迷走する顕正会を斬る


淺井昭衞会長の足跡と変節

    顕正会年表 (私家版)


      
1月1日
 松本日仁師、「新年を迎えて」
「講員の皆様には、講中としてもあのような予期しない事件に直面されましたが、講頭先生並びに理事長先生の御指導の下、一糸乱れず少しのゆるぎもなく、一致団結して憂宗護法の精神に燃え、万難を排して御遺命守護・折伏弘教に邁進されました事は誠に有難き極みでありました。…
 本年は最早八十四歳の老齢になりましたので、いつ一生を終わるかもわかりませんので、他人様の申される事には頓着なく、せめて此の世に生きている中に、過去世から積んで来た測り知る事の出来ない沢山の罪障を、幾分でも現世に於いて消滅させて行きたい、…
 忍び難きを忍び、堪え難きに堪えて、更に宗祖大聖人の大慈大悲に答え奉るべく、御遺命守護達成の為、一生を捧げ御奉公申し上げ、御報恩の万分の一でもお尽くししたいと、このように考えて居ります」(「冨士」第137号 )
1月1日
 八木直道師、「年頭の辞」
「大聖人の仏法は、寿量文底、独一の本門の三大秘法をもって宗旨の眼目とされているから、この点から拝さねば真実の事はわからないとの仰せである。そもそも本門戒壇と国立戒壇は同意である。御開山上人を始め奉り、とくに日寛上人はその意義を詳細に教義上御教示になり、歴代先師上人もこの御教示のままを拝して、いささかの疑念も動揺もなく、従って珍説異議等の邪説を唱うる者はなかった。
 しかるに第六天の魔王の魅入りしか、創価学会の例の言論圧迫問題、政治進出のためか、昭和四十五年五月三日、日大講堂における学会総会の席上、池田会長は「国立戒壇」の四文字を削除すると宣言し、同席の細井管長も「今後、国立戒壇を言わぬ」と夢想だにもしなかった異説(これが正論だろうか)を主張され、惑耳驚心し、宗内僧俗間に密に疑惑動揺の色を生じたが、いずれも擯斥・罷免・左遷を恐れてか、自己保身のため、表面に押し出して諫言する御能化もなければ、いやんや平僧においてをや。かくてついにこれが「公式決定」となった。
 しかるに唯一人、東京妙縁寺所属妙信講が敢然とその矢面に立って、身も財も総てを投げ捨てて、御遺命の「国立戒壇」の正義を叫び続け、再三諫言糺訴したが、公式決定に反逆したと横暴の事由をもって、無法無慚も甚だしき講中解散という、信仰者に対して死罪に等しい処分となった。その是非はただ大聖人の御裁断あるのみ」(「冨士」第137号 )
1月1日
 妙信講、「降魔の年」とする。
 浅井甚兵衛講頭「昨年来、学会・宗務当局の無懺無愧はあさましき限りであり、まさに「酔へるがごとく、狂へるがごとし」の姿といわざるを得ない。これ広宣流布の前夜、第六天の魔王が正系門家をたぶらかしているゆえである。…
 正系門家に国立戒壇の正義失せればこそ、世間の濁乱もいよいよ盛んである。… 。早く国立戒壇の正義が宗門の公論とならねばならぬ。これを妨げる魔の働きを本年は断固粉砕し降して行こうではいか」(「冨士」第137号 )
1月1日  創価学会、池田大作会長、創価学会本部(模刻)本尊入仏式奉修。
「大白蓮華」1月号発行。細井日達管長の新年の辞、「舎衛の三億」を掲載。
「此の舎衛三億の言葉は今日の我が国内に当てはめて、日蓮大聖人の仏法の流布を鑑みる時は大いに意義の深いこと」と。
1月1日  公明党、竹入委員長、矢野書記長。学会本部へ年始の挨拶、野崎男子部長に詰寄る。
(創共協定について)「まったくもって、えらいことをしてくれた。あんたら気でも狂ったのか。こんな馬鹿なことをしたら、学会も党も自民党と権力につぶされる。… 私は公明党委員長をやめさせてもらいますよ。やって行けないもの」と激しくなじる。(「週刊文春」80年8月21日号)
1月 日  共産党機関紙『赤旗』、宮本委員長と編集局長の対談を掲載。宮本委員長、池田会長が本部総会で、核兵器全廃、ファシズム反対、権力の抑圧に対する人権擁護を述べたことについて、「反共主義ではなくて、反権力、反ファシズムの前向きな姿勢」と評価、「国民の多くが持つ切実な要求が、この団体の活動にも反映している」と。
1月4日  創価学会、「聖教新聞」紙上で「これまでの紙幅御本尊(模刻した元の御本尊)は、学会の重宝として永久に保存されることになった」と報じる。
1月5日
 妙信講、浅井昭衛理事長。班長会で「大聖人様の御裁断の下る日まで、法廷闘争と折伏と諌暁運動の三本の柱を以って降魔の闘いを力強く進めていく」と。「救国の歌」、発表。
「妙信講は、一方で訴訟を起こし、法廷で争う戦術を採った。妙信講そのものの処分無効を訴える訴訟の他に、松本日仁の掻斥処分を争う訴訟、八木直道師に対する処分を争う訴訟、およびそれぞれに対する仮処分異義事件等や多数の訴訟が起こされた。それらに対する対応も、また私に委ねられた。その後、昭和52年の初頭まで、創価学会と妙信講の間の小競り合いは続いた。しかし、すでに宗門にとっても創価学会にとっても、妙信講問題はさほど重要なことではなくなっていた」(「あの頃のこと」第十二回 山崎正友「慧妙」第208号)
