迷走する顕正会を斬る


淺井昭衞会長の足跡と変節

    顕正会年表 (私家版)


      
1月1日
 宗門、細井日達管長。元旦勤行にて、創価学会員の参詣なきことを憤る。(「大日蓮」2月号 )
1月1日
 妙信講、松本日仁師の導師で元旦勤行奉修(本部会館)。
 松本日仁師、年頭の辞「異体同心で大仏事を」
「一昨年已来から皆様に御心配をかけてまいりました法廷闘争も、浅井講頭先生のなみなみならぬ御尽力によりまして、順調に予定通り進展してまいりまして、いずれ本年中には決着がつきまして、大勝利を勝ち取ることができると思います。つきましては、この法廷闘争と表裏一体となって一致団結、広宣流布のために御活躍あらんことを重ねてお願いいたします」
 八木直道師、年頭の辞「真の仏子の法悦を感ず」
「宗門の一時の恥を忍び、正法護持の大願のためその是非邪正を紀明せんとついに法廷斗争の止むなきに至り、昨51年9月16日東京地裁民事第九部法廷において、浅井先生は国立戒壇の正義放棄の陰謀と本宗伝統の教義の真髄を、三時間に及び余す所無く解明されました。… 悪の根源の肺腑をえぐる大信力をもって御遺命歪曲の全貌を白日のもとにさらし、聞き入る人々に深き感銘を与えられたことは、顕正新聞(昭和51年9月25日号)に委細に記載されております … 今ここに千載一遇とも申すべき御遺命守護の聖戦に参加の光栄に浴し、折伏行に精進されつつある純信の各位の前途を祝福し、新年の詞といたします」(「冨士」第161号 )
1月1日  創価学会、大白蓮華「慈剣」欄で妙信講を中傷。「元妙信講、猊下の悪口を言うことしきり。いよいよ化けの皮がはがれたというもの。『猊下を仰ぎ奉る』『猊下を信じ奉る』等と、かつて形だけ猊下をたてまつっているようで、裏では『後白河法皇』などと罵っていた人間。策士策におぼれると知れ。浅い(浅井)浅い」(「大白蓮華」1月号 )
「日蓮正宗をがんじがらめに縛りつけ、自らの下に置こうとする池田大作の発想は、いったい、どこから出てきた戦略なのか。根本的には、自らを本仏の再誕とし、仏法上の最高権威者に収まり、この国の最高権力者、"国主"となる ― そこへ向けてのプロセスであることは間違いない。しかし、それにしても正本堂完成後、短兵急に拙速ともいえる強引な手法に及んだのには、じつは別の理由がある。…
 昭和45年の言論妨害問題によって、昭和54年に「不開門」を開くという池田大作の「七つの鐘」構想は、ほぼ潰えてしまった。この時に公明党との政教分離を宣言させられ、そして、これに続く妙信講との紛争の中で、「正本堂完成をもって、御遺命の戒壇の達成とする」という目論見も潰えてしまった。… この頃、池田大作は対山荘で、深夜、枕頭に私を呼んで話したとき、「じつは、まだ広宣流布達成ではない、ということで、内心、ホッとしているんだ。戸田先生は、"広宣流布を達成したら、創価学会は解散します"と、宗門に約束されていた。まだ達成していないのだから、"解散しろ"と言われることはない …」と言った。要するに、池田大作は正本堂完成を機に、宗門が手の平を返すのではないか、と内心恐れていたのである。… 宗門から突き放されては、どうしようもない。しかも、池田大作はこれまでの自分のやり方を、宗門が、内心いやがり、嫌いぬいていることを、誰よりも知っていた。… 両者の間に、しこりと不協和音があることを、まず宗内の僧侶方が感じ取り、それが創価学会に対する批判的態度となって現われていることを、池田大作は、敏感に感じ取っていたのである。これらの理由によって、池田は先手を打って、宗門を学会に隷属させるための攻撃に出たのである」(「あの頃のこと」第三十三回 山崎正友「慧妙」第256号 )
1月3日  創価学会、新年勤行会開催(全国放送)。
 一.大聖人御遺命の戒壇建立は創価学会がした。
 二.寺院は儀式の場、我々は広布流布、そして大聖人の御遺命は広布流布。
 三.学会を中傷批判すれば堕地獄。
 池田大作会長「だから、創価学会の信心には、世界一、宇宙第一の功徳があるんだ。こう私は宣言します。いいですか!! あるんですよ。その創価学会を馬鹿にしたり、金儲けの手段にしたり、又は権威でおさえつけようとしたり、又は中傷批判した場合には仏罰があります。全部地獄へ行きます」(「妙観」91年10月15日号 )
 (※ これより創価学会で、"日蓮正宗では成仏できない" との指導がなされ始めた )
「池田大作は再出発に先立って、創価学会にとって内憂の根源であると考えていた宗門との問題を、一挙に片づけてしまおう、と考えたのである。『宗門を完全に支配下に収め、背後の憂いをなくそう。俺にとって最大の目の上のコブは、宗門、というより法主の権威そのものだ。法主の権威を折ってしまえば宗門は屈服する。その上で、"天下取り" に心おきなく乗り出そう』。昭和五十一年暮れから始まった宗門攻撃は、用意周到に計画されたものであった。そして、それは、結局のところ、日達上人御一人に向けられたものであった。
 一、僧侶と寺院の権威と存在価値を否定する
 二、在家優越を宣言する
 三、創価学会根本、創価学会永久路線を確立する
 四、学会員の、寺院参詣や登山を差し止める
 五、日達上人の弟子達を狙い打ちして吊るし上げ、総括する。日蓮正宗の兵糧を断ち、包囲した上で、暴力的に権威を冒涜し、踏みにじる
 六、最後に日達上人に詰め腹を切らせ、辞任に追い込む。その後には、創価学会の傀儡となる僧侶を法主に据え、日蓮正宗を創価学会の支配下に置く(後の離脱僧の出現を見れば、池田大作が、これを実現可能と思っていたことが判るであろう。自分の名聞名利のため、池田大作に宗門を売ってもかまわない、と思っていた売僧が現実にいたのである )
 七、最終的には、池田大作が、法主の権威を奪い、あるいは法主以上の地位につくことで目的を達する
 八、僧侶は、次第に学会の古い幹部と入れ替え、宗門を完全に学会の下部機関化する
 このような意図と計画のもと、池田大作は日蓮正宗攻撃を開始したのである。しかし、池田大作も創価学会首脳も、宗内僧侶の根性の座り具合いを見誤っていた」(「あの頃のこと」第四十四回 山崎正友「慧妙」第277号 )
1月6日  創価学会、第1回創価班総会開催、池田大作会長出席。輸送班を創価班に改組。
1月9日
 妙信講、教学部。三級昇格試験実施、受験者 342名。
1月13日
 妙信講、法廷闘争。浅井昭衛講頭、主尋問で第7回証言。
1月 日
 宗門、富士学林、教学研究誌「富士学報」(第5号)発行、菅野憲道師の「広宣流布と本門寺の意義」を掲載。
「かつて、折伏闘争の成果主義は、本尊流布をもって折伏であるように錯覚し、ために行き過ぎや誤った折伏闘争が頻繁にあった事実を我々は知っている。……これはまた、信徒の広宣流布の概念の中には、数のみが問題であって、質という事が全く省られなかったためもあろう」
 阿部教学部長、宗内に通達を発して「富士学報」第5号の全冊を回収。
「私がアメリカから帰ると、宗務院教学部より通達が来ていた。それは『菅野論文』が掲載された『富士学報』(第五号)の回収命令であった。… 『万一、返送を怠ったことが表れた時は、何らかの措置を講ずることがありますので、必ず御返戻下さい』との一文があった。菅野氏の論文は、なかったものとして阿部教学部長の指示で抹殺されたのである。これでは菅野氏が僧侶をやめたくなっても当然であろう」(「浜中和道回想録」)
「こうした宗門への攻勢が続く中で、宗務院の対応はどうであったか。阿部教学部長は、学会首脳部に、日達上人はじめ宗門内の批判派を粛正する計画のあることをいち早く察知して、これは批判派=日達上人および妙観会と池田大作とその門下伸一会の喧嘩であるとして、自らは『君子危うきに近寄らず』とばかり、日和見を決め込んだのである。
 ところが、そこにやっかいな問題が降ってわいた。同年一月になって宗門の教学研究機関・富士学林の学術誌『富士学報』第五号が発刊され、菅野憲通師の「学会批判論文」が掲載されたのである。こうした宗門と学会との関係が微妙な時期に、自身が総責任者でもある機関誌に批判的な論文が掲載されたことは、池田大作のご機嫌を損ね、そのまま自分が宗門攻撃の矢面にたたされる……こう判断した阿部教学部長は、そこで先手を打って学報を本部に持参した。そして平身低頭して謝罪し、自分の関知しないことで日達上人や若手のやっていることと弁明につとめた。
 すると学会側はこれを契機に批判派僧侶をつるしあげて、日達上人を引責辞任に追い込もうとの作戦に出たため、阿部教学部長も、この機に乗じて次期法主の座をねらおうと、池田大作のご機嫌を取り結ぶことに終始したのである。また早瀬総監らは、すでに学会に弱味をつかまれていたから、身動きもとれず、右往左往して成りゆきに任せるしかない状態であった」(「時事懇談会記録」)  
(※ 論文はのち「継命新聞」(79年10月1日号)に再録される。阿部教学部長、菅野憲通師の論文を創価学会に持ち込み内通、これをきっかけに創価学会による若手僧侶 "吊し上げ" が始まった。 )
1月15日  創価学会、第9回教学部大会開催(関西戸田記念講堂)。池田大作会長、「”人間のため”こそ仏法の根本精神」(仏教史観を語る)を講演。(※ 初級試験の出題範囲となる )
「本義に立てば、現代において創価学会は、在家、出家の両方に通ずる役割を果たしている …
 大乗の菩薩僧の主流は、『大荘厳法門経』の経文のごとく、剃髪せず、俗衣を着した在家 …
 在家の身であっても供養は受けられる
 創価学会の私たちもまた、大法師の名に含めてくださり、今日における真実の出家 …
 日達上人猊下も『有髪、無髪を問わず』とはっきり申されている。すなわち出家も在家もまったく同格であるとの言である …
 儀式だけを行い、我が身の研鑽もしない、大衆のなかへ入って布教するわけでもない既成の寺院の姿は、修行者の集まる場所でもなければ、ましてや道場であるわけは絶対ない …
 大聖人も、一生涯、既成仏教のような寺院はもたれなかった …
 すなわち、学会の会館、研修所もまた『近代における寺院』というべきである」
「1)戸田会長の悟達が創価仏法の原点
 2)大聖人直結、血脈・途中の人師論師不要
 3)「人間革命」は現代の御書
 4)会長に帰命、久遠の師、本門弘通の大導師、 主師親三徳
 5)寺院・会館混同(寺院軽視)
 6)謗法容認
 7)在家でも供養を受けられる
 8)学会僧宝論」
 野崎勲、伸一会メンバーを集め "宗門と交戦・離山" の檄を飛ばす。「宗門に対して我々は断固戦う。第二の身延離山も辞さず。池田先生は徹底して戦われる。伸一会の諸君は覚悟して事に当たっていただきたい。第二の身延離山のことは、妻子兄弟とはいえど口外してはならない。…
 その動機は、池田先生が菅野憲道師(現大阪源立寺住職)の学会の信仰のあり方を問うた論文に、烈火のごとく怒り、私たちに1月15日に「会館は近代の寺院」と発表するから大至急つくれと命ぜられたものです。菅野師の論文をよくよく吟味することなく、ただ「学会を批判した」の一点であの講演となったものです。… その草案は急を要し、私たち何人かで手分けして一晩で作成したものです。… 後に、この菅野憲道師の論文について、反論がつくられましたが、それは、教学部幹部や青年部幹部が勘でつくり、先生に申し上げ、西口浩氏の名前にして発行元を明らかにせずに出したものです。これなども正々堂々と反論せず、ウラで策を弄する証拠と、いまでは恥ずかしく思います」(「池田先生への手紙」原島 嵩 )
