公開討論を申し入れるものであります。… もしかかる道理を尽さず暴戻の断罪を行うならば、それも亦良し。御遺命を守護して身命を喪えば、在家の本分これに過ぎたるは無しと、心中より悦ぶものであります」(「御遺命守護の戦い」浅井昭衛 )
(※ 創価学会との継続討議を打ち切って、宗務院に公開討論を申し入れるとは、戦う相手を取り違えている。問題の元凶は池田大作氏であり、創価学会が変わらない限り意味がない。浅井昭衛氏はその構図を嫌と言うほど知り抜いていたはずであり、また創価学会と論判する資格と権利を持っていたのは妙信講であった。しかし浅井昭衛理事長のしたことは、創価学会と初めて本気で戦おうとしている宗門を、後ろから殴りつけたようなものである。この判断ミスは打算からというより、慢心による全能感に加えて、独善思考による認識能力の欠如に由来するだろう )(「迷走する顕正会を斬る」櫻川 忠 )
8月6日  創価学会、聖教新聞に西口浩・学生部副教学部長の「原典」を論じた文章を掲載。
「仏教という大きな立場で言えば、それは「法華経」であるといえます。そして、大聖人門下という観点からいえば「御書」であり、さらには創価学会という立場からいえば、小説「人間革命」であります」
8月12日
 宗務院、妙信講に「解散宣告書」を送付。同日、松本日仁能化が総本山に呼ばれ、細井日達管長は妙信講解散処分を申し渡した。
宣告書 一、主文 講中解散に処する。
 右妙信講は、数年来「国立戒壇の名称を使用しない」旨の宗門の公式決定に違反し、更にまた昭和四十七年四月二十八日付「訓諭」に対して異議を唱え、数度におよぶ宗務院の説得、誡告等にも従わず、かえって宗務院並びに他の信徒に対して非難中傷を加え、機関誌の大量配布、デモ行進などを行なった。これは、宗門の秩序と統制を乱す行為であり、甚だ許し難いものである。… よって宗規第百六十四条(旧第六十一条ノ三)の二号の処分事由に該当するものと認め、頭書の如く処分する」
 細井日達管長、全妙信講員宅に自筆の手紙「元妙信講員の皆様へ」(写し)を発送。
「一宗の統率者として宗門の秩序を守り、統制を保っていくためには、万やむを得ないこととして、遂に今回の措置をとらざるを得なくなった」とし、4ヶ寺の寺院を挙げ「今日より60日以内にその寺へ申出」よ、「その寺においては、他の法華講員と何ら変らぬ平等の気持ちをもって遇す」と。
(※ 管長からの手紙にかかわらず、妙信講を離れる者はなかった )
8月16日
 法華講連合会、「大白法」に宗務院通達「妙信講解散について」を掲載。
8月20日
 妙信講、豊島公会堂にて臨時幹部会。浅井昭衛理事長、「妙信講は断じて解散せず、仏法の破壊者 池田大作こそ宗門追放を」と宣言。
「へらぬ口のようではありますが、御遺命たる国立戒壇の正義を守って死罪に処せられるなら、これに勝る喜びはないと私は思っております。… なぜこんなバカげた解散命令が出たのか。理由は簡単であります。"自ら仏法を曲げ、その悪事がバレそうになったから諌める妙信講を処分した" というだけのことです。…
 妙信講は国立戒壇を云うゆえに解散処分を受けた。だが、それなら、日蓮正宗七百年の歴代猊下は全部除名になる。… 七百年来の義を勝手に改変したいのなら、妙信講に"解散"などと生意気なことをいわず、池田大作こそトットと日蓮正宗から出て行って池田宗を作ったらどうか。
 私は今日ここであえて云う。仏法の破壊者 池田大作を宗門から追放しようではないか。(大拍手)
 偽善者 池田大作を社会から追放しよう。(大拍手)
 国を傾ける国賊 池田大作を日本から追放しよう。(大拍手)
 今回の卑劣なる解散処分こそ、必ず学会の命とりとなり、池田大作がその卑劣の恥を天下にさらすことになる。かかる大悪がおこれば大善は近い。闇が深くなれば暁は近い。この斗い、長くても三年、早ければ一年で必ず解決すると私は確信する」(「冨士」第133号 )
(※ 「浅井理事長は「なぜこんなバカげた解散命令が出たのか」、その理由を分析して縷々述べている。「悪事がバレそうになったから諌める妙信講を処分した」というのであるが、ものごとには遠因と近因、主因と傍因がある。
 解散事由の一つである、公式決定違反は名称使用問題であり、国立戒壇の是非は妙信講と創価学会が今後議論を重ねるという約定を、宗門は承知の上である。「訓諭」も不本意な点も含む内容であることは、宗門当局としてよく判っている。これは遠因であり、これで除名にはならない。