1月6日  創価学会、池田大作会長、アメリカ合衆国訪問。1月6日 ~ 1月28日。
 創価学会員、妙縁寺にて松本日仁師を殴打し逃走。
1月6日
 妙信講青年部、妙縁寺にて松本日仁師警護のため、交代で警備体制を布く。
1月10日  創価学会、野崎勲。松本清張宅で松本と共産党の上田、山下に会った際、松本に公表を急ぐように迫られ、「2、3週間のうちに、矢野、竹入に言うつもりである。矢野は執行部の中心である。矢野さえ諒承すれば、竹入も従うだろう」と。(「実録創価学会=七つの大罪」)
 核廃絶1千万人の署名を国連事務総長に提出。
1月15日
 宗門、阿部信雄教学部長。「御法主上人猊下には、… 日本全民衆の三分の一が純真かつ確実な信心を持った時は広宣流布であり、またその時僧俗の関係首脳協議の上で本門寺と称することもありうるという、広宣流布の一大指針を御指南あそばされました。まことに時と望意に叶いたまう鳳詔であると拝察いたします」(「大日蓮」1月号 )
1月26日  創価学会、創価学会インターナショナル(SGI)発足。池田大作、SGI会長に就任。グァムで、第一回世界平和会議開催、細井日達管長臨席。のちに「SGIの日」とされる。
2月12日
 妙信講、「冨士」巻頭言、「一華を見て春を推せよ」
 浅井昭衛理事長「いま学会とその走狗たる宗務院は、歪曲を証伏せぬ正義の者を次々と弾圧し、権力で仏法の道理を抑えんとしているが、愚しき限りである。かかる行為は、御本仏ならびに歴代先師上人を敵とするものである。御本仏大聖人を敵として誰人の身が持とう。必ずその身は亡び、かえって正義は顕われる。見よ! いま各地において真面目なる学会員が続々と正義にめざめ御遺命守護の斗いに加わりつつある姿を ...
 これらの人々が弾圧下の妙信講に加わるは容易なことではない。… あるいは従来の組織から、村八分の仕打ちさえ受けた者もいる。だが、一たび御遺命の正義を知った以上、身を惜んでは大聖人様に申しわけなしと、捨身の決意で御遺命守護の斗いに馳せ参じているのである。そのけなげの姿を見れば、胸にこみ上げるものがある。「一華を見て春を推せよ」と。宗門の片隅で名もなき信徒が続々とこの大道念に立つを見るは、正系門家に国立戒壇の正義蘇える日の近きを物語るものではないか。すべては大聖人の御計いなのである」(「冨士」第138号 )
2月26日
 妙信講、2月度総幹部会開催。「学会員を救おう」、2月度折伏成果 346世帯。
3月1日
 宗門、佐藤悦三郎、第二代法華講連合会委員長に就任。
3月15日
 妙信講、教学部。「当体義抄」講義開始。
3月26日
 宗門、早瀬日慈師総監に復帰、阿部信雄師総監代務を退任。( 院達2509 )
4月4日  創価学会、池田大作会長のヴァチカン訪問を発表。(「聖教新聞」)
4月13日  東京都知事選挙。現職・美濃部亮吉が石原慎太郎候補・松下正寿候補を破り三選。知事選において、革新が大都市を押える。
「2期8年で退任することを表明していた美濃部氏は、昭和50年の都知事選挙で自民党が石原氏を擁立したことから「都政をファシストに渡せない」と急遽三選を目指し出馬したが、その翻意の推進力となったのが創価学会・公明党だった」
「不出馬の決意の固かった美濃部氏が翻意した最大の要因は、やはり竹入委員長が強調した『反自民・反石原』『都民党』という、都知事選の原点を強く認識したことによるものであろう」(「諸君」99年7月号 )
4月14日  創価学会、池田大作会長、第三次訪中。4月14日 ~ 4月22日。
4月15日  暮しのガイド社、下山正行著「これでも池田大作を信ずるか」刊行。公明党の浅井美幸議員、同書を廃棄処分に追い込む。
4月26日
 妙信講、4月度総幹部会開催、「池田大作会長のヴァチカン訪問に警告」。4月度折伏成果 512世帯、総世帯数は 1万3千世帯突破。広島支区誕生。
 浅井昭衛理事長、「池田がバチカンへ行った後でその大謗法を攻めるならば、それは学会の致命傷となろう。だが知っていわざるは無慈悲である。何としても出発前に警告する」と。その後の会合においても、くり返し警告を発した。
4月28日
 妙信講、浅井昭衛理事長、"「大日蓮」誌四月号の歪曲を見て"
「隠れたる佞人にお聞きする。どうして国立戒壇が形式論にとらわれたものといえるのか。また、もし国立戒壇を否定するならば、どのような戒壇が大聖人御遺命の戒壇といえるのか明確にすべきである。よも正本堂を御遺命の戒壇などとは、今更恥ずかしくて云えまい。誑惑というものは、云っている本人が最も内心ではシラけているものである。あれほど喧伝していた正本堂の誑惑、今や歪曲の主犯たる池田大作さえも口にしなくなったのは、何よりもこの事を雄弁に物語っている。
 だが、国立戒壇だけは何としても否定しなければならないということは、會って文部省を欺き、各政党を偽ったため、今さらどうにもならぬという所なのであろうか。自ら犯した偽証の露見を恐れ、正信の徒を弾圧するは、悪に悪を重ねるものというべきである。もう小細工ではどうにもならない。心からの懺悔だけが抜本の解決となるのである。