1月16日  創価学会、第4回伸一会総会開催。池田大作会長「大聖人の場合は人数も少なかった、時代も違う。弟子も少なかった。信者も少ない。そういう意味からいえば楽である。我々の場合には時代は激動である。そしてマスコミもある。陰険な人間ばかりである。大変なことである」
1月17日
 宗門、細井日達管長。妙修尼法事にて、創価学会の路線を批判。
「最近、宗門と学会の間に冷たい隙間風が吹いてきた感じで、困ったことである。宗門としては今後、向こうがどう出てくるかを、静観していこうと思う。… 将来、学会と訣別することになるかもしれぬが、その時はその時で去るものは追わず、来る者は拒まぬつもりだ。そしてクルミのごとく、堅くじっと古来の正宗の形を守っていこう」(「池田大作 日本経済乗っ取りの野望」山崎正友 )
1月18日  創価学会、方面長・県長・地元最高幹部会合(関西 白浜研修所)。
 池田大作会長「宗門は、キリスト教で言えば旧教で、学会は新教である」
「昭和五十一年暮れの総選挙における公明党の大勝に気を良くした池田会長は、勢いに乗じて一挙に宗門支配の布石を敷くか、さもなくば、宗門教義から一切干渉を受けない、実体としての独立教団確立にむけて、いわゆる創価教団旗揚げの路線を鮮明にしはじめた。それは昭和六十五年(1990)の会長就任三十周年、学会創立六十周年を目標とする、王仏冥合という名の権力支配構想を実現するために、言論抑圧事件以来停滞していた組織の、態勢立て直しのスタートでもあった。
 そのためにまず着手したことは、日達上人をはじめとする宗門内の批判分子の粛清であった。当時、池田大作はさかんに中国に出入りして紅衛兵による文化大革命を賞賛していたから、いわゆる反動分子の総つるし上げの手法を見習い、学会青年部(とりわけ伸一会)を紅衛兵に見立てて、批判的な僧侶のつるし上げにかかったものであった。
 また、これと平行して会内では『教学の年』と銘うち、創価教学の理論構築を計り、自ら代作させた『仏教史観を語る』『生死一大事血脈抄講義』を発表して、既成仏教や僧侶批判にことよせて宗門批判を展開、在家教団としての創価学会の独立の正当化を計った事は記憶に新しい。要するに、創価学会の血脈なるものを案出して、名実ともに池田によるカリスマ支配の体制確立を狙ったものである。
 このような五十二年路線の企図するところは、結局のところ、創価学会が日蓮正宗の信徒団体としての位置づけから脱して、逆に宗門を併呑して、学会の一部局にしてしまうための布石であった。また経本観念文の改訂や会館での法要執行、教師制度の新設、墓地経営等々、次々に手を打ってきたのは個々の信徒をして、日蓮正宗信徒としての意識を払底し、創価学会会員としての意識改革をはかろうとしたものであることはいうまでもない」(「時事懇談会記録」)
1月19日  創価学会、第2回全国県長研修開催(関西 白浜研修所)。
 池田大作会長「供養は、何百億、何千億でも全部 日蓮正宗に。最後はみんな年とって、疲れて、批判だけ受けて笑われて。… 坊主だけ太って、食べて、儲かって … こんなバカな、愚かなことをしておったならば、私がいる間はなんとかなる、福運があるから。僕がいなくなったらどうするか ? … それから登山会、二ヶ月か三ヶ月に一ぺんにしてもらって、これも労力をはずしてもらう」
1月20日  創価学会、第一回「広布会」(寺院総代の会)開催。池田大作会長、全国の寺院総代(責任役員)の幹部を白浜研修道場に集め指示。
「僧侶は女子部を引っかけ、金ばかり集め、芸者遊びやバー・クラブで遊興に耽っている」などと中傷した上で、寺院・僧侶に対する五つの方針を示した。
「一、衣の権威を振りかざし、創価学会の悪口を言う僧侶は、相手にしない。
 二、寺院とは不即不離を原則にする、寺信心になると信心が濁り、折伏もできなくなる。
 三、僧侶のやろうとすることや言動を、速やかに本部に報告せよ。
 四、会員を守るため、責任役員の立場を活かせ。総代も住職と同格である。
 五、寺院の世話役に成り下がるな。僧侶の素行を監視し、証拠を掴んで報告せよ」
(「あの頃のこと」山崎正友、「慧妙」2004年4月16日号 ) (※ 文意を要約 )
 池田大作会長「陰で学会の悪口をさんざんいっているという、… 信者をいじめたり、女子部をひっかけたり、バーいって、札ビラを切りながら学会の悪口をいったり、ホステスなんかみんないるから、みんな入ってきてしまう。… 池田会長のことを御本仏といっているから、けしからんと。みなさん、いいましたか、御本仏と。そんな仏(ほっとけ)の話なんかわざわざつくって本山にざん言するのです。なんでも今度の論文もそうなんです。会長は御本仏と学会はしてると、私が御本仏、御本仏といって。 … だれかいってたねえ区長さんが、"御本仏だったら向こうから拝みにくればいいじゃないか。ゼニばかりとって"。… 広宣流布のやり方が間違っていると、今度は、そういう論文を書いているのです。そうだろう、「富士研究(学報)」という本があるんです。秘密に「蓮華」という本がある。全部、そこにそういうことを書いている。… 私たちは、正本堂だってはじめはね、ご供養の時に "事実上の事の戒壇だ" といったから全力をあげたなら、こんどは違うというんだもの。それで、やっと "現時点" にすると、それで妙信講動かした。ペテンですよ。そうでしょう、それじゃ。ちゃんと発表したんですもの。… みなさん方は、責任役員なんだもの。役員という意味においてはね、住職と同格なんですから、そうでしょう。それをただ、何でも、へいへいへいへいと言っていたら、役員じゃないもの」
「第一回の広布会は、池田大作が指示して、聖教新聞には全く内容が掲載されない、秘密の会合として行なわれた。この時の池田スピーチの内容は、あまりにもひどい話の連続であった。池田の話しぶりは、あたかもチンピラヤクザが、相手を追い込むような口調で、御法主上人猊下をはじめ、御宗門、御僧侶に対する、無慚きわまりない誹謗・中傷を延々と繰り広げたのだ。そこには、池田大作が「学会員総代」たちに、「法主は権威主義」「僧侶は堕落」という概念を植え込み、洗脳しようとする、狡猾にして小心な、しかも、日蓮正宗に対する深い怨念が感じ取れるのである」(「続・偽仏の"如是我聞"を検証する」小多仁 伯「 慧妙」2004年7月1日号 )
1月20日  創価学会、原田稔年部長・野崎勲男子部長等、菅野憲道師を創価学会本部に呼び出し、数時間にわたって監禁・恫喝、池田会長宛の詫び状を書かせる。創価学会はこれを "つるしあげ" ではなく "話合い" とする。以後、僧侶への「吊し上げ」事件続く。
「1月20日、まず、日蓮正宗若手僧侶の中でも、反学会の急先鋒的な論客であった菅野憲道氏に対する、学会青年部によるつるし上げで火ぶたが切られた。原田稔副会長らを実行部隊の長とする青年部幹部は、反学会的とみられる僧侶を次々とつるし上げて行った。… この "つるし上げ" について、事務局長的な立場の竹岡誠治氏の書いた報告書のコピーが、手元に現存する。
 同文書によれば、
『本年一月より、詫び状をとった坊主は、次のとおりです。
 1月20日、27日 菅野憲道、
 1月28日、29日 松本珠道、
 2月6日、7日  坂井進道、
 2月12日、14日 栗林開道、
 2月16日、22日 小野顕道、
 3月12日     西本暁道、
 3月14日    中村福道、
 8月3日     玉沢研済 』
 この報告には、学会側担当者、詰問内容や時間等がくわしく書かれている。つるし上げられたメンバーは、日達上人の直弟子達であり、創価学会は、はっきりと日達上人に照準を当て、その責任を追及して退座に追い込み、そのあとに、自分達のいいなりになるカイライ法主を擁立しよう、というのが最終目的であった。その上で、創価学会にたてつく僧侶は一人のこらず宗門からたたき出す、池田大作はこう目論んでいた。
 日達上人と日蓮正宗は、まったく不意をつかれた形となり、創価学会側の、これでもか、これでもか、とくり出す攻勢に対して、対応の準備もなかった」(「池田大作 日本経済乗っ取りの野望」山崎正友 )
「昭和五十二年に入ると池田大作は、元旦から宣戦布告を行なうとともに、次々と攻撃の手を繰り出した。前々回に述べたとおり、「創価学会中心主義」「創価学会万代路線」を高らかに宣言し、寺院僧侶不要論をブチ上げた後、日頃創価学会に対して批判的な日達上人のお弟子達を、青年部が集団で吊し上げ詫び状を書かせる、という暴挙に出た。野崎勲・原田稔らの指揮のもと、青年部幹部が御僧侶を学会本部に呼び付け、あるいは会館や寺院で吊し上げた。汚ない言葉で罵り、大声で怒鳴りつけ辱め、それでも頭を下げない御僧侶に対しては、「お前が謝らないなら、総本山へ大挙して押しかけ、猊下を吊し上げるぞ!!」と脅した。竹岡誠治(共産党宮本委員長宅電話盗聴事件の実行犯)らは、情報の取りまとめ役として係わっていたが、吊し上げに立ち会った感想を、私に「これで、宗門と学会の間は決定的に壊れたなと思った」と語った。ここまで辱められては、もはや人間として絶対に許せないだろうと思われる吊し上げを、たくさんの御僧侶に対して行なったのである。後に、吊し上げを受けた僧侶達のほとんどが「正信会」に走った。「正信会」ができる原因も、じつはこの時創価学会が播いたのである」(「あの頃のこと」第四十一回 山崎正友 「慧妙」第271号 )
「(山崎正友)『筋としては "菅憲" の言い分が通っていた』と原島が言ってたよ』… 『結局、野崎たちは、そんなんじゃ、詫びじゃないと言って、"菅憲"に詫び状を突き返したんだけど、池田さんはカンカンらしいよ。アイツらは絶対に"菅憲"を首にするとか、寺を潰して会館にする、山に押しかけて猊下に談判するとかメチャクチャに頭にきているよ』…
 後日、菅野師が話してくれたが、論に詰まった野崎氏らは、『坊主のクセになんで結婚している』とか、『お前は学会の女子部を引っかけた』、そして『土下座しろ、土下座しろ』の連発であったとのことであった。
 私は山崎氏に阿部教学部長(註、後の第67世法主阿部日顕)はどうであったか尋ねた。『阿部さんはね、もうオロオロして、野崎らと一緒になって『あやまれ、あやまれ』と言っていただけみたいですよ。でもあとで野崎らは"菅憲"のことを『敵ながらあっぱれ』と言っていたみたいだよ。それに比べて『なんだ、"阿部教"は』というのが、青年部の感想ですよ。その阿部教学部長の情けない姿が目に浮かぶのか、山崎氏は大きく笑った」(「浜中和道回想録」)
1月25日
 妙信講、1月度総幹部会開催、女子部組織を充実。
 浅井昭衛講頭「本門戒壇の本義とは、戒壇の大御本尊の妙用により、日本を仏国土とすること」
1月26日  創価学会、第2回インタナショナルの日。
 池田大作会長「大聖人は七百年前に出現なされた。しかし、全然広まらなかった。創価学会が正しいんです」
1月27日
 妙信講、法廷闘争。浅井昭衛講頭、主尋問で第8回証言。以って、主尋問における証言終了。
1月28日  創価学会、池田大作会長。教学部代表と懇談、創価学会独自の観念文を作るよう指示。
2月1日  創価学会、「大白蓮華」2月号発行。特集「青年と教学」、原田稔青年部長「師弟不二の教学運動」を強調。