 二つ目は、妙信講からの「返答の出来るわけがない」要求に対し、抹殺する以外にはなくなったとしている。「これこそ悪人が身を守るたった一つの道」と、なるべくしてなった近因であるかのように昭衛氏は講員に解説するが、それは恣意的な誘導である。創価学会は、妙信講が文部省に訂正を申し入れても、痛くもかゆくもない。事実、昭和五十年四月に妙信講は文部省に請願書を提出し、国立戒壇否定回答の真相の速かなる調査糾明を求めたが、何の効果もなかった。それよりも創価学会にとって焦眉の急は、宗門との関係修復であった。
 三つ目は、制止されていたデモ行進の実施で、「宗門の秩序と統制を乱す行為であり甚だ許し難い」、ということが解散処分の決定的な主因である。
 四つには、浅井昭衛氏は言及しないが、山崎氏により破綻寸前だった宗門と創価学会の「共通の敵」に妙信講は仕立て上げられ、それが講中解散につながったのである。
 浅井昭衛氏は、「バカげた解散命令」の一と二の理由だけを強調するが、それだけでは解散処分には到らなかった。そして本当の理由には、口をつぐんでいる。…
 浅井理事長はこのとき、どのような見通しがあって「長くても三年、早ければ一年で必ず解決」と述べたのだろうか。法廷闘争が念頭にあったとしても、教義問題は日本の裁判制度になじまない。根拠のない確信に過ぎなかったかもしれないが、捨て身の行動を眼前にして来た妙信講員に、浅井理事長の言葉を疑う者はなかった。この後、山崎正友氏の怒濤の攻撃にさらされ、妙信講は守勢に甘んじることになる。池田大作氏の宗門追放が実現したのは、十六年後の平成三年である。宗門追放まで十六年の猶予を、池田会長に与えたのは浅井理事長である」(「迷走する顕正会を斬る」櫻川 忠 ))
8月25日
 宗門、法華講連合会第11回総会開催。細井日達管長、妙信講解散につき言及。
8月26日
 妙信講、「偽善者池田大作の仮面をはぐ」の号外、再び百万部配布。
「創価学会も、全面対決の態勢に入った。私が実行貴任者となり、全情報師団や法律師団を投入した。… この日が来ることを予想して、すでに妙信講内に何人もスパイを潜入させてあった。
 館岡倉市事務局長配下のM1、福島源次郎氏配下のM2、M3と暗号名で呼ばれるスパイは、すでに妙信講本部の中堅幹部に昇進しており、本部や浅井の自宅の警備や電話番の役割を与えられるまでになっていた。さらに、私の情報師団からも、二名を潜り込ませた。彼らを通じて、妙信講の内部情報は創価学会側に筒抜けとなっていた。妙信講本部近くのマンションにアジトを作り、そこに情報員を常駐させ、監視に当たった。文京区音羽に妙信講本部があった頃、それを見張っていた私の情報師団のアジトが、"過激派学生運動集団"のアジトではないか、と公安警察に目をつけられるというハプニングもあったが、その後、妙信講本部が板橋区常盤台に移転すると、すぐ隣のアパートを借り、監視と盗聴器の受信、そして宣伝力ーの見張りや破壊等の妨害活動を行なった。
 さらに、創価学会直属の興信所を使って、妙信講幹部の身辺調査を徹底的に行なった。私の元には、このように妙信講に張り巡らされた情報報網から、妙信講のあらゆる会合における指導内容、各支部組繊の実態とその活動、浅井昭衛をはじめ、村岡青年部長、長岡男子部長といった主な幹部の言動が、毎日逐一、正確に報告されてきた」(「あの頃のこと」第十二回 山崎正友 「慧妙」第208号 )
8月30日  三菱重工爆破事件、千代田区丸の内で発生。東アジア反日武装戦線「狼」による、無差別爆弾テロ事件。実行犯4人は、三菱重工業東京本社ビル1階出入り口に時限爆弾を仕掛け、三菱重工ビルの電話交換手に「三菱重工前の道路に2個の時限式爆弾を仕掛けた、付近のものは直ちに避難するように、これは冗談ではない」旨の電話をかけ、直後の午後0時45分に時限爆弾が炸裂した。表通りにも破片が降り注ぎ、多数の通行人が巻き込まれ死傷した。死者8人、負傷376人、戦後日本最悪の爆弾テロ事件となった。
8月 日
 妙信講、八木直道師に御会式奉修を要請。
「妙信講が解散処分を受けてまもなく、同講理事長・浅井昭衛氏より、十月十二日に御大会式を奉修したいので是非、出席願いたい旨の要請があった。 私は、妙信講が宗祖大聖人の御遺命を死守せんと、身命・財を抛って御奉公している姿を見て、この一万有余の純信の徒に応(かな)うため "一命を賭しても出席する" と約束した。これは僧侶として違法どころか、かえって大聖人の末弟としての責務であるとさえ思い決意したものである」( 八木直道師 「冨士」第136号 )