 管長の名を利用すれば、いかなる重大法義も曲げ得ると思うのは、浅薄の限りである。本宗の信仰は、そんな脆弱なものではない、富士門流の信徒は、そんな甘いものではない。魔の眩惑を見破らずに、大聖人への御奉公が叶おうか。重ねて尊名利用の佞人に強く云いたい。もし管長の名を以って国立戒壇を否定せんとするならば、先ず宣しく猊下の曾っての正しき御指南といまの歪曲の言との自語相違をしかと会通せよと」(「冨士」第141号 )
4月 日  創価学会、池田大作会長。北京で鄧小平副主席と会見。
4月30日
 宗門、細井日達管長、「大日蓮」に「国立戒壇は大聖人の正意ではない。民衆が国主であり、信者の総意によって建てられてこそ本門事の戒壇である」と。(「大日蓮」6月号 )
5月1日  創価学会、「大白蓮華」、「特集・会長就任十五年の歩みと展望」を掲載。
 福島源次郎副会長「師が身をもって実践した真実の軌跡をとどめたこの一書に、… その往復作業の中に妙法への帰命、即具体的実践としての『師への帰命』の展開があり、自身の人間革命もまた一歩一歩進められるのである」(「大白蓮華」5月号 )と。
5月3日  創価学会、「伸一会」発足。中心メンバーに、野崎勲、原田稔。
「ひのくに」第10号発行、村野宏「実践の中に教学を学ぶ」を掲載。
「まさしく、現代における『人』への帰命とは師匠への帰命であり、池田会長への帰命となる。また、池田会長が大聖人の御書を寸分違わず、身に移し実践されていることから考えても、必然的にそうなるのである」
5月4日  創価学会、 辻武寿総務室長、はじめて「入会」の言葉を使用。以後、入信と入会が混在する。(「大白蓮華」4月号 )
5月13日  創価学会、池田大作会長、フランス共和国訪問。5月13日 ~ 5月30日。
5月14日  創価学会、池田大作会長のヴァチカン訪問中止を発表。(「聖教新聞」)
5月16日  日本経済新聞社、池田大作著「私の履歴書」発刊。昭和49年秋に、日本経済新聞に連載された池田大作創価学会会長の「私の履歴書」を、翌年刊行した書籍。「正本堂」の項目がある。
「正本堂 四十五年には、いわゆる言論問題が起きた。じつは、その前年の暮れ、かなり強行スケジュールの旅をし、無理をしたこともあり、私は四十度を超える熱を出し、従来の結核と肺炎が結びついたかたちで、体力を衰滅させてしまっていた。その以前から、なるべく創価学会の運営面については、副会長制を敷いていっさいを任せ、私は、執筆活動などに打ち込みたいと念願していた。四十五年一月、この件を総務会にはかり、副会長制が実施されることになったわけである。
 私が一歩引いたときに、きわめて予想外のところから事件が起きていた。それが言論問題である。 私は、事の真相が初めわからなかった。よくよくその本源を追求していったときに、これは創価学会の体質にかかわることであることを知った。そのことについては、四十年ごろから考え始めていて、なんとかしなくてはいけないと思っていたところであった。それが、意外なところから噴出したわけである。
 四十五年の四月ぐらいまで、まったく熱が下がることはなかった。しかし、これは私が解決しなくてはいけないと思った。私は五月三日の第三十三回本部総会の席上、創価学会と公明党の政教分離の徹底、量より質への転換を示す数々の指針を示した。これが契機となって、創価学会は、強固な創価学会より強靭な創価学会へ変転していったことは、まぎれもない事実である。
 四十七年十月、八百万余の人びとの熱誠によって富士の麓に正本堂が生まれた。… この宗教建築は、庶民から生まれた庶民の施設である。宗教的権威を象徴するのではなく、人類の恒久平和と世界文化の健全な進歩・発展を、民衆が主体者となって祈願する場である。工事にかかってから四年、建立計画を発表してから八年余の歳月を経て、正本堂はその姿を見せた。
 昭和三十九年春に、恩師の遺訓に基づいて、この建立構想を発表し、正本堂建設委員会が発足。私は、その委員長として推進を図った。… この建立資金には、四日間で三百五十億円を超える貴い浄財が八百万余の人びとから寄せられたのである。… 私はこの人びとの真心に応えるためにも、一円のお金もむだにすることはないように、建設委員長として力のかぎりを尽くした。…
 私は、これで、宗門の体制はすべて整ったという実感がした。いよいよこれからは海外である ── 私の胸中の焦点の光は、世界の同志へと向けられていった」
(※ まことに、みごとに嘘で塗り固めた「私の履歴書」である。"私が一歩引いたときに"、"事の真相がわからなかった" と「言論弾圧問題」を他人事とし、正本堂建設委員会委員長として正本堂の意義を捻じ曲げ "御遺命成就" と偽った。妙信講の諌訴なくば正本堂は、「仏教三千年 史上空前の偉業」、「久遠元初以来の壮挙」とされていただろう。櫻川 忠 )
5月18日  創価学会員、松本日仁師殴打犯人逮捕。