「慈剣」欄、「戸田前会長が現代の宗教界の封建性をつき、坊主を『無用の長物』と破折し、宗教革命を断行していた事実 … もはや衣の権威などは、腐敗と堕落の象徴といえる。創価学会の戦いは、当初この最も根強い病巣へのメスを入れることから始まった」
 著名な評論家、「国立戒壇を打破し、世界普遍的な宗教に路線を決めた事は先見であり、日蓮仏法の永遠性を昇華しましたね、… 仏法を世界に流布し、衰退の宗門を日本的 世界的にしたのは池田会長であり、創価学会でしょう」(「同誌」2月号 )
2月2日  創価学会、第1回社会部勤行会。
 池田大作会長「いわゆる日蓮仏教と称する各宗派の発生と、その歴史を概括すると、その流れは 1) 教条主義的狂信 2)権威主義的堕落 3) 企業的体質 4) 犠牲による玉砕 等々の形態に分類できる。… 既成宗教の誤れる偏狭で慢心の行為は、この『時』をわきまえず、法のもとに人間を独善的に従属させたところにある」
2月3日  創価学会、第3東京壮年部勤行会。
 池田大作会長「御書に『信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり』とある。これは成仏への案内人ともいうべき "学会指導" を活動の基盤にすえなければ、御本尊を持ったとしても、そこに真の人間革命、境涯革新の実現はありえないという重要な御文である」
2月5日  創価学会、第1回東京教育部勤行会。
 池田大作会長「たしかにキリスト教は、世界的な宗教へと発展したが、中世における教会の勢力の増大が、結果的に教会主義に陥り、民衆を宗教の奴隷へと追いやってしまったことも、多くの識者が鋭く指摘しているところである。この歴史の教訓によって私たちは、教会なり伽藍というものは、つねに民衆の側に立つべきであり、教会は神と人間との間に立ちふさがる障壁であってはならないことを学ぶことができる。マルチン・ルターの宗教改革の原点も、まさにここにあったといえよう」
2月7日  月刊ペン裁判、第4回公判。弁護人証人として渡辺文太郎、松山治郎駒沢大学教授が出廷。
2月中旬  創価学会、拡大Z会議。「元民音職員の松本勝彌らが起こした "正本堂御供養金返還請求事件" や "民音不当解雇事件"、妙信講との間の数件の訴訟事件や仮処分異議事件等とともに、『月刊ペン』事件の進行についての報告と、今後の予定が討議された」
2月10日
 宗門、法廷闘争。妙信講に対する、反対尋問開始。桐ヶ谷章弁護士、準備を理由に次回期日の延期を、裁判長に申し入れる。
2月11日  創価学会、第26回男子部総会。池田大作会長、「彼(ビクトル・ユゴー)は、『宗教的権威の象徴となった法衣という虚飾のマントを脱ぎ捨てよ』と激しくエセ聖職者を糾弾し、社会悪に対する慈悲の思想が流れるこの作品(レ・ミゼラブル)を『宗教的な本』と自ら定義した」等と述べ、宗門から小説『人間革命』の記述に何らかのクレームがついていることをほのめかした。
 池田大作会長。中原正男ほか多数に「広宣流布血脈の新弟子たるを証す」との新弟子証を発行。
「池田大作はこの頃、代々会長に伝える "重宝" を定めたり、『創価学会は永久に存続する。後世、"創価学会仏” と呼ばれるようになる』等と発言し、自らを、日蓮大聖人の再誕であるとの演出を開始 … 日蓮大聖人の故事にならって『本弟子』『新弟子』を定めたりしている。私も、原島嵩氏も、また行方不明とされた細谷昭氏らもレッキとした新弟子であり、竹入義勝氏、竜年光氏、矢野絢也氏らは、本弟子である。もっとも、池田大作は造反者の出ることを予感していたようで、『背いた者の名は朱線で消し、"背き了んぬ" と書く。その者は地獄に落ちる。そうならないように心せよ』と脅した」(「池田大作 日本経済乗っ取りの野望」山崎正友 )
2月15日  創価学会、池田大作会長、第二東京壮年部勤行会で、「『宇宙即我』『瞬間即永遠』『一身一念法界に遍し』の原理で、題目による生命の無線は、宇宙に還元された死後の生命にも瞬間のうちに通じ、連結していく。これが仏法究極の回向となるわけである」と。
2月16日  創価学会、日蓮大聖人御聖誕御報恩記念勤行会。
 池田大作会長、「この日興上人の遺誡置文どおり、広宣流布のため戦っている創価学会を軽んじることは、即日興上人のご遺誡を軽んじ、同時に日蓮大聖人のご精神に反するものであります。皆さん、この点いかがでしょうか …
 日達上人猊下は、かつてこの創価学会に対し、謗言をなす人間が、どのような結末となっていくか訓諭において、次のように断言しておられる。『若し聊爾たりとも、此の清浄無比にして護惜建立の赤誠に燃ゆる一大和合僧団創価学会に対し、実にもあれ不実にもあれ謬見を抱き謗言を恣にする者ありとせば、其籍、宗の内外にあるを問わず、全て是れ、広布の浄業を阻礙する大僻見の人、罪を無間に開く者と謂うべし』と」
「この原稿も、池田先生が骨子を私に話してくださり、それをもとにつくったものです」(「池田先生への手紙」原島 嵩 )
2月 日
 宗門、細井日達管長。学会問題を憂うる僧侶と目通り(大奥対面所)。
 ある学会県長の「創価学会の広宣流布と日蓮正宗の広宣流布とはちがう」発言に、創価学会幹部の意識を厳しく批判。(「慧燈」第8号 )
「この、"寺院もうで禁止令"は、昭和52年になって更に徹底され、幹部が毎日寺の玄関を見張り、下駄箱の下足の数をかぞえる、という有り様だった。こうした措置や、つるし上げの実態が広まるにつれて、宗内には異様な空気がみなぎった。創価学会の力を恐れて、"さわらぬ神にたたりなし" をきめ込む者もいたが、大勢は、『このまま追い込まれるなら、寺はのたれ死にするしかない。それならば死にもの狂いで反撃しよう』という空気が大勢を占める勢いとなった」(「池田大作 日本経済乗っ取りの野望」山崎正友 )
2月 日
 宗門、細井日達管長。文京区西片町の大石寺出張所に山崎正友を呼び、お仲居の光久諦顕師と二人ですきやきを馳走し接待。
「ここまで日蓮正宗をふみつけにされては、いよいよ腹を決めるしかありません。私も歳だが、このままでは、霊山に行って歴代の御先師方に会わせる顔がない。根性のある僧侶と、根性のある信者を頼りに、ひとつ戦うしかありません」と述べられ、「山崎さん、あなたとこうなったのも御仏縁だ。どうか、日蓮正宗のために力を貸してください」と、私ごとき者に頭を下げられた」(「池田大作 日本経済乗っ取りの野望」山崎正友 )
「私もいちおう学会首脳で、池田先生の側近の一人といわれています。正直言って、立場は非常に困難で苦しいのです。… 猊下におかれましても、直ちに、宗門と創価学会、猊下と池田先生が、公然と仁義なき全面戦争になって争ったら、社会的な影響も大きいですし、今、共同して対処している妙信講問題等も収拾がつかなくなります。どうか、しばらくは、慎重になさってください」(「あの頃のこと」山崎正友「慧妙」2004年5月16日号 )
2月 日  創価学会、山崎正友、北條浩理事長に「一切、手を引かせてください」と申し出る。
「そうなると全面戦争になります。完全に決裂するでしょう。それでは、創価学会と宗門の協力を前提に進めている、妙信講対策や正本堂御供養金返還訴訟もブチ壊れます。また、マスコミが大騒ぎするでしょうから、いろいろと攻撃を受けるでしょう。『月刊ペン』事件も、そうなると収拾がつかなくなります。せっかくの裏工作もパーになります。多かれ少なかれ、言論問題の時のような状況になります。そうなれば、これらの仕事は私の手にはおえませんので、この際、辞退させていただきます」(「あの頃のこと」山崎正友 「慧妙」2004年6月16日号 )
2月21日  創価学会、第3東京男子部勤行会。池田大作会長、国立戒壇を批判。
「七百年前の時代にのみ通用した時代性をおびた論理を、今日もまったく形態的にも同じにしなければならないとすれば、われわれはいまだに "わらじ" をはいて生活しなくてはならないことになる。また日蓮大聖人の仏法は『一閻浮提』という世界の民衆に対して説かれた本源の哲理であるにもかかわらず、これを『国教にせよ』という教条的論理がまかり通るとするならば、御本仏の意に反することはとうぜんのこととして、世界の民衆を冒涜することに通じよう」
2月22日
 宗門、院達にて創価学会に対する僧侶の反発を抑え、創価学会に屈服の姿勢を取る。
2月22日  創価学会、第5東京男子部勤行会。池田大作会長、反逆者に言及し "我見、我慢、偏執、はったり、臆病、驕慢" と批判。
「信仰の本義から逸脱した人間の生き方というものは、往々にして非常識な "火の信心" から始まっている … 例外なく本部の指導を無視するばかりでなく、その振る舞いはすべて我見であり、我慢偏執の "はったり的" な言動にもとづいているといってよい。… 反逆者の傾向性というものは、大聖人ご在世当時の三位房等の例でも明らかなごとく、我慢と臆病な生命から発している。… それは、自分こそ最高に偉い人間と思いあがった存在にほかならない。臆病で驕慢な習性は、機をうかがい相手が弱ったとみるや、謗法と結託して派閥をつくり、社会的な事件を引き起こし、結局、最後は敗北の姿を現ずるであろう。仏法違背の行く末は、かくも厳しい仏法因果の明鏡に、歴然と残されていくわけである」
(※ "我見、我慢、偏執、はったり、臆病、驕慢" は、池田大作会長自身によく当てはまる。そして、浅井昭衛会長にも..。櫻川 忠 )
2月27日
 妙信講、2月度総幹部会開催(豊島公会堂)、2月度折伏成果 423世帯。
 浅井昭衛講頭「池田大作の一連の妙信講誹謗発言は、周武の斗いの本格化におびえるゆえ」
3月1日  創価学会、金舞会館開館記念勤行会、池田大作会長、しきりと妙信講を誹謗。
「宗教というものは、形式、儀式というものを尊重し、荘厳なふんいきをつくりあげて、民衆を誘引しようとする傾向をもっている。これは教低きがゆえの粉飾といっても過言ではない。しかし、現代においては、そうした"虚像"が、民衆から見放されつつある。… 分身散体の義にもとづいているのであり、どの御本尊も、その功徳無量の力用に変わりはない。大聖人が御図顕された御本尊と等しいのである。あとは、信心の厚薄によって、おのおのの信力、行力をいかに仏力、法力として顕現させるかである」
3月 日  創価学会、宗門攻撃を一時抑えて、懐柔策に出る。
「北条浩氏は首脳を集め、私の強い進言ということで、攻撃中止をはかった。… 池田大作も、どこまでやるか、日達上人を退座にまで追いつめられるか、自信がなかったところであったから、同意せざるをえなかった。しかし、"経済封鎖" だけはゆるめなかった」(「池田大作 日本経済乗っ取りの野望」山崎正友 )
3月6~9日
 妙信講、本部指導会。連続四日間行われ、浅井昭衛講頭「開目抄」の一節を指導。
3月9日
 宗門、細井日達管長。「今の状態を、流れの上からいうと広宣流布である。或る人はまだ広宣流布してないとか、広宣流布してないのに戒壇の正本堂を建てたとか悪口をいう人があるが、それは考えが小さい。全国津々浦々にまで一人の謗法もなく、広宣流布してゆくということは無理なことである」と、妙信講を論難。(「大日蓮」4月号 )
3月9日  創価学会、立宗記念勤行儀式奉修。池田大作会長「恩師戸田前会長は、だれから教えられたわけでもなく、獄中において自らが仏法の極理に肉薄し、悟達の境涯に達せられた … 大聖人が大御本尊を残されて入滅された後は、だれが地涌の菩薩として広布流布を進めて行くのか。ここに戸田前会長の、大聖人御入滅七百年後の出現が重大な意味をもってくる」