9月2日
 宗門、創価学会連絡会議開催。創価学会から紙幅の本尊を、板本尊にしたいとの伺い立てた。宗門側は「いいでしょう」としたが、新たに板本尊を下附するという意図である。しかし、すでに創価学会は、模刻本尊を製作済みであった。
9月6日
 妙信講、男子部150名。学会本部前にて、抗議演説。
9月8日  創価学会、池田大作会長。モスクワ大学の招聘で、創価大学代表団とソビエト社会主義共和国連邦訪問。9月8日 ~ 9月18日。訪問最終日に、クレムリンでコスイギン首相と会見、訪中の折に李先念副首相から託されたメッセージを伝えた。
9月10日
 宗門、宗務院通達。全国末寺に「元妙信講員より面会を求められても会う必要はなく、なおも面会を強要された場合は、警察へ連絡して退去せしめられるように」と。
 全国各地で妙信講員が末寺等に赴いて、創価学会員や末寺僧侶に正本堂問題を訴え、困惑した末寺から対応について宗務院に伺いが立てられていた。
9月13日
 宗務院、妙信講に「日蓮正宗の名称を使用せざる」旨の「宗務院通告」
9月15日
 妙信講、男子部代表50数名。総本山におもむき、宗務院に解散理由を詰問。
9月16日
 宗門、細井日達管長の「再び元妙信講員の皆様へ」の文書を、全妙信講員に送達。
9月19日
 法華講連合会、岩井氏。「大白法」の発送は、「北条浩副会長の指示」と告白。
9月22日
 妙信講、男子部。大阪・京都にて、顕正新聞号外を配布。
9月27日
 宗門、阿部信雄総監代行・藤本栄道庶務部長。八木直道師を訪問し、妙信講の御会式へ出席しないよう説得。
「これをどこで聞きつけて来たのか、九月下旬頃より、色々な人を介して、出席を断念させる動きがあった。その中で阿部総監代行・藤本庶務部長両師も九月二十七日に来訪し何とか行かぬようにと云われた。そこで私は、事の原因となっている教義上の重大問題について、これを抜本的に解決するためには、阿部総監代行と妙信講理事長浅井昭衛氏が直接会って、宗門のため誠意を以って対論することが最もよいのではないかと考え、自分がその仲介をしようと試みた」( 八木直道師 「冨士」第136号 )
9月28日
 宗門、細井日達管長。松本日仁能化に、妙信講本部会館の本尊返還請求を命じた。同日、宗務院からの「本部会館安置本尊の返還請求」の内容証明が、妙信講に到着。
 浅井昭衛理事長 「九月二十八日に内容証明が一通まいりました。何事ならんと見れば妙縁寺の松本御能師の名前で差し出されている。『妙信講の本部会館に御安置の御本尊をすぐ返還せよ』とある。(中略) 十月二十一日 御本尊返還請求の内容証明を責任役員会の連名でまた郵送して来ました。 (中略) 『七日以内に返還せぬ時は法的処置を取る』と」(「冨士」 136号 )」
10月1日
 宗門、八木直道師、対論条件を双方に示す。
「そこで十月一日、左のごとき対論の条件を双方に示した。
『対論条件
 左記の条件を以って双方に提示するものである。
 対論の結果において是非明らかになりし時は、双方誠意を以って次の義務を履行すること。
 一、妙信講が非なる時は、直ちに解散処分を受け入れ、之を全講員に指示徹底する。
 一、阿部総監代行の非なりし時は、直ちに「宗門の公式決定」を改正し、妙信講の解散処分撤回を文書を以て猊下に具申する』(但し、対論受諾の応否については本年十月十日迄とす」( 八木直道師 「冨士」第136号 )
10月3日
 宗門、八木直道師、細井日達管長に目通り
「実は十月三日、日蓮正宗総監・早瀬尊能化より、法道院の在勤者を使に立てての一通の書状が届いた。総監殿には只今御病中にて代筆を以ての御芳書で、まことに御懇篤なる誠意があふれ、ぜひ猊下にお目通りし、意見あらば充分に開陳して御指南を仰ぐようにとの憂宗の念に満ちた内容であったので、自分はお目通りを願う決意をした。同日午后四時頃対面所にてお目通りを許された。同席者は藤本庶務部長・光久理事・遠信坊住職信榮師の三名であった。