5月26日  創価学会弁護士団、八木直道師の裁判で陳述。
「妙信講や債権者の主張を認めることになるならば、日蓮正宗や創価学会が信徒をあざむいて供養金を集めたことにもなり、その信用性を著しく失なう結果となってしまう」と。(「陳述書」) 」
5月27日  創価学会、池田大作会長、ソビエト社会主義共和国連邦のモスクワ大学より、名誉博士号を授与さる。名誉称号コレクションの第1号となった。
6月1日
 妙信講、第17回総会開催(渋谷公会堂)、「池田の姦策から猊座を守れ」
 八木直道師「いま思いおこしまするに、ちょうど昭和四十五年の四月三日、妙信講講頭先生、理事長先生が突如として私の住寺、富士宮の要行寺に御訪問になったのです。… 実は四十五年の三月二十五日に宗務当局に対して「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」という大諫訴状を提出された。それに対して細井管長が両氏を当日招いた、その帰りに私の所へ寄られたのであります。そうして、御両氏のお話の内容というのは、いま申しました諫訴状に対して、管長は両氏を対面所に招いて「誠によくこの諫訴状は書けておる。これこそ本宗の伝統の教義である。国立戒壇はあたりまえだ、ただ学会は政治のためにいえないだけだ」と仰せになって、妙信講の主張は教義の上において誠に正当のものであって一点の誤まりもないと激賞したとの事であります。それで両先生は、非常に喜んで私のところへ立ち寄り、その話をされ、私はこれを聞きまして、本宗の伝統は未だ崩れないのだ、と思わず感激の涙を流したことを、いま眼前に思い出してるのであります。しかるに、その正義はいまはいずくぞや。いわゆる第六天の魔王の見入りしか、この憂宗護法の諫言が、俗にいう "諫言耳に逆う" そうして妙信講を抹殺せんがために、よこしまなる法制を作りあげた、そうして八月の十二日に、一ヵ月違うが大聖人の発迹顕本の十二日に妙信講の解散を命じた」
 浅井昭衛理事長「最近妙信講対策の一環として、創価学会が「破邪新聞」という、ウソで固めた新聞を出しております。その中でしきりと、管長猊下の仰せとして、「妙信講は謗法である、断固宗門追放するまで斗え」などという記事を載せて、盛んに宗門に配っております。… 猊下に関することは極めて重大であります。よって私は本総会で、猊下に対する妙信講の態度を改めて明確にしておきたいと思っております。… 現在、この猊下のお言葉を楯に、「牙城会」と名乗る創価学会の青年部のグループが、集団で妙信講員宅を毎晩回わり「猊下のテープを聞け、猊下がこうおっしゃっている」などと押しかけております。…
 さて、かくのごとき背後の実相を知れば、妙信講員は、断じて池田大作の卑劣なる策略に乗ってはなりません。… たとえ、猊下が自らお書きになり、仰せになられたとしても、断じて御本意ではありません。今後どのような粗悪な妙信講攻撃の言葉が猊下から述べられましょうとも、妙信講員は「これは池田が云わせているのである」として、少しも慣る必要はありません。むしろ "おいたわしい" と思っていただきたい。… 学会との関係で、管長の立場からはもう抜き差しならなくなり、知っていながら歪曲を云い、知っていながら大聖人に背き奉る、この猊下の御苦悩はどれほどでしょうか。… 猊下をかかる窮地に追い込んだのは誰か。妙信講こそこの悪の根源を断ち、猊下をお救いしなければならない立場にある、宗門たったひとつの講中であると私は思うが、いかがでございましょうか(大拍手)。
 次に、御遺命守護の斗いの路線について申し上げたい。本年初頭、折伏と法廷闘争と大諌暁運動、これを三本の柱として『降魔』の闘いを進めると申してまいりました。この三本の柱は御遺命守護の完結の日まで不変であります。…
 最後に御遺命守護の完結の姿について申し上げたい。正本堂の誑惑を言葉で訂正するという段階はもうすでに過ぎ去りました。… 池田大作が辞任をする、或いは、与同した宗務当局が辞任をすればよいのか。そんなことは政治的な解決であり、個人の問題であります。…
 されば、清らかなる元の奉安殿に戒壇の大御本尊がお還り遊ばすことこそ、御遺命守護の完結の姿と私は拝し奉りますがいかがでしょうか(大拍手)。これこそ、御遺命歪曲に対する徹底せる仏法上の清算であります。その時顧みれば、正本堂の誤りこそ事の広布の前夜、正系門家が第六天の魔王に眩惑された、一場の悪夢であったことに気づきましょう」(「冨士」第142号 )
(※ 法廷闘争は2年後に和解で終了、「三本の柱は御遺命守護の完結の日まで不変」ではなかった。そして、浅慮の「御遺命守護完結」は23年後(1998年)に実現したが、その姿は当初の思いとは程遠いものだった。それが "御仏意" ということであろう。櫻川 忠 )
6月1日  オール読物7月号、下田忠男の小説「大寄進」を掲載。下田忠男は、志茂田景樹の本名。「黄色い牙」で直木賞を受賞 (1980年)。境 忠雄のペンネームで「法城壊滅の日」(1978年)刊行。