3月15日
 妙信講、入信勤行の際の指導要綱「新しく入信された方へ」、入講勤行の際の指導要綱「創価学会から新しく入講された方へ」作成。(「富士」第163号 )
3月15日  創価学会、創価班大学校発足式開催 (地涌会館)。
3月16日
 妙信講、教学部、「立正安国論」講義開始。
3月24日
 宗門、法廷闘争。妙信講への第2回反対尋問。桐ヶ谷章弁護士、浅井昭衛講頭に論破され、裁判長も失笑。
3月26日
 宗門、法華講春季総登山会(大石寺大客殿)。細井日達管長、創価学会の法華講への非難を、間接的に批判。「法華講の方々が、真面目に働いているのに、よそから色々のことを言われるということも聞いております。自分等は、大聖人様の仏法を間違いなく信心しておる。その清い心を持ちていくときには、必ず最後はその清さが顕われて、仏様の加護があると深く信じなければならないのであります」
3月26日
 妙信講、3月度総幹部会開催(豊島公会堂)。浅井昭衛講頭「法廷斗争は4月が山場、私は断じて勝つ。4月こそ『決戦の月』である」
3月31日  創価学会、第2回学生部最高会議開催。池田大作会長「御本仏に直結した運動でなければ、末法の『四弘誓願』の行たる広宣流布も推進できないからである。この生き方を根本とせずして途中の人師、論師を基準としたときには、大聖人の真意はもはやわからなくなり、御仏意にかなった真の宗教革命の軌道から大きく逸脱していこう。… この法体の広宣流布の”結晶”ともいうべき御本尊を受持し、その功力をいかに時代に即して、社会に反映し顕現させていくかこれが、化儀の広宣流布の意義なのである」
4月1日  創価学会、勤行要典の観念文を改変。
 四座に「祈念し奉る創価学会興隆、慈折広布、大願成就の御為に」
 五座に「祈念し奉る創価学会初代会長・牧囗常三郎先生、二代会長・戸田城聖先生、死身弘法、御報恩謝徳の御為に」(「大白蓮華」4月号 )
4月2日  創価学会、静岡研修道場(創価山・牧口園)にて、僧侶不在で戸田第二代会長20回忌法要を営む。池田大作会長、「第五十九世日亨上人も、もしもこの両会長がおられなかったならば、今日の宗門の存在はない、とはっきり明言されている … 最後に、後世のために留言しておきたい。それは、われわれの最大の恩人である牧口初代会長、戸田前会長への報恩の信心を失い、学会を守る心がなくなった人は、もはやその姿は"五老僧"であり『身はおちねども心おちる』不知恩の者といわざるをえない」と、宗門を暗に"忘恩の徒"と非難。
4月14日
 宗門、法廷闘争。第3回反対尋問。創価学会弁護団、尋問継続不能となり中途で打ち切り。和解条項を以って、訴訟取り下げを申し入れる。二年六ヶ月の法廷斗争ここに決着。
「数ある妙信講関係の訴訟の中でも、松本日仁が原告となっている地位確認訴訟が、妙信講にとって、一番、勝訴の見込みが残っていた(他の訴訟は、すでに宗門側勝訴の見通しがついていた)。松本日仁の死亡により、この訴訟が中断してしまうと、妙信講側の旗色は極めて悪くなる。…
 松本日仁個人の1億2千5百万円の預金を、顕正寺建立準備資金口座へ振り込むことで、宗門・学会への一切の訴訟を取り下げ、"和解"」(「あの頃のこと」山崎正友、「慧妙」2001年10月1日号 )
(※ 浅井昭衛講頭は、三条件(本部会館本尊の安泰・日蓮正宗の名称使用・新寺院の建立)を以って、「法廷闘争大勝利」と講員に説明した。しかし、裁判所は「誰が、何の目的で、どのようなからくりを用いて御遺命を曲げたか」という教義論争に介入せず、浅井昭衛講頭の論述は空を切った。"不変の三本柱"と位置づけた法廷闘争で和解の結果、浅井昭衛講頭は「解散処分=宗門追放」を、自ら受け入れた。櫻川 忠 )
4月14日
 宗門、法廷闘争、東京地方裁判所民事九部にて、妙信講と和解成立。
 「和解調書 事件の表示(省略) 期日 昭和五二年四月一四日 午後三時三〇分  場所 東京地方裁判所 民事九部 和解室 和解条項
 一、(略)本件および別紙事件目記載の各訴訟事件の紛争の核心が宗教上の教義解釈の相違にもとづくものであって、裁判所の判断により最終的に解決さるべき問題ではなく、むしろ今後それぞれの宗教活動の成果によって当否決せらるべき事柄であることを相互に確認する。…
 二、2 松本日仁は妙縁寺に対し、別紙物件目録(二)記載の物件を直ちに引き渡す
  (但し、妙縁寺および松本日仁は、妙縁寺を債権者、松本日仁を債務者とする東京地方裁判所昭和四九年(ヨ)第七八六三号仮処分申請事件につき、昭和四九年一二月六日に成立した和解調書第三項の規定にもとづき、妙縁寺が既に松本日仁より右物件の引き渡しを受けていることを確認する)。
  物件目録(二) 妙縁寺所有本尊一一幅、檀信徒名簿
 三、1 当事者全員は、第一項記載の旨にかんがみ、本日それぞれ(一)ないし(八)に記載するとおり、訴(申請)の取り下げもしくは右取り下げに対する同意をなす。…
 2 当事者全員は、第一項記載の趣旨にかんがみ、別事件目録記載の各訴訟事件につき、今後再び、同もしくは反訴の性質を有する訴訟の提起の他なんらの法律上の手続をとらないことを相互に確認する」(「大白法」 昭和52年5月16日号)
4月14日  創価学会、池田大作会長、細井日達管長の誕生日を祝し夫妻を招待。
 席上 細井管長、池田会長に「七百年遠忌記念法要」の委員長を委嘱。
「池田大作は宗務院を通して、『悪いのは猊下です。猊下が宗門僧侶をきちんと指導されないから、こういうことになるのです』との意を述べ、日達上人が『すべて、私の責任です。すみませんでした』と述べられたことで、創価学会の攻撃は終わった。あとで、秋谷栄之助氏(当時副会長)が私に、『あと一歩で、猊下を責任取って辞めさせられるところだった …』と残念そうに言った」(「あの頃のこと」山崎正友「慧妙」2004年6月16日号 )
4月16日
 宗門、勤行観念文の改変了承。五座に、創価学会 初代・二代会長への「御報恩謝徳」追加。
4月16日
 宗門、火災発生。大石寺、正本堂前の西寮150坪、全焼。
4月20日  月刊ペン裁判、第5回公判。検察・弁護側双方の申請により、鑑定人の立場で”刑法の権威”藤木英雄東京大学教授が出廷。名誉毀損罪の免責三条件である「真実性」「公益性」「公共性」について言及。
4月 日  民社党、春日一幸委員長。創価学会による国立公園等での違法な開発、施設設置を糾明する国会「質問主意書」を公明党竹入義勝宛に送付。「創価学会は、近年、全国的に莫大な不動産を取得、保有し、その巨額な資金や取得目的につき、一般に疑いを抱かせるものがある。よって、その疑問を解消するため、左の諸点につき、政府は事実を明らかにし、且つそれに対する見解を表明せられたい」
「北条は … 急遽、山崎正友などの参加を求めて全国施設の総点検と、善後策を決定するプロジェクトチームをつくった。調査の結果は最悪のため、取り壊しや改造を進める一方、公明党は民社党と折衝を進め、なんとしても国会質問だけは取りやめてくれるよう頼みこんだ」(「実録創価学会=七つの大罪」)
「同年4月末、民社党党首(春日一幸氏当時)から竹入義勝公明党委員長(当時)に送られてきた一通の書簡に同封された、"衆議院における質問趣意書" が、池田大作と創価学会首脳を一瞬にして凍りつかせてしまったのである。民社党が衆議院議長に提出する、と言ってきた質問趣意書には、池田大作が特別財務で全国に建てた会館や研修所にかかる、違法開発や違法建築、不正な土地取得、そしておびただしい池田専用施設について調査した結果にもとづく、きびしい質問が羅列されていた。まかり間違えば、脱税、横領、背任といった刑事事件にまで発展しかねない。
 これと前後して、国税局による、研修所や会館の査察が行われ、"檜風呂"をそなえた池田専用フロアーに対して「宗教活動に使用されているものとは思われない」等の疑問が出された。
 更に、6月頃から、日蓮正宗の反撃がはじまった。各地で急進的な住職達が "反創価学会運動" を展開し、批判活動と会員の切りくずしをはじめた」(「池田大作 日本経済乗っ取りの野望」山崎正友 ) (※ これを一つの契機として公明党は、自衛隊容認、日米安保存続、原子力発電容認へと、政策変更 )
4月26日
 妙信講、4月度総幹部会開催(豊島公会堂)、4月度折伏成果 746世帯、総世帯数 1万8千476世帯に。浅井昭衛講頭「法廷斗争の全面的大勝利」を発表、満場熱涙に満つ。
「法廷闘争は、秋の判決を待たずしてこの "決戦の月四月" に学会がついに屈服、全面的な大勝利となりました。(大拍手)…
 一 妙信講本部会館の本尊は妙縁寺に返却しない
 二 本部会館の「日蓮正宗妙信講」の看板は撤去しない、
 三 妙信講のために宗門が新寺院を寄進する(趣意)、
 以上の条件を示して、よって裁判をすべて取り下げてくれというのです。皆さん、どうでしょうか。これはまさに事実上の全面勝利であると私は思うのですが、いかがでしょうか(大拍手)。ここに私は、法廷斗争の目的はすべて達せられたと判断し、この決戦の月の四月、二年と六ヶ月にわたった裁判に終止符を打ちました。… この大御本尊が御守護できたということは、やがて御遺命の正義が完全に守り切れる大瑞相である。…
 今だから云いますが、私が最も恐れていたのは裁判の長期化・泥沼化でありました。裁判というのは長くかかるものです。最初の判決は秋に出る予定でありましたが、それで事は済むかと云えば済まない。… 途中、二審・二審でどのような裁判官が出てくるかわからない。裁判官といったって、すべてが人格識見を具えた人ばかりとは限らない。… たとえ仏法上の道理はこちらにあったとしても法律的には負けるかも知れない。… ここに私は、なんとしても、この反対尋問の山場である四月に事を決し、判決以前に法廷斗争の目的を事実上達してしまおう、と決意しておりました。
 考えてみれば、解散処分に付した妙信講、擯斥処分に付した僧侶に対して、宗門が寺を一つ建てなければならなくなったというのは、いかなることでしょうか。これほどの皮肉がこの世の中にありましょうか(笑)。… 最初にはっきりと云っておきますが、この顕正寺は、宗門に国立戒壇の正義が蘇った時、すなわち御遺命守護完結の大使命がおえた時に、時の正しい御法主上人猊下に、寺院のすべてをお返えし申し上げる、御供養申し上げるということになっております。…
 今回の法廷斗争の大勝利こそ『大陣すでに破れたり、余党は物のかずならず』の現証であります。もう妙信講の前進を阻み得る者は誰もない。いよいよ来る第十九回総会を出陣式として、御遺命守護完結へ怒濤の前進を開始しよう。そして本格的な周の武王の斗いを御本仏日蓮大聖人に御照覧頂こうではありませんか。以上。(大拍手)」(「富士」第165号 )
(※ 「今だから云いますが、私が最も恐れていたのは裁判の長期化・泥沼化でありました」とは、何を今さら … である。法廷闘争が長期化することは、誰でも常識として知っている。それに思い至らず、短慮のままに法廷闘争を仕掛けたなら「間抜け」である。法廷闘争長期化を前提しながら 「折伏と法廷闘争と大諌暁運動、これを三本の柱として『降魔』の闘いを進める … この三本の柱は御遺命守護の完結の日まで不変」と云っていたのなら、妙信講員への「謀り」である。「間抜け」なのか「謀り」なのか、その両方であったかもしれない。