 総監殿の御芳書には、自分の意見を充分開陳して御指南を仰げ、とのことであったから、自分はまず、国立戒壇の否定は大聖人の御遺命に違背することを、昭和四十五年以来の経過と共に縷々(るる)開陳したが、猊下には何の御指南も下されなかった。また、今一つの重大問題の四十七年の「訓諭」についても、「正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」と仰せられているが、この一事こそ大聖人の御遺命を冒潰するものであるの(ママ)申し上げた。ところが猊下には「そのような事があったかなあー」と、お言葉を濁された。その時、藤本庶務部長が「確かに仰せられています」と進言した。この訓諭の問題についても、猊下からは何らの御指南もなかった。…
 そこで妙信講のことについて申し上げた。「妙信講はただただ大聖人の御遺命を純信なる信念を以て守らんとする者である。その云わんとするところは『国立戒壇の否定は御遺命に背く、仏法は体・世間は影であれば、仏法が曲れば即ち国亡ぶ』と、何等臆することなく正々堂々-と御書並びに歴代先師上人の御指南を本として云っている。謗法行為など寸分もなく、ただ一筋に御遺命を歪曲する輩を強折し、御遺命の国立戒壇の実現を完うせんと自行化他の信行に精進して参った純信の信者である。しかるに、かくのごとき純信の妙信講を、何ゆえ解散せしめたか、全く不審極まりなき次第である。解散処分は信仰者にとって死罪に等しい、無懺極まる行為である。純信の人の要請であれば、自分は法華講・学会員の区別なく、一死を賭しても之を救済するこそ僧侶の本分と心得る。妙信講に仏法上の誤りなき限り、その要請に応えて小生は来る十月十三日の御大会式には万難を排して出席する」と申し上げた。
 これに対し、猊下は、ただ「困る、困る」とくり返えされ、「なんとか行かぬようにしてくれ」とだけの仰せであった。恐れながら私はこれを拒否申し上げた」( 八木直道師 「冨士」第136号 )
10月3日
 妙信講、浅井昭衛理事長、対論を受諾。
「これに対し、十月三日には浅井昭衛氏より受諾する旨の文書が送附されて来た」( 八木直道師 「冨士」第136号 )
10月4日
 宗門、阿部総監代行、対論を拒否。
「だが、阿部総監代行は、十月四日 藤本庶務部長と拙宅を訪れた際、「対論に応ずることは出来ない」旨の答えを口頭でされた。これで、小生の宗門の重大問題を解決せんとする企ては、水泡に帰したのである」( 八木直道師 「冨士」第136号 )
10月4日
 妙信講、男子部80余名。創価学会本部前にて、北條浩副会長の卑劣を糾弾。全員、「暴力及び家宅侵入」の現行犯容疑で逮捕、四谷警察署に連行された。
 山崎正友氏は、この「創価学会本部襲撃事件」について、実は創価学会が仕掛けた罠であったことを、後に明らかにしている。
「妙信講作戦では、盗聴もさることながら、スパイの活躍が効果的であった。… 妙信講のあらゆる行事の発言内容、主な支部の実態と正確な行動、主な幹部一人一人の言動、浅井昭衛氏、長岡、村岡といった人物の言動が、毎日正確に私のもとに伝えられてきた」(「盗聴教団」山崎正友 )
「前日までには、襲撃に参加する人数、その集合方法や服装、指揮官および指揮系統、押し入る方法、最終日程等々が、詳細にわかっていた。当然、創価学会は迎え撃つ準備を整えた。本部地下に、柔・剣道、空手や拳法などの有段者や、警備のプロの男子部員を五十名ばかり待機させた。… また、念のため、本部前の青年会館や周辺施設にも、同様に待機させた。聖教新聞社、公明新聞のカメラマンを、要所要所に配置した。都合のよい証拠写真を撮るためである。また、後日の法的手段に備えて、弁護士も本部前の見えるところに待機した。…
 鉢巻き姿で目をつり上げた八十名を越える妙信講青年部員が集まり、宣伝カーと共に閉ざした表門の前で気勢を上げはじめた。しばらく警官をはさんで押し問答をしていたが、長岡青年部長の命令一下、数名が塀(へい)を乗り越えて侵入し、内から門扉を開き、全員を構内になだれ込ませた。… そこで、待機していた五十名ばかりの学会の警備隊が出動した。彼らは、たちまち妙信講員の大部分を門の外に押し返し、再び門を閉ざした。中に取り残された十名たらずの幹部達は、そこで袋叩きにあった。これを見ていた塀外の妙信講員は、宣伝力ーを門扉に衝突させて押し開け、再びなだれ込んだ。… 妙信講側は、建物の中に一歩も入れなかったのみか、数では劣る創価学会青年部に徹底的に叩きのめされ、多勢がそうとうの手傷を負わされた。しかも、全員が逮捕され、長岡・村岡らは、さらに拘留されるし、浅井昭衛自身も取り調べを受けるハメとなって、うろたえ、取り乱した。