 創価学会、志茂田景樹に対しスパイ活動を行う。
6月10日  創価学会、第2東京本部最高会議開催。
 池田大作会長「学会のために本山が犠牲になる。学会が全ての主体である」「創価国、創価王国を、地球上に宇宙に作って、みんなを守ってあげよう」
「ひのくに」第11号発行。
 福島源次郎九州総合長「師匠に人法があります。… 更にもう一歩進んで、帰命していこうという決意に至ります。… まさしく、我々の師弟の道はその人法一箇としての師匠というものを、学び取っていかねばならない」
 北風清松九州長「この決意に対して、ただ今拝読されましたごとく、久遠の師・池田会長より、メッセージが寄せられたのであります」(※ 後に廃刊処分 )
6月16日  創価学会、第1回本部中央会議開催、「八王子本山構想」
 池田大作会長、「(創価)大学の近くに数万坪の土地を買って数十億。牧口児童館とか戸田記念館…世界の本部にする。公会堂、講堂、地方の人がもう何千人でも泊まれる恒久的な本部、広宣流布の本山をつくっておきたい。会員から応援してもらって。これでほぼ日本の機構が確立 … 本山は坊さん … どうしようもない。学会は別法人。見事なものをつくりたい」
「創価学会が手段になってはならない。とんでもない。創価学会が原点。日蓮正宗、法華講はおとぎ話 … 創価学会さえ健在であれば、全て守られる。日本、世界も…。その大前提に立って、世界観、創価学会観を築け。一閻浮提の広宣流布のため、世界にも手を打っている」(「79年原島流出文書」)と。
6月 日  創価学会、池田大作会長、福島源次郎副会長と懇談。
「生粋の池田派は中西・福島・原島だな。他は、北条派や秋谷派に属しているから、生粋とはいえない」
6月18日
 宗門、八木直道師、依鉢費請求裁判和解。
6月27日
 宗門、学林開校式開催。
 細井日達管長「ある人から、こういうものを貰いまして、… 九州方面で出している「火の国」という新聞ですね。それに『現在に於ける人々の帰命とは師匠への帰命であり、池田会長への帰命となる』… という事が書かれています。…
 これは本宗の教義とは大変間違っている。帰命という事は、御存知の通り南無である。南無とは帰命である。それ故もし、人本尊としてだれそれに帰命するならば『南無某さん』となってしまう、これは大変な事です」
6月28日
 妙信講、日比谷公園大音楽堂にて「正義宣揚野外集会」開催。創価学会の欺瞞回答訂正文書を文部省に届け、雨中に大行進。
誓願書 文部大臣 永井道雄殿
 請願の趣旨
 昭和四五年四月二三日付創価学会から政府に提出した国立戒壇の意義についての回答は、同会が信奉る日蓮大聖人および日蓮正宗の教義に全く相違するものであります。よって日蓮正宗法華講支部妙信講は右回答の教義上の偽証を指摘し、本門戒壇の正義を示すと共に、右回答が政府ならびに国会を欺いた事実に基き、主務官庁たる文部省が速かに真相を調査糺明せられ、国立戒壇の本義を改めて国会に訂正報告せられるよう請願するものであります」
(※ 文部省は「誓願書」を事務的に受理したに過ぎない。この請願書が、政府や政界、宗門や創価学会に対し、いささかの影響を与えただろうか。この無益な誓願書を出すため、浅井昭衛理事長は宗門から追放され、御遺命守護の赫々たる功績も失い、宗内の立場と諌訴の資格を失った。何という大失態であろうか..。さらに、その失態の上塗りをしたのが、宗門に対し "教義の正統性" を争う「法廷闘争」であった。そもそも、宗教上の教義である "国立戒壇" の正統性の是非を、司法が判断するわけがない。櫻川 忠 )
7月3日  公明党・日本共産の両党、三木武夫内閣の不信任案を提出。
7月4日  創価学会、池田大作会長。
「言論問題のとき、何人かが退転した。反逆した人は結局行き詰まっている。松本(勝彌)なんかも行き詰まっている。大敗北だ」
「いっぺん反逆した人がどうしてやりなおせるか。私は感応妙でだれがインチキかわかる。そんなことがわからなくて仏法の指導者はやってられない」
「いろいろな弾圧があったら世界に逃げて態勢を整えて、その時は反逆者をやっつける」(「池田先生への手紙」原島嵩 )
7月5日
 宗門、細井日達管長 大奥対面所で法華講代表に目通り。
「浅井昭衛は、法主である私の名前を利用し、私が浅井父子だけに内意を打明けたと宣伝しておるのであります。... 何も知らない人達を "国立戒壇こそ法主の内意である" などとあざむくことは卑劣この上ないやり方であり、ことは私の名誉にもかかることであり、放置しておけば宗内のみならず世間までもさわがせる結果になりかねませんので、私は断固たる措置をとります。... 浅井昭衛のいう内意云々はまったくの虚言であり、訓諭及び説法以外に私の真意はないことを、元妙信講の人々にもはっきり伝えて下さい。それでもなお法主の指南がきけず、浅井の指南を聞こうという、そういう人は、もはや本宗の信徒と認めるわけにはまいりません。…