 解散処分直後、浅井昭衛理事長は宣言していた。「仏法の破壊者 池田大作を宗門から追放しよう … 偽善者 池田大作を社会から追放しよう。国を傾ける国賊 池田大作を日本から追放しよう。… かかる大悪がおこれば大善は近い。闇が深くなれば暁は近い。この斗い、長くても3年、早ければ1年で必ず解決すると私は確信する」と。それから3年、法廷で「誰が、何の目的で、どのようなからくりを用いて御遺命を曲げたか」を熱弁したが、"御遺命守護完結" も "降魔" も叶わず、得たものは本部会館安置の本尊と解散処分の受容だった。そして、池田大作会長を大いに喜ばせた。「法廷斗争の目的はすべて達せられた」と、浅井昭衛講頭は "法廷斗争の目的" をすり替え、"全面的" な "事実上" の "大勝利" と称して、講頭を信頼し運命を共にした講員を欺いた。櫻川 忠 )
4月27日  創価学会、中部文化会館落慶式奉修。創価学会の重宝として、永久に本部で保管すべき紙幅常住本尊を、宗門に無断で同会館に遷座した。
 池田大作会長「この中部文化会館に御安置申し上げた御本尊は、創価学会の生命ともいえる『大法弘通慈折広宣流布大願成就』の重要な御本尊である。学会は、昭和26年5月に賜ったこの本部常住の御本尊をいっさいの原点とし、全国に折伏、弘教の波を起こし、広宣流布の盤石なる基盤をつくってきたのである」
5月1日
 妙信講、「御本尊守護奉告法要」を本部会館で奉修。八木直道師、導師を勤める。
「昭和52年2月になり、裁判の法廷に出廷した松本日仁は、すでに九十歳近い高齢であり、衰弱が目立っていたが、その後、千葉県下の病院に入院した、との情報を入手した。その病院を突き止め、学会員の看護婦にカルテを調べさせたところ、老衰が激しく進み、危篤状態だということがわかった。この頃、じつは、私は、妙信講裁判を早急に片付けなくてはならぬ状況に置かれていた。いわゆる五十二年路線で、池田大作が御法主上人と宗門を徹底的に痛めつけたのに対し、御法主上人は、反撃のために、私の協力を求められたのである。…このような事情があったため、一日も早く妙信講問題に決着をつけることが必要だったのである。…
 この情報を得た数日後、妙信講側の主任弁護士と、桐ヶ谷章弁護士が地下鉄の中で出会った際、先方から、「一度、山崎先生と酒でも飲んで話し合いたい」との申し出があった。かくて、数日後、妙信講の主任弁護士と私との間で、和解の話し合いが始まった。私が、松本日仁の病状を先刻承知していることを伝え、それにも拘わらず、妙信講側に、メンツを保ったまま撤退する機会を与える用意があることを伝えると、相手はただちに、ざっくばらんな話し合いを求めてきた。結果として、日蓮正宗側が、妙縁寺松本日仁名義の預金一億二干五百万円を、松本日仁個人の財産として松本日仁に渡す、ということと引き替えに妙信講関係のすべての裁判を取り下げる、ということで合意に達した。
 もっとも、その具体的な実行について相手方の弁護士は "松本日仁の意思" であるとして、一億二千五百万円を "顕正寺建立準備資金口座に振り込む" ことを強く要求し、「これが容れられなけれは、和解の話は御破算だ」とまで言った。擯斥された松本日仁が、自前の寺を建てたいという意志を持ち、そのために苦労して数十年にわたって蓄えてきた貯金を、その建設費に充てたいと思うのも不自然なこととは思えなかった。…
 一方、日蓮正宗の方からは、「妙信講が、松本日仁から受け取ったとして本部に安置している、寺宝の本尊の返却を求められないか」「今後、日蓮正宗と名乗ってはならぬ、という条件をつけられないか」という要望があった。しかし、御本尊については相手方が返却を拒否したからといって、法的手段で執行吏(り)の手を借りて差し押さえたりするというのも、信仰という観点からはそぐわないように思うし、次の名称については、たとえ制限を付けても向こうが勝手に名乗るのを差し止めることは困難である。…
 結局、松本日仁個人の資産として渡すべき一億二千五百万円の預金は、松本日仁の指示に従い顕正寺建立準備資金口座へ振り込む形で支払う、ということで妙信講側は一切の訴訟を取り下げるという和解が4月下旬に成立した。このことを浅井昭衛らは、「日蓮正宗が妙信講のためにお寺を作ってくれることになった」等と宣伝したが、… それは先方の勝手というものである」(「あの頃のこと」第十三回 山崎正友 「慧妙」第210号 )
「浅井講頭の「法廷闘争大勝利」の宣言に、総幹部会の会場は感動の坩堝と化したが、わたしは喜べなかった。不遜ながら「話が違う」と思った。法廷闘争の目的は「悪の根を断つ」ことだったはずであるが、宗門も創価学会も戒壇論について何も変わっていない。それでどうして、「法廷斗争の目的はすべて達せられた」ことになるのだろうか。浅井昭衛講頭への、一分の誤りもないとのわたしの信頼と思い込みが、ここで初めて揺らいだ。浅井昭衛氏の、二枚舌と不誠実にわたしは敏感になった。後になって山崎正友氏の証言で、創価学会は松本日仁師の病状を把握したことで、妙信講の顧問弁護士と事前に和解の調整を行っていたことを知った。「学会弁護団を打ち砕いてまいりました」等というのは、浅井昭衛氏の講員向けのポーズに過ぎなかった」(「迷走する顕正会を斬る」櫻川 忠 )
「"悪の根を断つ" 法廷闘争の決着の焦点は、松本日仁師の一億二千五百万円を "顕正寺建立準備資金口座に振り込む" ことを強く要求するという、 "金の問題" に帰着していた。当時、総幹部会で浅井昭衛講頭の "法廷斗争全面的大勝利" 宣言を聴いていて、いきなり宗門が "新寺院を寄進" という話が出てきたことに小生は違和感を覚えた。解散処分が撤回された、というなら筋は通るが..そうではない。その背景に、その資金が松本日仁師の資産だったということは、後の山崎証言によって知ることができた。誑惑を責め謀りを追求する者が、"大勝利" を演出するため講員を謀ったのである。櫻川 忠 )
5月1日  創価学会、会長就任17周年記念表彰式。池田大作会長「創価学会を中傷、批判した場合には、即、御本尊への中傷、批判につながっていく。これが "生死一大事血脈" の極理の一面であることを知っていただきたい」
 本部事務総局内に「宗務局」を設置。局長・和泉覚、局次長・森田康夫。
 池田大作会長「君は、私の弟子になるか! 弟子というものは、師匠が地獄の相で死んでいったとしても、疑わずに自分も共に地獄へついて行くというのが弟子だ!」(「前進」5月号 )
5月3日  創価学会、池田大作会長就任17周年記念式典開催(創価大学)。全国の主要会館で、記念勤行会を行なう。会長就任17周年「記念品」として、"創価学会版" 経本を全国各会館で無料配布。(後に回収される)
 池田大作会長「戸田前会長は、牢獄の中、御本尊のないところで、大宇宙にむかって二百万遍の題目を唱え、法華経を色読され、地涌の菩薩の棟梁としての開悟をされた」
「この時、池田大作は絶頂にあり、まさに得意満面、云うところなしという気分で、"ほくそ笑み"を押さえ切れない風情を、隠そうともしなかった。会長就任以来、目の上のコブであった日蓮正宗に対しては、1月以来、会員の寺院参詣を停止して経済封鎖を行ない、総代として送り込んだ学会員に、住職を監視させ締め上げる態勢が整った。そして、日達上人の御弟子で、創価学会に批判的な若手住職を、片っ端から吊し上げた。…
 加えて、池田大作を喜ばせたのは、この年の4月、昭和45年以来創価学会に牙をむき続けてきた妙信講に対し、訴訟上の和解を成立させ、宗内から完全に追い出すことに成功したことであった。下半身を直撃した『月刊ペン』事件も、裏工作で隈部大蔵氏を押さえつけ、証人出廷の危機を脱した。長いこと鳴かず飛ばずだった公明党も、前年暮れの総選挙で、53議席という、望外な議席を獲得した」(「あの頃のこと」山崎正友、「慧妙」2004年9月15日号 )
5月 日  創価学会、特別財務(広布基金)廃止。代わって、財務部員の名称を広布部員に変え、1口1万円、何口でもOKという納金制度とし、広く会員から募るようにした
「昭和50年から開始した "特別財務" は、650億円を集めたところで、民社党が全国の研修所等の調査を行い、池田大作の専用施設等について国会で追及する構えを見せたため、昭和52年5月で中止した」(「池田大作 日本経済乗っ取りの野望」山崎正友 )
5月6日
 宗門、院第二七五三号「元妙信講等訴訟事件の解決について
「裁判上の和解といっても … かかる事件はその本質が宗教教義の解釈に関することがらであって、本来、裁判所が立入るにふさわしくないこと、… 法廷の場における争いを止め、訴を取り下げるということが骨子となっているのであります。
 今回の措置により、まず妙縁寺から松本日仁は退去して久保川法章師の住職の地位が確定し、同寺は完全に日蓮正宗に回復されました。更に、処分無効を主張するすべての訴訟が取り下げられ、再訴できないことになったので処分の効果は事実上確定し、宗門として従来の処置主張を曲げることなく貫徹して結末を迎えることができたことは喜ばしいかぎりであります。
 故に、今後元妙信講らが「日蓮正宗」を僭称して妄動し、或いは寺院を建てるようなことが仮りにあったとしても、それは本宗とはもはや何らの関係もないことであります。…
 このように元妙信講訴訟問題がすべて成功裡に解決し、積年の禍根が完全に除去されたことを、ここに謹んで御報告申し上げ、長年にわたり並々ならぬ御尽力と御支援をたまわった宗内の皆様方に厚く御礼を申し上げる次第であります」(「大白法」)
5月12日  月刊ペン裁判、和解交渉成立。
「池田大作証人出廷の危険は、ここに完全に消えたと言ってよかった。それを見極めて、約束の2000万円の授受が行われた」(「月刊ペン事件 埋もれていた真実」山崎正友 )
5月17日  創価学会、(宗門・学会)最高教導会議。
(1)学会版経本を大石寺版経本と交換する手続きを順次進めている
(2)会館の山号はすべて廃止すること
(3)護符は一切廃止すること
の3点を、宗門側に報告。
5月27日
 宗門、細井日達管長。寺族同心会で、西寮火災について言及。「宗門は今非常に停滞している。我々はもっと反省しなければならない」と。(「大日蓮」6月号 )
5月29日
 妙信講、第19回総会開催(渋谷公会堂)、三千余名が結集。「大御本尊を早く奉安殿に遷し奉れ」
 浅井昭衛講頭、「完結」への大路線を明示し、4年と6ヶ月の決意を促す。
「先般の法廷闘争の大勝利こそ、『完結は必ずできる』ということを、大聖人様が見せてくださった大瑞相である。…
 宗門のある御僧侶が云っておりました。『今正宗の僧侶で、正本堂を御遺命の戒壇などと本気で思っている者は一人もいない。だから、猊下があの間違った訓諭を訂正さえすればよいのだ』と。だが私は思います。このような小手先の不誠実な訂正で、今さら大聖人様へのお詫びが叶うか、これほどの大悪の清算ができようかと。もうそのような事の通る時ではありません。… 。すでに訂正をする資格は失われております。このような、御都合によって大事の教義をクルクル変えるような、懺悔なき訂正を大聖人様が断じてお許しになるはずはございません。…
 完結の姿とは、大聖人様の御法魂たる戒壇の大御本尊を、汚れた正本堂より元の清らかなる奉安殿に、御遷座申し上げること。…