 何も事情のわからない世論は、『暴力はいけない』といって妙信講を非難したし、宗内においても、… 同情や支援も失ってしまった。池田大作は、自ら御法主上人に電話をし、『徹底的にやっつけました。お山へ行くようなことがあっても、創価学会が護ります』と得意気に報告した。御法主上人は、『いやはや呆れた。あんなことをする連中は処分しておいてよかった』と述べられた」(「あの頃のこと」第十二回 山崎正友「慧妙」第208号)
10月5日  朝刊各紙は全国一斉に、「創価学会本部に妙信講青年部八十人が広報車と共に乱入し、暴力行為をなし十二名逮捕、原因は教義の対立」と報道した。この事件を契機に創価学会は、妙信講が過激な暴力集団であると、宗門ならびに一般社会に印象づけた。
10月9~12日
 宗門、正本堂建立第三年記念大法要。皆成仏塔(題目供養塔)開眼式、正本堂記念資料館開館式、久遠の塔点火式。
10月13日
 妙信講、御大会式厳修。八木直道師、導師を勤める。
10月14日
 宗務院、妙信講員に「所属替えの期限延長」の通知発送。
10月15日
 宗門、八木直道師を擯斥処分。
「一、主文 擯斥に処する
 其方儀、先に宗門の公式決定に違背し、訓諭に異議を唱え、宗門を乱すなどの行為によって講中解散に処せられ、更にその後もなお宗務院を誹謗し、他の信徒に対して集団的暴力事件を起すなどの行為で宗門を乱している信徒に加担し、宗務院より訓戒を受けても改めず、彼等の行動を是認奨励する行為に及んだことは甚だ許し難いことである。依って宗規第二百四十九条第四号により、主文の如く処す」
10月17日  創価学会、山崎正友顧問弁護士。富士宮市から甲府への移動の車中、池田大作会長から共産党対策を相談を受ける。
「従来、学会・公明党は幹部が手分けして各界にパイプを通じていたが、そのとき、あらためて整理して、『右翼関係は北条(浩)副会長と辻武寿総務室長。自民党と警察は竹入義勝公明党委員長。文化人は公明党と潮出版社、民音。社会党や総評系労組は山崎弁護士と矢野絢也公明党書記長、民社党及び民社系労組は秋谷栄之助副会長と矢野書記長、がそれぞれ担当することにし、財界、銀行筋は池田会長自身がやることになった』
 共産党に対しても話し合いのパイプは作るべきと山崎は勧めたが、そのための妙手は思い浮かばなかった。池田会長は出版妨害問題に関し、『骨身にしみており、火つけ役となった共産党に対して、憎しみと恐怖で固まっていた。どちらかといえば、恐怖心の方が憎しみより勝っていた』」(「週刊文春」80年2月21日号)。
10月18日
 宗門、妙縁寺責任役員会で妙信講に対し、本尊返還請求を決定。
10月19日
 宗門、妙信講幹部33人に対し、宗務院より弁疏を求む通告を送達。
 宝浄寺創立10周年記念本堂改築落成式の砌、細井日達管長「事の戒壇について、ある一派の人はこれが国立戒壇だと云うことを非常に強情に云っております。… 今の時代に「国立でなければいけない」と云って、いくら頑張ったって出来やしない。… だから、昭和45年5月3日、創価学会の総会の時に、私は宗門として公式決定の、「今後、国立戒壇ということは云いません」と皆さんにはっきり申し上げている。… それを、ある元妙信講の人は、私が前に云ったから心が違うんだろう、前に云ったから今も同じだなんて、「云わない」と云っているのに、まだ同じ心だと云っているのだから、どうも困るんですね。…
 結局この、そういう事を幾ら云っても聞かない。だから遂にこの8月12日に、妙信講と云うのを解散を命じまして、日蓮正宗に無くしたんです。そしたらそれが不服になって、大変人を集めて、創価学会へ殴り込みをした。まあ、どっかの暴力団みたいに殴り込みをなさって、… 自分の云う事(国立戒壇)を聞かないからっていって人をひっぱたいたり、殴り込みをしたのでは、これは単なる暴力団に過ぎないということになって誠に残念である。…
 また、妙信講は本部を造ってそこに、御本尊を安置しております。それは、妙縁寺というお寺、本所中之郷の妙縁寺の御本尊を宝物の御本尊を住職がうっかりしてしまって、以前に、「十万所帯の人を折伏するから、御本尊を借して下さい」と云うから、まだ、日蓮正宗の一団体であったから、住職が貸したのです。ところが、今度そういう風にして、宗門から破門されたから、今度は返してくれと住職が云ったら、いや十万所帯作ったら返しますからと云う。じゃあ謗法の信者を十万所帯作られたら、もっと大変な事になってしまう。早く返してもらってくれと云うのだけれども、仲々らちがあかないで、困ってしまう。…