 とかく宗内の混乱は、その立場、資格にないものが相伝を受けた、内容を知っているとか、法主から特別な使命を与えられたと主張するところから起り、何も知らない信者が付和雷同して大きくなっていくものであります。こういうことを言い出す人には、必ずなんらかの野心か下心があることは、過去の実例が証明しております」と。(「大日蓮」9月号 )
7月12日
 妙信講、顕正新聞第42号を、都内主要駅頭にて配布。
7月12日  創価学会、池田大作会長 宮本顕治日本共産党幹部会委員長と対談。毎日新聞の主催により、東京のホテル・ニューオータニ山茶花荘で、約4時間にわたって対談、大聖人の名を呼びすてにする。
「会談から帰ってきた池田大作は側近を集めて、いかに上手く演技し立ち回ったかを自慢した。『宗教と共産主義の協定というのは歴史上はじめてのことだ、後世に残るだろうな』 と、自画自讃する一方で、『しかし、宮本顕治というのは、ずるくて悪い奴だ。二人きりのときは下手に出るが、記者やカメラマンが見ていると、《自分が上だ》ということをことさら態度で示そうとする。本当にいやな奴だ。二度と会いたくない』と、疲れ果て、苦り切った表情で、吐き捨てるように言った」 (「月刊ペン事件 埋もれていた真実」、山崎正友 )
7月21日
 宗門、細井日達管長。
「妙信講はまるで自分が相承を受けたようなことをいっている」
(創共協定につき)「仏教も共産党も共に存して、世の中をよくして行こうというのになんの不思議もない」(「大日蓮」9月号 )
7月26日
 妙信講、7月度総幹部会開催(豊島公会堂)、7月度折伏成果 319世帯。
 浅井昭衛理事長「周の武王と殷の紂王の闘い始まる。学会と宗門首脳の醜い策動に断固たる処置をとる」
7月27日  創価学会、「日本共産党と創価学会との合意についての協定」公表。
(※ 相互理解や敵視政策の撤廃などを骨子とする旨の協定、前年12月に調印。協定の期間は10年とされ、協議によって更新されるとした。創価学会が、公明党の頭越しに選挙戦で直接対峙する共産党との間に結んだもので、公明党が反発。公安や警察が警戒して動き出し、自民党からも巻き返しの動きが出た。創価学会も態度を変え、協定は公表と同時にほぼ死文化した」(「ウィキペディア」)
7月30日  日本共産党、宮本顕治委員長。記者会見で、協定を結んだ理由として「学会が国立戒壇を捨てたこと」と。
8月1日
 妙信講、浅井昭衛理事長。「池田会長が共産党との不可侵条約を結んだ真意は、正本堂の誑惑露見を恐れた故である」と。(「顕正新聞」第45号 )
8月1日  創価学会、「元妙信講問題について」を総B長に配布。
8月1日  公明党、「創共協定」を否定する見解を発表。
8月2~4日  創価学会、特別財務を募る。
8月8日  創価学会、夏季講習会開催。池田大作会長、「あらゆる主義主張の異なった人といえども包容し、理解しあう」と。(「聖教新聞」8月9日号 )
8月12日
 妙信講、創価学会 池田大作会長へ、三度目の公場対決申し入れ。
「然るに池田会長は世間の名利・政治野心から、この御遺命を曲げて正本堂の誑惑を為し、その上純信の信徒を欺いて血の滲む供養を為さしめた。これまさしく仏法の破壊者と云わずして何ぞ。また仏法を曲げれば国亡ぶゆえ、国賊ともいうべきである。
 而も妙信講の諫訴により漸くこの悪計が一国に顕われんとするや、宗門に命じて妙信講を解散せしめ、その後猶講中の抹殺を画策して、あるいは管長猊下の尊名を利用して種々の文書を講員に送附し、あるいは腹心の山崎正友等に悪質の誹謗新聞を刊行せしめ無実の中傷に終始した。
 中にも許し難きは、本年七月五日、亦々管長猊下をして「国立戒壇は本宗の教義に非ず」と云わしめ、これを宗内外に宣伝した一事である。およそ猊下をして大聖人に背き本る言を為さしめるほどの悪はなく、大不忠はない。池田大作よ! いい加減に卑劣を止めよ。自ら確信あるならば、何故自ら発言しないのか。…
 此処に解散処分より一ヶ年を経て、かえって道念ある学会員の続々と正義にめざめるは如何。今や創価学会七百五十万会員は妙信講の正論を耳にし、一同に動執生疑を生じ、いずれが是・いずれが非かの決着を切に望んでいる。されば全学会員の眼前に進んで是非を決するは会長の責務、またその方法は公場対決には如かず。過去再度にわたり対決を申し入れるに、その都度池田会長は猊下の意向を以て回避して云く「猊下には同門同志の対決を禁止せり」と、而して今妙信講は解散・除名せらるれば猊下の制約すでに該当せず、対決を避くべきの理由は除かる。定めて会長には勇躍歓喜ならん」(「冨士」第145号 )
8月12日  創価学会、本部防衛のため機動隊一個中隊の出動を要請。
8月13日
 宗務院、「創共協定」につき、池田大作会長擁護の院達発布。
8月19日  創価学会、池田大作会長、公場対決申を三度拒絶。
 [解説 浅井昭衛]
「過去二回はいずれも「猊下が信徒同志の対決を許さぬゆえ」と返答して来たが、今回はそれが通用しない。よってこの対決申し入れ書に対し、彼は黙殺の一手を用いた。