 完結は必ずできる、三つの理由を心腑に染めよ。
 一、広布が絶対なら歪曲の訂正も絶対。
 二、正しき道理は必ず顕われる。
 三、大聖人の御裁断を見奉れ
 ここで思うに、七百年御遠忌こそ大聖人御入滅後の、最も大きな節であります。… 七百年御遠忌の時になっても、まだ戒壇の大御本尊は汚れた正本堂におわしますままでは、なんとも大聖人様に申しわけがない。… よって非力なりとも、妙信講は七百年御遠忌までに御遺命守護の完結を成し遂げることを決意し、死力を尽して御奉公申し上げることを、本日全員で大聖人様にお誓い申し上げようではございませんか(大拍手) …
 七百年御遠忌に当る昭和五十六年十一月二十日まで、あと四年と六ヶ月であります。この四年と六ヶ月の御奉公こそ、私共の一生成仏を決めるものであります。… 今生に二度とないこの大仏事、本日の出陣式を機に、七百年御遠忌を目指し、みごとなる斗いを展開して御本仏日蓮大聖人のお褒めを、妙信講全員で頂こうではございませんか。以上。(大拍手) 」(「冨士」第166号 )
 松本日仁能化御祝辞 (代読)、「吾等が生涯の大仏事、不退の精進で『完結』へ
「かくして吾等の目的が貫徹して、宗門が本当に宗開両祖の御在世の信心に立ち返り、創価学会も法華講も共に過去の迷夢よりめざめて、真に宗開両祖の御遺命を守護する時至れば吾等なにをか云わん。近く建築落成する顕正寺も直ちに時の御法主上人に御供養申し上げ、妙信講・学会・法華講共々に異体同心の祖訓を奉戴して日蓮正宗総本山大石寺を御守護申し上げ、宗門一結していよいよ本格的に広宣流布大願成就の大目的のために斗うものであります」
 八木直道師御挨拶、「宗門に正義蘇える日近し、『完結』めざし一層の御奉公を
「学会弁護団は、池田大作の至上命令で死力の限りを尽くして浅井先生に対し反対尋問を行ったのでありますが、先生の大信力・大弁論の前には敵する術がありませんでした。四月十四日、東京地裁民事第九部法廷において第三回目の反対尋問が行われましたが、前回にまして、あたかも利剣を以って瓜を割るが如く鎧袖一触でありました。学会弁護団は尋問続行不可能となり、三条件を提示し秋の判決を待たずに全面降伏となったのであります」
(※ 妙信講員に「七百年御遠忌までに御遺命守護完結」と述べた言葉は重い。しかし、浅井昭衛講頭は自らの言辞をなかったことにし、その "無責任" は今日に至るまで一貫不変である。
 かつて(昭和44年11月)「誰の責任でもない、本部長をつとめる自分の責任であります。… 恥を感じております。若し許される事ならば責任を取らせて頂きたいと、この間から悶々と考えてまいりました。だがそれはあまりに安易に過ぎる。さればこの十年間に身を捨てる御奉公を申し上げ… 大聖人様にお詫び申し上げたい」(「冨士」第76号 )と浅井昭衛本部長は詫びたが、妙信講員の信頼と団結は揺るぎないものだった。
 今回の法廷闘争で仮に浅井昭衛講頭が "敗北宣言" をしたとしても、妙信講員の信頼と団結は微動だにしなかっただろう。当時、妙信講男子青年部の端くれにいた小生でも、なおさら大事の "御遺命守護" の困難さにむしろ奮い立っただろう。しかし浅井昭衛講頭は、自ら鍛え上げた妙信講員を、信頼していなかった。それから "無謬神話" を紡ぎ続け、"はったり"と"謀り"と"無責任" で講員・会員を惹きつけて行く。第六天魔王に魅入られた、ターニングポイントであった。櫻川 忠 )
6月1日  創価学会、「前進」6月号発行。池田大作会長「"師弟血脈" という観点から大聖人の仏法の本因・本果の流れを見るならば、大聖人のお立場は本因妙の仏法の上の本果妙であり、第二祖日興上人が本因妙ということになる。… 今度は私が本果、北條理事長をはじめ副会長が本因の立場になるのである」
「大白蓮華」6月号発行、聖教新聞連載の池田大作会長の「生死一大事血脈抄講義」を再録。「戸田先生の獄中での『仏とは生命なり』との悟達は、まさしく日蓮大聖人の仏法を生命論としてその原点に立ち返ることにより、現代に蘇生させ、人類文明をリードする不変の哲理として打ち立てた一大壮挙であったのであります」
6月1日  月刊ペン裁判、第6回公判。検察側、弁護側双方の意見書の陳述。
6月2日  創価学会、聖教新聞」に『会長 先師の死身弘法の生涯を語る』の記事掲載。「総じて民衆を幸福へと指し導いていく指導者こそ、この『導師』『大導師』の今日的謂でもある」と明示。さまざまな世界の指導者のなかにあって牧口初代会長こそ、真実の成仏即幸福の道を指し示し、広宣流布の大願へ民衆を導いていった指導者であり、大導師であると
6月12日
 宗門、「蓮華」6月号発行、児玉大光師(無辺寺住職)「池上相承を拝す」掲載、池田大作会長の「仏教史観を語る」を批判。
「これは池田先生の『仏教史観を語る』のなかで『近くは末法の御本仏日蓮大聖人も、一生涯、既成仏教のような寺院は持たれなかった』… に対し、児玉大光師は、池上相承書に『身延山久遠寺の別当たるべきなり』の御文を引用して、大聖人は寺院を持たれたと主張した内容でした。これを先生にお見せするや「すぐ反論を『前進』に出しなさい。私(先生)が見てあげるから」と私に指示されました」(「池田先生への手紙」原島嵩)
6月15日
 松本日仁師 逝去。
6月19日
 妙信講、高知支部大会開催(高知県民センター)、100名が結集。
6月25日  国際商業出版、大山正 著「宗教成金PLの素顔」を刊行。大山正は、創価学会員 北林芳典の筆名。
6月26日
 妙信講、松本日仁師の講葬、本部会館で執行。一千余名が参列。
 浅井昭衛講頭、弔辞「妙信講は貧にして、御存生のおりには尊能師の御高恩に報い奉る何ものもございませんでした。但し、一万八千の講員は、いま身命を捨てて御遺命守護の一事を貫かんとしております。この御奉公もし近き将来成就せば、その功徳はすべて松本日仁尊能師の御一身に帰するものでございます。されば報恩抄に云く「されば花は根にかへり真味は土にとどま」と。我等全講員、本日のお別れに臨み、改めて御霊前に御遺命守護完結を堅く誓い、以って尊能師の御報恩に擬し奉るものでございます」(「冨士」第167号 )
(※ 浅井昭衛講頭は弔辞の中でも、顕正寺が松本日仁師の遺産一億二千五百万円を以て建立されたことを、講員に一切伏せたままである。妙信講員は皆、顕正寺は宗門から寄進されたものと、漠然と思い込まされた。顕正寺建立は、松本日仁師の意思であり、願いであった。浅井昭衛講頭は、"利剣を以って瓜を割るが如く" 創価学会弁護団を "全面降伏" させ、"法廷闘争大勝利"という筋立てを講員に信じ込ませるため、その証として "宗門からの寄進" という "物語" をでっちあげ講員を欺いた。口先では松本日仁師の功績を讃えつつ、指導教師として利用しつくしたあげく、顕正寺を私物化した。第19回総会(5月29日)、松本日仁師の『時至れば … 近く建築落成する顕正寺も直ちに時の御法主上人に御供養申し上げ』の言葉を小生等迂闊に聴いていたが、"顕正寺は宗門に供養" とは、松本日仁師の強い御意向なのであった。浅井昭衛講頭は後に、松本日仁師の真正直に富士門流の僧道を貫かんとする、その願いをも踏みにじった。正本堂を "御遺命の戒壇" と謀った池田大作会長の誑惑を糺し訴える当人が、顕正寺を "宗門の寄進"と謀ってしまっては "同じ穴の狢" ではないか。"我が身を上げる" ための、謀り・誑惑であることは 両者とも、同じ構造である。櫻川 忠 )
7月10日  第11回参議院議員通常選挙、公明党 14議席獲得。
「この年の七月、参議院選挙が行われましたが、そのバネとなった教材も、この "生死一大事血脈抄" でした。したがってこの選挙をさして "血脈選挙" ともいわれました」(「池田先生への手紙」原島 嵩 )
「たとえば77年の参院選に際し、自ら替え玉投票を行った学会男子部の大ブロック長が語っている。『法に三法がある。世法、国法、仏法の、三つです。世法は問題ではない。国法は人間がつくった法律であり、最低の道徳だ。仏法は大宇宙の法則であり、これこそ絶対なのです。公明党の逮挙は王仏冥合の大法戦であり、仏法律に照らして我々のやったことは絶対に正しいのだ』、と」(「宗教の火遊び」溝口 敦 )
7月 日  東京都、創価学園に立ち入り調査、創価学園教員の無免許問題(高校3人、中学2人)。
 事前に公明党・藤井議員にタレ込みがあり、創価学園側は証拠書類を焼却。「開校のときは、『いま、免許を取っている最中』ということで対外的にごまかし、そのままズルズルやってきた」( 学園関係者の証言 )
7月16日  創価学会、正本堂の意義づけ部分を密かに削除し、「立正安国論講義」を再刊。
(※ 「宗門七百年来待望の壮挙」「七百年来の念願であり、久遠元初以来の壮挙」等の "誑惑" の記載は削除された。櫻川 忠 )
7月21日  週刊新潮、「宗門と創価学会の離反」記事。「メッカ大石寺が創価学会と喧嘩して参詣者ただ今ゼロ」を掲載。以後、週刊誌・月刊誌で、創価学会報道続く。
7月22日  創価学会、「聖教新聞」紙上で週刊新潮の記事に反論。
7月23日  創価学会、静岡創価学会記念勤行会。池田大作会長「量の拡大のみを目的とした行き方には、真の永続性はない。永続的広布の観点からいっても、いよいよこれからは、一人の力を五倍、十倍にみがき、伸ばす作業が、なににもまして重要な段階に入っている」
(※ これ以降、会長講演における宗門批判の論調が弱まり、"創価仏法" "戸田前会長は地涌の菩薩の棟梁" といった表現が消える )
7月 日
 宗門、細井日達管長。創価学会の教義逸脱に、反撃開始。
「同年7月に入って、若手僧侶による池田大作講演批判論文が、教学雑誌に掲載されたことで火ぶたが切られた。つづいて、全国で数十ヶ寺の寺院で、創価学会の教義違背に対する批判と、創価学会をやめて日蓮正宗信徒になるよう勧める "脱会運動" が展開された。『山崎さん、見てくれましたか。いよいよ始めましたから、よろしく』。7月のある日、日達上人は、はずんだ声で電話をくださった」(「池田大作 日本経済乗っ取りの野望」山崎正友 )
7月25日  月刊ペン裁判、第7回公判。弁護側証人として小室朗人が出廷。
7月26日
 妙信講、7月度総幹部会開催(豊島公会堂)、折伏成果 570世帯、総世帯数は 1万9千世帯を突破。
 浅井昭衛講頭「妙信講の使命とは広宣流布前夜の大悪を砕き、日目上人御出現の露払いを申し上げるにある」
7月27日
 宗門、法華講連合会第14回総会開催。細井日達管長、「三宝」について述べ「僧宝=学会論」を間接的に否定。「我々も僧宝であるから、他の人々が我々を拝んでもいいんだと云うような心を起こせば、それは既に驕慢であります。どこまでも本宗の行き方は、御本尊、大聖人、僧宝としての日興上人を安置し、その三宝を中心として宗旨が建立されておるのでございます」
8月1日  創価学会、浜田憲司。児玉大光師の「池上御相承を拝す」(「蓮華」6月号 )に対し、「大聖人が寺を建てよといわれた御書が一つでもあるか」と反論。これより宗門・学会の論争激化。(「前進」8月号 )
「正直に告白しますと、九州在住の浜田憲司氏は、いっさいこの論文にはタッチしていなかったのです。先生は、野崎勲氏と『だれの名前にしようか』と相談され、児玉大光師が九州ですので、野崎氏が浜田憲司氏がいいだろうと名前をあげました」(「池田先生への手紙」原島嵩 )