 とにかく、学会の人が、今、1,600万人あるようになっております。それに、法華講を加えれば、純心なる法華講と昔からの檀家を加えれば、まず1,700万近くになるでしょう。それに対して向こうは1万2千人だといっています。まあいえば一握りです。その人に翻弄されてですね、我々の、これだけの多くの人が、信者が翻弄されては仕方がない。困る。皆さんがしっかりした心を持って下さい」(「大白蓮華」142号 )
10月21日
 宗務院、「応ぜざれば法的処置も辞さず」とした、本部会館「本尊返還請求」の第二回内容証明送達。
10月23日
 妙信講、10月19日付けの「宗務院通告」に対し、回答書を送附。
10月23日  創価学会、池田大作会長。来日したパナマのノリエガ将軍と、聖教新聞社で懇談。ノリエガ将軍、「池田先生のいらっしゃる所は、私にとっていずこの場所でも我が家と同じであり、その会長と再会できた喜びは、とても言葉では言い表せるものではありません」と。
10月28日
 妙信講、法廷闘争開始。本部会館本尊守護のため、仮処分申請を東京地方裁判所に提出。
10月28日  創価学会、池田大作会長。聖教新聞社で、パナマ共和国・ノリエガ将軍と、2度目の対談。
10月29日  創価学会、池田大作会長、創価学会代表役員を辞任。北條浩が代表役員並びに理事長に就任。
「創価学会が訴えられても、価学会が訴えるときでも、池田大作には類が及ばぬようにしたのだ。法人としての創価学会の全責任は、代表役員の北条浩に負わされたから、池田大作はやりたいことをやり、その責任は一切負わないという、まことに手前勝手な地位にみずからを置き、実権は相変わらず握り続けたのである。(『「月刊ペン」事件 埋もれていた真実』、山崎正友 )
10月30日  創価学会、野崎勲・志村栄一。京王プラザホテルで、共産党の上田耕一郎・山下文男と初顔合わせ。松本清張、仲介者として同席。『創共協定』調印まで、予備会談は7回持たれた。
11月1日   光文社、「宝石」12月号発行、「次期ノーベル平和賞を狙う創価学会、池田大作会長の悲願」を掲載。
11月7日  東京地方裁判所、妙信講本部会館本尊の仮処分命令を下す。
 浅井昭衛理事長 「緊急を要するのは、本部会館の御本尊を御守護する裁判であります。 先般の『大日蓮』十一月号でも貌下のお言葉として『返えしてくれと云ったら、十万所帯作ったら返すという、じゃあ謗法の信者を十万所帯作られたらもっと大変なことになっちゃう』と、聞くにたえないお言葉が載っておりましたが、九月二十八日付で内容証明が一通、これは松本御能師の名で御本尊の返還請求です。 (中略)
 次には十月二十一日再び内容証明が送られて来ました。こんどは妙縁寺の総代三人連名で、『あと一週間で返さなければ法的処置に訴える』 (中略)  昨年の御入仏の時からもし、妙信講が御遺命守護に立ち上れば、このようなことが必ずおこるであろうと、兼ねて考えておりました。それで実は、この本部会館落成御入仏の日、すなわち昨年の十二月二十二日、松本御能師と堅いお約束の文書を取り交していたのであります。 『十万達成まで日開上人御筆の妙縁寺重宝の御本尊を本部会館安置の御本尊として確かに貸与する』という覚え書きを頂いております。(中略)
 解散以前に貸したのであって、解散させられれば当然取り上げて然るべきだと仮処分の強制執行をかけることも出来る。(中略) そこで妙信講から逆に、仮処分の申請を裁判所に起こした。 (中略) 今回その仮処分の決定が十一月七日に下りました。」(「冨士」 135号 )  
11月7日  創価学会、池田大作会長。聖教新聞第2面に、『永遠の師弟』『久遠誓今眼前激斗』『師弟不二共進共栄』の揮毫を掲載。
11月8日
 宗門、妙信講幹部33名を除名処分。 
11月12日
 妙信講、臨時班長会開催。浅井昭衛理事長、本部会館安置本尊貸与に際し、松本日仁能化と交わした「覚え書」に言及。
「もう事を解決するには、法廷で対決する以外にない。断固として私は四つの裁判をおこします。
 その一つは本部会館の大御本尊をお守りする裁判
 二つには正しい御僧侶・八木直道尊師を守る裁判。
 三つには妙信講の解散処分をはねとばす裁判。
 四つには池田大作と法廷で対決する裁判です。…
 この四つの中で最も緊急を要するのは、本部会館の御本尊を御守護する裁判であります。…