 解散処分以後の細井管長の発言は、物狂わしい限りであった。「国立戒壇は大聖人の正意ではない」「"勅宣並びに御教書"とは、建築許可ということである」「キリスト教神父を正本堂の完工式に招いて何が悪い」等々の己義が、次々と公の席で述べられた。
 中にも昭和50年7月5日、総本山に法華講連合会の青年部代表を集めて "妙信講と戦え" と唆した時の言葉は、目にあまるものであった。「浅井昭衛は、法主である私の名前を利用し、私が浅井父子だけに内意を打明けたと宣伝しておるのであります。... 何も知らない人達を "国立戒壇こそ法主の内意である" などとあざむくことは卑劣この上ない … 」と。
 この時、細井管長は用意した原稿を読み上げていた。この原稿が山崎正友のそれであることは一点の疑いもない。しかし誰の作製であろうと、発表しているのは細井管長である。管長の振舞いはあまりにも無懺であり、すでに法に過ぎている。それはもう正念を失っているとしか、云いようがなかった。この日の管長発言は、直ちに宗門機関誌「大日蓮」、法華講機関紙「大白法」、そして山崎の編集している「破邪新聞」に載せられた。ここに始めて私は、細井管長に対して「公開御伺書」を差し出し、回答を求めたのである」(「御遺命守護の戦い」浅井昭衛 )
8月20日
 妙信講、本部役員会開催(本部会館)。浅井昭衛理事長、新講頭に推挙さる。
8月20日  創価学会、壮年部代表者集会開催。池田大作会長「我々は日本共産党と共斗する意思はない」と。(「聖教新聞」8月21日号 )
8月21~23日
 妙信講、「御遺命守護講習会」開催(本部会館)。1千3百名が参加。
8月26日
 妙信講、浅井昭衛理事長、細井日達管長へ「御伺書」提出。
「一、国立戒壇について
 二、正本堂について
 三、事の戒壇について
 四、日興上人遺誡置文について
 五、広宣流布について
 六、謗法与同について
 七、猊下の御本意について
「浅井に対し実に七回にわたって、あるいは本宗伝統の正義をお述べになり、あるいは前言の歪曲を訂正なさり、あるいは学会を誡むる等と約せられたこと、猊下にはよもこれらの事実を浅井の面前では否定し得ないことと存じます。これら正義の御発言を妙信講が「猊下の御本意・御内意」と称し七百年来の猊座の尊厳を守らんとするに何の不可がありましょうか。… 然れば歴代先師の仰せのままの御指南は御本意と拝し、然らざるものは学会に阿諂された不本意の齟齬と判ぜざるを得ません。… 而して妙信講への御指南につき、「もし証拠あらば否定せぬ」と仰せあるならば、厳たる証拠を提示公表いたしますが、いかがでしょうか。
 以上七箇条につき御伺い申し上げます。勝手ながら九月十二日までに必ず回答御指南給わるようお願い申し上げます」(「冨士」第145号 )
8月26日
 妙信講、弾圧一周年記念幹部大会開催(豊島公会堂)。浅井昭衛理事長、講頭に就任
 浅井昭衛理事長「本来ならば、私ごとき者が講頭職などを断じて受けるべき筋合いのものではございません。ただし、現在は非常事態でございます。…
 来年九月からは、法廷斗争もいよいよ口頭弁論に入ります。今までの、書類を出しあうという段階から、弁論を以ってその道理を明かすという段階になってまいりました。… 私は、妙信講の当事者として発言の資格を得て、どうしても法廷の場において大聖人様の正義を明らかにしたい。また、その責任がございます。… 講頭先生に指一本触れさせたくない。悪人の相手は私が承りたい。
 現在の重大な段階におきまして、あえて講頭職を受け、名実ともに妙信講の責任者として、御遺命守護の御奉公の終るその日まで、本日より講頭として御奉公させていただきます」(「冨士」第145号 )
8月29日
 宗門、細井日達管長、「勅宣・御教書は許可ということ」と、国立戒壇を否定。(「大日蓮」10月号 )
8月 日
 宗門、細井日達管長。「公開御伺書」受取拒否、三度返送。
8月 日  創価学会、池田大作会長、「弟子分帳」を制作。池田大作の直弟子たる証明として、「記別」の称号を数千人の幹部に与える。
9月10日  創価学会、池田大作会長、「私の天台観」刊行。
9月26日
 宗門、日寛上人第二五〇遠忌大法要。
 細井日達管長「もし国立戒壇が正しい、大聖人の教えが国立戒壇であるならば、その人は世間に向かって云えばいいのです。新しい宗旨を立てて、国立戒壇宗というものを建てたんだといって、世間をどんどん折伏して広げて下されば、結構だと思います」(「大日蓮」11月号 )
9月26日
 妙信講、9月度総幹部会開催(豊島公会堂)。9月度折伏成果 460世帯、総世帯数は 1万4千世帯突破。浅井昭衛講頭「御伺書を徹底しよう。追撃の手をゆるめず、折伏をさらに強力に進めよう」
10月1日
 妙信講、「冨士」巻頭言「時に叶う御奉公」
 浅井昭衛講頭「末法の始に三大秘法が出現して一切衆生が利益を得べき時、悪王と邪僧が結託して正法を失わんとする時は「師子王の如くなる心を持てる者必ず仏になるべし」と仰せである。これ御本仏大聖人一人の御振舞いであられる。