8月4日  創価学会、副会長会議。池田大作会長を、"創価学会根本師" "大師範"として、会長職を超えた存在と規定するための、創価学会規則改正案を検討。
「池田大作を "本仏" として祭り上げるための、規則改正の準備作業が、断続的に行なわれた。昭和52年8月4日の副会長会議に出席した、原島嵩氏のメモが私の手元に現存するが、それによれば規則改正案として、
『一、会則と規則の二本立てとする
 二、牧口・戸田・池田について、永遠に変わらない、創価学会の原点と定める。
 三、会長は任期制とするが、池田大作は "創価学会根本師" "大師範" 等、それを超えた立場とする』等のことが検討されている。
 現在施行されている会則の原案は、すでにこの頃に作られていたのである」(「あの頃のこと」山崎正友、「慧妙」2004年2月16日号 )
8月5日  光文社、「宝石」9月号発行。浅井昭衛講頭の論文「池田大作 ― 仏法の破壊者を裁く」を掲載。
 これよりマスコミ各社、宗門・学会対立を一斉に取り上げる。
「創価学会々長・池田大作が、いま内心もっとも恐れ、かつ憎んでいる存在は、わが日蓮正宗妙信講である。昭和四十九年の春、彼はある席で『学会の敵は三つある。左に共産党、右に妙信講、背後には本山』と語ったそうである。共産党を敵というのは、今さら説明を要しまい。「本山」とは、日蓮正宗の管長猊下を指している。…
 さて、創価学会は七百五十万といわれている。妙信講は一万八千にすぎない。数の上では全く比較にならぬ、しかも同門の妙信講を、池田大作はなぜ恐れ憎むのであろうか。理由は簡単である。妙信講がこの日本に存在する以上、彼は枕を高くして眠れないからである」(「同誌」9月号 )
8月12日
 妙信講、解散弾圧三周年記念幹部会開催。浅井昭衛講頭、「三年間で悪の大陣は破った。今後の四年有余こそ過去に倍する斗いを」と。
8月13日  創価学会、桐ヶ谷章弁護士。光文社「宝石」編集部に対し、掲載記事の取り消しと謝罪を要求。
8月18日
 宗門、細井日達管長。行学講習会開講式で、創価学会教授 浜田憲司の論文に対し「寺が不要なら正本堂を造って事の戒壇と崇める必要もない」と反論。(「蓮華」9月号 )
8月18日  文藝春秋社、週刊文春に「創価学会と大石寺離反の真相」記事掲載。妙信講と国立戒壇の間題を取り上げる。(「同」8月25日号 )
「創価学会顧問弁護士として得た情報や捏造情報を流し、あたかも創価学会のなかに大量造反が起こりつつあるかのような雰囲気を醸成する道具として使ったのだ。この謀略は、日蓮正宗の僧たちに、創価学会につけ入るスキができたかのように思わせ、全国の檀徒作りを勢いづかせていった。
 これらの意図に基づいて作られたのが、『週刊文春』(昭和52年8月25日号)「創価学会と大石寺離反の真相」、『同』(10月6日号)「学会員初の大量反乱」、『同』(10月13日号)「池田独裁を倒せ! 全国蜂起した学会革命軍」、『同』(10月27日号)「池田大作に宣戦布告し覆面を脱いだ学会反乱軍」、『現代』(12月号)「あえて問う、創価学会と池田大作の変貌」などであった。 これ以降、山崎はマスコミで偏りながら、日蓮正宗内の反学会僧侶に対し、工作をおこなう」(「反逆の裏にある顔」北林芳典 ) 」
8月20日
 妙信講、「富士」8月号に「池田大作 ― 仏法の破壊者を裁く」を転載。
「さて、国立戒壇をめぐる創価学会と妙信講の血みどろの激闘は、すでに八年に及んでいる。うかつな者が見れば、七百五十万は勝ち、一万八千は負けると思うであろう。だが『悪は多けれども一善に勝つことなし』である。妙信講は必ず勝つ。…
 また仏法の正系門家・日蓮正宗に、このような不祥事がおきたということも、深く考えれば広宣流布の前兆なのである。大聖人は『大悪は大善の来るべき瑞相なり』と仰せられている。国立戒壇否定という大悪は、国立戒壇成就の大瑞相であるのだ。…
 とまれ、この闘いの帰趨が、日本の運命に重大な関わりを持っていたことを、世人は後に知ることであろう」
8月20日
 妙信講、特別講習会開催。「妙信講の歴史と使命」講義、1千850名参加。
8月25日  文藝春秋社、 週刊文春に「創価学会と大石寺 離反の真相」掲載。池田大作会長の僧侶リンチ事件、国立戒壇と妙信講の諫訴に言及。山崎正友顧問弁護士、誌上で創価学会による本山への圧力を明言、また "顕正寺問題" を否定。
「日達上人と浅井講頭、上人と学会の間で、それぞれ何度も話し合いが持たれたが、ピシッとした線を打ち出し信者を導くべき上人が、浅井講頭には『浅井のいうことは全く正しい』と国立戒壇論を支持し、門下の僧侶には『国立戒壇を否定したのは国立という言葉をいったので、精神は変わらない』とあいまいな表現を使い、一方、学会に行くと『正本堂こそ戒壇』というなど、まるで風にそよぐ葦。創価学会が大石寺を兵糧攻めにする原因は、まさにここに存在する。日達上人が妙信講側に傾くたびに『本山登山』を禁じるなど、一連の措置をとって一時的に寺院の糧道を断つ。そして再びスポンサー側になびけば登山が始まる。ともあれ、大スポンサーの威力の前に遂に上人が正本堂を "日蓮遺命の戒壇" だとする『訓論』(日蓮正宗信者にとっては "勅語" に当たる重みのあるもの)を出す」(「同誌」9月1日号 )
8月26日
 妙信講、8月度総幹部会開催(豊島公会堂)。浅井昭衛講頭、「九月は一対一の本格的な白兵戦を展開せよ」と。
8月26日  創価学会、池田大作会長の「M師リンチ事件」について、週刊文春に抗議。
(※ 昭和33年3月29日、池田大作参謀室長が青年部を指揮し、的場正順師に暴行を働き潤井川に投げ込んだ事件 )
8月27日  光文社、「宝石」編集部。創価学会の要求に屈し、記事訂正の了解を妙信講に求める。
 妙信講、これを拒絶。
8月28日
 妙信講、顕正寺起工式挙行。浅井昭衛講頭、「顕正寺こそ歪曲者が屈伏した証拠であり、『完結』の大瑞相を顕わす寺」と。
8月28日  創価学会、「聖教新聞」に "的場師リンチ事件" の弁明。
 吉田日勇渉外部長「週刊文春に書かれた記事は、その内容が極端な誇張と悪意の偏見によるものであり、はなはだ遺憾に思う。… 私は当時、大石寺理事をしており、この時のことは一部始終しっているが、およそリンチといわれる様な出来事は全くなかった事は断言できます」(「聖教新聞」8月28日号 )
8月30日
 宗門、全国教師講習会開催。早瀬道應総監挨拶、「(リンチ事件につき)聖教新聞紙上での、吉田渉外部長の言葉について、事実無根とはいいきれない」と。
 細井日達管長、「『日蓮大聖人の寺院観』浜田憲司氏に答う」と題して講演、みずから浜田論文を破折。また、「週刊文春に載ったM師というのは的場師のことで、あれは事実だった。書かれてもしかたのないことだ」と。
「池田大作は、『見ていろ日蓮正宗を手玉に取ってやるからな!!』と側近に大見得を切って、宗務院を通じてのかけ引きに熱中した。… だが、日達上人は、池田大作の手に乗らなかった。宗務院を通して池田が申し込んで来たことについて、これまでのように直接、上人が決裁するのでなく、宗会や臨時僧侶会にかけ、宗内の世論を尊重する形をとった。これまで、創価学会に対して、いろいろといじめられたり、いやがらせを受けてきてハラワタが煮えくりかえる思いをじっとこらえていた僧侶達、それも若手だけでなく、中堅・古老級の僧侶が,日達上人の御意向を慮って、びっくりするような強硬意見を述べ、学会からの和解提案をぶちこわした」(「池田大作 日本経済乗っ取りの野望」山崎正友 )
8月 日
 宗門、足立堅泉師(神力寺住職)、創価学会 浜田憲司論文に反論。(「蓮華」9月号 )
8月 日
 宗門、創価学会連絡会議。
「秋谷:こちらに入っていること、総監さん、阿部さんらで、あいつの事ではないかと思いあたるふしはあるか。
 阿部:直接ではないが、或る程度の見当というか、いろいろの雰囲気からいって、大分前に五人程宗務院へ来た者がある。九州、佐々木秀明、児玉大光、丸岡文乗……。
 阿部:山口は二ケ月前に電話よこして、佐々木が教学部長と話したいと言っている、といってきた。それ切りになってしまっている。
 阿部:『和党』大宣寺、一寸変なこと書いたのがいる、宗務院へ呼んで話した。宗内の運営や宗制宗規など何も知らない。宗務院批判、話し合って解った」(「宗務院・学会記録文書」)
(※ 阿部信雄教学部長、"宗門・学会連絡会議"で、宗門内の反創価学会僧侶の動向など、創価学会に内通。)
9月 日  創価学会、青年部。組織的に妙信講員宅を訪問、いやがらせ事件頻発。
9月1日  創価学会、「前進」9月号発行。辻副会長、「二箇相承に思う」で、大聖人は一生寺院を持たなかったとする「浜田論文」の誤りを訂正。
「今度は、浜田論文をたしなめるものを書くようにとの指示が秋谷副会長からあり、それも私が教学部副教学部長に書かせ、辻武寿師範の名前で掲載したのです。考えれば愚かしいことです。浜田論文もそれをたしなめる論文も、私が指示を受けて推進したのであって、しかもなおかつ猊下への反論も、私が指示を受けて副教学部長の一人に書かせていたのです。こうなっては私も精神分裂というか、どっちも論証できる人間にならなくてはいけない、一種の教学をもてあそぶ"技術屋"になりさがっていたのです」(「池田先生への手紙」原島 嵩 )
9月1日
 妙信講、班長会。浅井昭衛講頭、「創価学会の信心には功徳がない。その理由は、1) 国立戒壇を放棄し誑惑の正本堂を建てたこと (御遺命歪曲)。2) 正本堂の完工式にキリスト神父を招いたこと (謗法与同)の、二つによる」と。
9月2日
 宗門、早瀬道應総監・阿部信雄教学部長・藤本栄道庶務部長、学寮で池田大作会長・北条浩理事長・秋谷栄之助副会長・辻正信副会長と会談。
「会長、『日々の教学について阿部教学部長はどう思われますか、間違っていますか』と質問。これに対し阿部教学部長は『社会に開いた先生の教学はよくわかります。完ぺきであると思います』と発言」(「北条浩メモ『学寮にて』」)
9月2日
 妙信講、横浜・鶴見方面における悪質な創価学会青年部数名を、脅迫罪で告訴。
9月3日
 宗門、日蓮大聖人第七百遠忌法要・第1回慶讃委員会開催、池田大作会長を第七百遠忌慶讃委員長に任命。 細井日達管長「昭和56年に迎える七百遠忌へ向け、この大偉業を成就すべく全力を尽くしていくように」(「大日蓮」10月号 )
9月22日
 宗門、細井日達管長、創価学会に対し "遺憾の意" を宗内に通達。
9月22日  文藝春秋社、週刊文春に「池田会長口紅事件」を掲載。(「同誌」9月29日号 )
9月26日
 妙信講、9月度総幹部会開催(豊島公会堂)、折伏成果 273世帯、うち創価学会よりの入講 203世帯。浅井昭衛講頭「妙信講の名が知れ渡るは完結の前兆、下劣な妨害こそ学会の末期症状」
9月27日  毎日新聞、創価学園で無資格者が教授と報道。
9月28日  創価学会、聖教新聞「寸鉄」欄、週刊文春の「僧侶は聖職者」の記事に反論。
「この大時代的な錯誤。いつになったら人間のための宗教が到来するのか。命がけで信者を守る僧こそ真の聖職者。それなら民衆も心から尊敬する」
9月28日  日本赤軍、ダッカ日航機ハイジャック事件。フランスのシャルル・ド・ゴール空港発・東京国際空港行きの日本航空472便(乗員14名、乗客142名)が、経由地のムンバイを離陸直後、拳銃・手榴弾などで武装した日本赤軍グループ5名によりハイジャックされた。