 実は、この本部会館落成御入仏の日、すなわち昨年の12月22日、松本御能師と堅いお約束の文書を取り交していたのであります。『十万達成まで日開上人御筆の妙縁寺重宝の御本尊を本部会館安置の御本尊として確かに貸与する』という覚え書きを頂いております。妙信講が十万に向って前進し、国立戒壇を叫べば必ず怨嫉がおきる。その時、この御本尊を卑怯な者は必ずねらう、… 寝てもさめてもこの事が心配でした。そこで妙信講から逆に、仮処分の申請を裁判所に起こした。…今回その仮処分の決定が11月7日に下りました。…
 私はこの裁判を通じて、一国注視の中で大聖人の御遺命が国立戒壇であること。それを池田が圧力で宗門に曲げさせたこと。猊下の本当のお心は歴代猊下と寸分も違わぬものであることを明らかにしたい」(「冨士」第135号 )
11月14日
 宗門、松本日仁能化は本山に呼ばれ、細井日達管長上人より妙縁寺住職代務者設置を命じられ承諾。
11月15日
 宗門、松本日仁能化。宗務当局に、住職代務者設置拒否の電報を打つ。
11月17日  創価学会、第37回総会開催。
 池田大作会長「『人』への帰命は今日いかなることを意味するのか。… すなわち御書の体得こそが『御義口伝』にお示しの『人』への帰命にあたると主張したい」
 細井日達管長「日本国全人口の三分の一以上の人が、本門事の戒壇の御本尊に純真な、しかも確実な信心をもって本門の題目、南無妙法蓮華経を異口同音に唱えたてまつることができたとき、そのときこそ日本国一国は広宣流布したと申しあげるべきことであると、思うのであります。その時には我が大石寺は、僧侶の指導者たち、信徒の指導者たち、相寄り相談のうえ、大聖人御遺命の富士山本門寺と改称することもありうると、信ずるのであります」(「大日蓮」75年1月号)。
11月18日
 宗門、正副新住職、妙縁寺に入るが妙信講(浅井昭衛理事長と青年部200名)の妨害により退去。
11月25日
 宗門、妙縁寺正副新住職、裁判所の仮処分を以て妙縁寺に入る。
11月26日
 妙信講、11月度総幹部会開催(豊島公会堂)。「松本日仁尊能師 御遺命守護に立つ」、11月度折伏成果 305世帯。研修部を教学部と改称。
 浅井昭衛理事長「まもなく、松本御能師に対して擯斥処分が本山から出されるでしよう。しかし、いかなる弾圧も、すでにいのちを賭して正義を守らんとする松本御能師の心を動かすことはできない。… 御能師は法華講の佐藤総代にも決意を語られたそうです。「事の戒壇がどういうものか、御書・日寛上人の御指南に明らかで、誰がなんと云おうとも動かすことの出来ぬものだ。この大聖人の教えを永遠に残すことが僧侶の任務だ。いま妙信講の浅井さんのやっていることは、本来は我々僧侶がしなければならぬことだ。もし百年後に、あの時僧侶は誰一人守らなかったではないか、といわれれば恥になる。それでは御本尊様に申しわけない」といわれたそうであります。…
 広宣流布は末法濁悪を経て到来する。その末法濁悪は先ず宗門の中にあらわれてくるのです。学会と宗務院が、大聖人のお徳を利用して、利権を貪り御遺命を曲げんとする時、法の為には身を惜まぬ捨身の信心が宗門の片すみにいま出て来たこと、まさしく、やがて御出現の日目上人御出ましの先兆ではないかと私は確信する。…
 まず宗門に不惜身命の大道念がみなぎらなければならない。現在のように、自己保身のために大事の法義を曲げるようなダラシない信心で広宣流布が出来ますか、宗門がこの濁悪を乗りこえて、御在世の信心にかえるため御奉公するのが妙信講の使命であります。…
 やがて一波が万波をよび、国立戒壇が再び宗門の公論となるの日、これを曲げた者は身を震い、おぞけをふるって御宝前に身を投げ懺悔するに違いない。その日はそう遠くはありません」(「冨士」第136号 )
(※ 浅井昭衛理事長の「その日はそう遠くはありません」は、"果てしなく遠い"という意味だった。櫻川 忠 )
12月1日
 宗務院、「元妙信講等処分の経過について」発行、「大日蓮」第346号掲載文書の別刷り。
「七百年間、いかなる迫害にもめげず、生命がけで法灯を守り抜いてきた不屈の伝統に輝く日蓮正宗の猊座の権威に対し『圧力で言うことも言えない』とは、何という言いぐさでしょうか。六十六世日達上人猊下は歴代上人の中でもまれにみる英まい、剛毅な御資質であられることは、宗内で知らない人はありません。その不惜身命の御振舞いに対して、かかる言いがかりをつけることは、信徒として最大の謗法をおかしていると断じても、決して言いすぎではないでしょう」