 然らば、いま大聖人の末流として、我らの為すべき「時に叶う御奉公」とは何か。… 大聖人の御悲しみと御憤りを思えば、仏弟子たる者一身を賭してこの歪曲を摧き、御遺命の正義を顕わさなくてはならぬ。これこそ時に叶う唯一の御奉公ではないか」
10月1日  創価学会、「大白蓮華」10月号発行。教師講習会における8月29日の細井日達管長の説法「戒壇について」を掲載。国立戒壇に固執する妙信講の主張を百六箇抄の「脱益・種脱の戒壇」の観点から論難。
10月4日
 宗門、宗会、妙信講を「管長の指南に異議を唱える大謗法」と決議。
10月5日
 法華講連合会役員会、妙信講を「管長の指南に背く師敵対の大謗法者」と決議。
10月8日  創価学会、副会長室、妙信講を「管長の指南に背く師敵対の大謗法者」と決議。
10月13日
 妙信講、八木直道師の導師で御大会式厳修(本部会館)。
10月17日
 八木直道師、静岡地方裁判所富士支部に、地位確定訴訟の第二回目準備書面(擯斥処分無効確認法廷提出書類)を提出。
「一、「公式決定」の無効。
 被告は、昭和四五年四月二七日に被告管長が為したといわれる「本門の戒壇」の意義に関する「本宗教義の本質より鑑み、国立戒壇の名称は不適当につき、今後一切右名称は使用しないこととする」旨の教義上の裁定と、ならびに、昭和四七年四月二八日に正本堂の意義に関して同管長より公布された「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち、正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり云々」との「訓諭」を以て、宗門の「公式決定」と称し、原告が、この「公式決定に違背して解散処分に付された妙信講に加担し、原告自身も「公式決定」に異議を唱えたと主張している。しかしながら、右「公式決定」は、以下に述べる理由により、全く無効である。…
 (1) 手続違反。
 被告責任役員会の不開催。
「公式決定」ならびに「訓諭」の公布が有効であるためには、被告管長のなした右宗務が、被告責任役員会の議決に基づいたものでなければならない(被告宗規第一五条三号・五号)。しかるに右「公式決定」ならびに「訓諭」の公布に関しては、右手続が経られていない。よって「公式決定」ならびに「訓諭」は不存在かつ無効である」(「冨士」第147号 )
10月30日
 妙信講、浅井昭衛講頭。細井日達管長へ「通告書」提出。
11月1日  創価学会、「大白蓮華」11月号発行。北條浩理事長、「仏法の正義と謗法」で、前年の「友好拡大のためなら謗法を犯してよい」との解釈を、軌道修正。
11月1日
 妙信講、浅井昭衛講頭。班長会にて「大悪は日目上人御出現の瑞相、妙信講は身を挺して露払いの御奉公を」と。
11月9日  創価学会、第38回本部総会開催(広島市県立体育館)。
 細井日達管長、創共協定を「真実の仏教の求道者なればこそ、こういう協定ができるものと信ずる」と賞賛。(「大日蓮」12月号 )
11月9日
 妙信講、男子青年部。広島に赴き、創価学会本部総会への抗議活動。
11月30日
 妙信講、広島支区大会開催(平和記念館)。広島支区が支部に昇格、西日本に砦が築かれた。
12月5日
 妙信講、11月度総幹部会開催(豊島公会堂)、11月度折伏成果 585世帯。
 浅井昭衛講頭「来年は諌暁『七年』の大事な節、御本仏の厳たる賞罰近きを確信」
12月15日
 宗門、細井日達管長、「ある講の人が、円妙院日彰上人から相承を受けたということを、盛んに言っている」(「大日蓮」1月号 )
12月21日
 妙信講、青年部大会開催(豊島公会堂)。
 浅井昭衛講頭「そもそも正本堂とは一体いかなる建物か。… 池田大作は政治に出るにつれ、選挙をやるにつれ、国立戒壇が邪魔になってきた。共産党等が国立戒壇について批判をする。これを恐れて彼は「国立戒壇はもう捨てた。国立戒壇なんか御書のどこにもない」と宣言したのです。だが世間は彼のいうことを信じない、そこで国立戒壇を捨てた証(あかし)として正本堂を建てたのです。… されば、まさしく正本堂こそ、大聖人御遺命の国立戒壇を抹殺し、一国を誑(たぶらか)すために建てた殿堂であります。…
 私は来年こそ、大聖人様のこの御憤りと御悲しみを、声を大に叫び、御遺命を曲げた悪人達がたとえ耳をふさごうとも、その心胆に響くまで、徹底して大諫暁を行いたいと思っておりますが、どうでしょうか(大拍手)。
(※ この頃から、浅井昭衛講頭は "正本堂こそ御遺命を抹殺し一国を誑す殿堂" と云うようになった。妙信講は、御供養に参加し御遺命を守護し、正本堂への参詣を願ったのである。登山を拒否され逆切れし、筋違いの正本堂への八つ当たりがはじまった。御遺命守護完結の姿を、"奉安殿に大御本尊がお還り遊ばすこと"、と勝手に定義したことによる。やがて正本堂を、"偽戒壇"と貶めるようになって行く。櫻川 忠 )

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