12月2日  創価学会、池田大作会長、北京大学からの招聘により第二次訪中。12月2日 ~ 12月6日。
 鄧小平副首相と会見、ソ連のコスイギン首相からのメッセージを伝えた。その直後、入院中の周恩来総理は周囲の反対を押し、池田大作会長と会見した。
12月6日
 妙信講、妙縁寺所有本尊一一幅、並びに檀信徒名簿を、妙縁寺に返納。
 (※ 東京地方裁判所昭和五二年四月一四日に成立した和解調書第二項の規定にもとづき、昭和四九年一二月六日に妙縁寺が既に松本日仁より別紙物件目録(二)記載の物件(妙縁寺所有本尊一一幅、檀信徒名簿)の引き渡しを受けていることが確認されている )
12月8日  創価学会、『広布の走者 創価学会学生部史』(第三文明社)発刊。
「大学会と池田会長という『師弟血脈』の契りは後世、広宣流布実現の時どのように歴史家は評価するであろう。日蓮大聖哲の宇宙最極の法理を、この世に表現せしめた大革命の源流にこの師弟のきずなを見落とすことがあれば、それは画竜点睛を欠くことになる」
12月9日  三木武夫内閣発足、三木武夫、第66代内閣総理大臣に任命さる。
 田中金脈問題で田中角栄が辞職、田中の後継総裁候補としては、三木、福田、大平が名乗りを上げていた。自由民主党副総裁の椎名悦三郎は、次期総裁に三木武夫を指名(椎名裁定)した。三木は池田内閣時代に党組織調査会長として三木答申をまとめており、田中内閣の閣僚を辞任して党近代化を訴えていて、クリーン三木こそ金権問題で退陣に追い込まれた田中の後始末を行うにふさわしい人物と考えられた。
12月10日  佐藤栄作、ノーベル平和賞を受賞。受賞理由として「平和裏に沖縄返還を実現した功績」、その基盤となった「核兵器を造らず、持たず、持ち込ませず」という、"非核三原則" の意義が強調された。
12月20日
 宗門、「破邪新聞」を発刊。妙縁寺執事・浜中和道師編集、妙信講の破折と切り崩しを行う。
「妙信講を、徹底的に押さえるために、宗門と創価学会で専門機関が作られた。… 妙縁寺に、執事として派遣された浜中和道師を名義上の編集・発行人として、顕正新聞に対抗するために "破邪新聞" を発行し、妙信講への攻撃と批判を徹底して行なった。この破邪新聞は、妙信講の全講員にダイレクトメールで送り付けられたから、浅井昭衛は、講中に "読むな" "開封せずに送り返せ" などと指令したが、ダメージは深刻だった。もちろん、新聞作りの実際の作業は、浜中発行人ではなく、私と部下の岩住俊典の二人でやった。御法主上人は、妙信講掃討作戦を全面的に支援してくださり、いろいろと応援してくださった」(「あの頃のこと」第十二回 山崎正友「慧妙」第208号)
12月25日
 宗門、松本日仁師を擯斥処分とする。
12月25日
 宗門、富士学林、「戒壇論」を発刊。
 阿部信雄教学部長、再刊後記「軽々しく一信徒の立場で御遺命の文を即断し、法主上人の御教示に背いて御遺命かくの如しという者は、法主上人のみならず御遺命御金言それ自体に背反することを知るべきである」
12月28日
 宗門、久保川法章妙縁寺住職、松本日仁師に立ち退きを要求。
12月28日  創価学会、日本共産党と相互理解などを謳う協定に署名。「日本共産党と創価学会との合意についての協定」、略称は"創共協定" または "共創協定"。
「 第二条 創価学会は、科学的社会主義、共産主義を敵視する態度を取らない 」
 池田大作会長、この直後「宮本顕治より私の方が長生きする。これは私の勝ちだ。いまごろ、代々木は乾杯しているぞ、バカな奴らだ」と漏らす。
 協定の期間は10年とされ、協議によって更新されるとした。協定は公明党と共産党の政党間ではなく、公明党の頭越しに共産党との間に結んだものである。公明党は反発し、公安調査庁や警察が警戒を強め、自民党にも巻き返しの動きが出た。創価学会は態度を変え、協定は公表と同時にほぼ死文化した。1980年、創価学会の顧問弁護士山崎正友を中心とした、宮本顕治宅盗聴事件が発覚。両者の対立は決定的となり、協定の更新は行われなかった。
 月 日  創価学会、この年特別財務をスタート、「それぞれの地域に相応しい会館を建てる」との名目で実施。
 

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