9月29日  創価学会、「聖教新聞」紙上で「でっち上げられた口紅事件」と、週刊文春に反論。
10月1日  創価学会、北海道厚田に墓園完成。細井日達管長、「日蓮正宗創価学会戸田記念墓苑」と命名。
「(厚田墓苑は)総面積157ヘクタール、… 4万4000基、1基 40万5000円の墓は、完成前に完売した。… 宗教法人の墓苑事業は少しも腹が痛まない。会員から集めた金で造成し、再び会員に販売するからだ。こうして学会は、全国に墓苑事業を展開していく」(「創価学会財務部の内幕」)
10月 日  創価学会、幹部用月刊機関誌『前進』(部外秘)を廃刊。
10月 日  自由民主党、玉置和郎代議士、宗教政治研究会(宗政研)を発会。
10月3日  創価学会、北海道創価学会広布功労者追善法要(厚田戸田講堂)。
 池田大作会長「私が、この戸田記念墓苑を”生死不二の永遠の都”としたい旨、提案するのも、妙法に生きるわが同志が、御本尊に照覧されながら福運に満ちた尊い生涯を送ってほしいとの願いからにほかならない。皆さん方が、このように晴れがましく戸田講堂に参集している姿こそ、まさに"生の仏"であり、いずれは、墓苑に入る(笑い)これは"死の仏"となる。そしてまた、この現実世界に生をうけ、波乱万丈の広布の生涯を送っていくこうした繰り返しの姿が、すなわち"生死不二の都"である」
10月6日  週刊文春、「池田独裁を倒せ! 全国蜂起した学会革命軍」と、創価学会初の大量反乱記事を掲載。(「同誌」10月13日号 )
「寿福寺に学会の指導に疑問を持ち、学会を離れて佐々木師の下に結集した信徒、のちに日達上人のお声がかりで "檀徒" とよぶようになるが、それらの人々が三百人いるということが(週刊文春に)載った。…
 今度、佐々木師と心を同じくして学会批判に立ち上がった僧侶が、本山に登山し日達上人にお目通りをするという。その人数は、佐々木師の目論見では、百人以上いるとのことであった。そのことに対しても日達上人は、そのメンバーをしっかり固めておくようにと、佐々木師に指示されていた。佐々木師や児玉大光師の働きによって、いつの間にか、それまで創価学会に攻撃されっぱなしだった宗門は、反撃に転じようとしていたのであった」(「浜中和道回想録」)
10月11日
 宗門、細井日達管長。「"寺へ御供養持って行けばみんな住職が飲んでしまう"などと … 近頃は色々な問題がある。兎角お寺は疎んぜられているのは残念」と、創価学会の僧侶批判に反論。
10月12日  望月好郎(富士宮市民)、『創価学会の墓園計画はどのようにして始まったのか』と題するチラシを配布、富士桜墓園建設を批判する。
「かかる不当な工事及び計画をしている証拠は、山口系伊堂組・後藤組と手を結び、善良な市民への弾圧暴力を加えると云う状況にまで発展した。… 私宅も前の折込作成中の本年7月25日に、拳大の投石8個を神田川町の自宅に受け、当時臨月の娘は泣き叫んで電話して救いを求めた」
10月13日
 妙信講、御大会式厳修(本部会館)。
 臨時支部長会で浅井昭衛講頭、「必要なら、顕正寺に関する正式文書を、学会弁護士・山崎正友立合いの上公開せん」と。
(※ "顕正寺に関する正式文書" 、ぜひ公開して欲しいものである。顕正寺建立準備資金口座への入金記録を出して、振込元が"妙縁寺"だから"宗門"からだ…、と強弁するつもりだろうか。櫻川 忠 )
10月16日
 妙信講、群馬支部大会開催(富岡市中央公民館)。百余名が結集。
10月18日
 宗門、細井日達管長。京都での法要の際、北條浩理事長に「私も池田先生については二十年にわたってよく知っていますが、… 結論していうならば、これだけ総本山、宗門に未曾有に尽くしてきた学会が、だれが見ても、離れるわけもないし、また、宗門も離すわけがない深い深い因縁なのであります。ともかく、日蓮大聖人の広大無辺なご境涯からみれば、こんなさざ波のような問題などマメ粒みたいなものだと、私は思うのであります。登山会についても、一部に取りざたされていますが、時代が深刻な不況に直面していることを考えれば、時代とともに多少の増減は当然のことであり、やむを得ないではありませんか」と。
10月18日  月刊ペン裁判、第8回公判。隈部大蔵に対する、被告人尋問が行なわれる。
10月23日
 妙信講、初の大阪地方部大会開催(大阪府立労働会館)、百余名が結集。
10月25日  創価学会、10月度本部幹部会(第216回)開催。
 北條浩理事長、マスコミの創価学会批判、創価学会独立説、会長勇退説があること、宗門と和解しつつあることを示唆。「世間の一部に、本山と学会が離反するのではないかという風評を聞きますが、永遠に不二に進んでいくことは、常に会長が明言している通りであります。この一点でおわかりのように、いわゆるためにする風評に紛動されないでいきましょう」
 池田大作会長、僧俗和合の意思を表明、同時に創価学会の教義逸脱を宗門に伝える内通者の存在をほのめかす。「敵と味方が峻別できなければ、現実において敗北してしまいます。敵を敵と見定め、味方を味方と明確に判断しつつ、なおかつ一切衆生を救っていく戦いが、真実の仏法の慈悲なのであります。… 次に、将来のことを申し上げれば、これまでつねづね申し上げてきましたように、一九九〇年を合言葉に進んでいきたいのであります。この年、四月は戸田前会長の三十三回忌法要が行われ、十一月に学会創立六十周年を迎えます。このあたりが、創価学会の広宣流布の一つの大きな山であると考えていただきたい。… 広宣流布に邁進しゆく私どもの前途にも、それを阻もうとする動きは、すべて内外の讒言から起きているといってよい。讒言は内部破壊の根本原因であり、もっとも卑劣な、もっとも醜悪な人間の心のあらわれなのであります。… ともあれ私たちは、永遠に興隆しゆく前進のために、改善すべきことは潔く改善し、反省すべき点は反省し、また整備すべきことは整備しながら、21世紀に向かって広宣流布一筋に邁進しゆくことを誓いあっていきたいと思うのであります」
10月27日  創価学会、創立47周年記念幹部会開催。北條浩理事長、「世間の一部に、本山と学会が離反するのではないかという風評も聞きますが、永遠に不二で進んで行く事は常に会長が明言している通りであります。池田会長は正本堂をはじめ … 無量のご奉公御供養、外護の任を全うされているのであります」
「昭和五十二年には、池田大作は、後顧の憂いを無くした上で再度、日蓮正宗支配を目指して攻撃を行なった。創価学会が主であり、日蓮正宗は従であること、創価学会は、従来日蓮正宗が独占していた権威や化儀を自らも持ち、供養を受けることができると宣言した上で、僧侶つるし上げによって御法主上人を退座に追い込み、そのあとに傀儡政権を立てて、力で日蓮正宗をねじ伏せようとしたのである。この時は、御法主上人の退座までは達成できなかったが、"創価学会独立路線"の確立ということは達成した。しかしその直後、民社党が国会で池田大作の豪華専用施設の疑いなどを、本国会で取り上げようとしたことから、にわかに創価学会の足元が崩れ、その間に日蓮正宗の逆襲を招いてしまった」(「あの頃のこと」第四十五回 山崎正友「慧妙」第279号 )
10月30日
 妙信講、第2回青森県大会開催(青森市共済会館)。
11月1日
 妙信講、班長会。浅井昭衛講頭、内得入信の勤行について指導。「戒壇の御本尊遙拝の精神で、方便・自我偈・唱題を」と。
「勤行の内容は、最初入信時は方便品・自我偈、そしてお題目を百ぺん(約五分)くらいしっかりと唱えれ ばよろしい。… 內得信仰の勤行の功徳についてでありますが、これは御本尊に向う勤行と全く同じ、断じて差別はありません。…
 御在世においても、熱原の法華講の人々は名もなき農民、恐らくは個々に御本尊を頂いてなかったに違いない。いわゆるいまの内得信仰の形で信心修行に励んでいたのです。しかしその不惜身命の信心は大聖人の御意に叶い、ついに本門戒壇の大御本尊に『願主』として、永遠にその名を留められた」(「富士」第171号 )
11月1日  講談社、月刊「現代」、毎日新聞記者・内藤国夫執筆記事「あえて問う 創価学会と池田大作会長の変ぼう」掲載。(「現代」12月号 )
11月7日
 宗門、細井日達管長、創価学会本部常住板本尊を正式に允可(いんか)。
「学会の方で板御本尊に直した所があります。それは私が知らなかった。しかし、後で了解して、こちらも承認した」(「大日蓮」第390号)
11月9日  創価学会、創立47周年慶祝法要(創価学会本部)。細井日達管長が大導師をつとめ、創価学会本部模刻本尊を開眼。
 池田大作会長「世間では、宗門と学会が離反するのではないかと一部で言われておりますが、誠に迷惑至極。なお、僧俗の和合にあたり、短期間のうちに膨大なる発展を成し遂げた宗門ならびに学会にとって事実、多少のトラブルはやむをえないし、それが将来への大いなる結実への第一歩となれば幸いと思っております」(「聖教新聞」11月10日 )
 細井日達管長「私は会長・池田先生を、またよく先生の信心を信じております。この先生あってこそ、学会は万全である。また宗門も援助していただける、と深く信じておるのでございます」
11月13日
 宗門、11ヶ寺が御講で創価学会批判。
「反学会の意識の強い僧侶らは、月一回寺院でおこなわれる御講で、学会批判をするまでになった。同年11月13日の御講では、11ヵ寺が公然と学会批判をおこなっている。反学会僧侶らの活動は、その後、山崎の思惑どおり全国規模で拡大していった」(「反逆の裏にある顔」北林芳典)
11月14日  創価学会、宗務院に「僧俗一致の原則」(五か条)、「僧俗一致のために」(七か条)、反学会僧侶11名の「処分要求書」を開示。
 宗門たたきに調子に乗っていた池田大作会長であるが、マスコミからの攻撃に動揺し「創価学会は宗教法人ではあるが、法人設立の三原則を遵守し、日蓮正宗の信徒団体たる立場を明確にする」ことを盛り込んだ「僧俗一致の七カ条」を発表した。
「まだ草庵の段階でしたが、池田先生はそれを聞くと、直ちに秋谷副会長から取り寄せ、当時の総監、教学部長に手渡してしまったのです」(「池田先生への手紙」原島嵩)
11月16日  月刊ペン裁判、第9回公判、引き続き被告人尋問。隈部被告「警察官調書は全くのデッチ上げで、取り調べも脅迫的だった」と。
11月17日  創価学会、本部幹部会開催。池田大作会長、いわゆる「会長本仏論」を否定。
「牧口先生も、戸田先生も、また私達も、全部凡夫でありますゆえに、南無=帰命すべきその根本は、唯一、御本尊であるということを忘れてはならない。すなわち御本仏は日蓮大聖人御一人であるということであります。したがって私どもは、三宝を敬うことは当然であります」(「聖教新聞」11月19日 )
11月18日  創価学会、宗務院に「僧俗一致の五原則」を提示。
「一、日蓮正宗並びに創価学会は、共に日蓮大聖人の三大秘法の仏法を広宣流布することを目的としており、その目的遂行のため、永久に僧俗和合して進む。
 二、創価学会は、日蓮正宗の信徒団体として宗門を外護し、宗門は創価学会の宗教法人上の自立性を十分尊重する。
 三、創価学会は、宗門・僧侶を尊敬する。宗門並びに僧侶は、学会を大事にし、批判しない。相互間に問題があれば、必ず連絡会議及ぴ僧俗協議会で協議する。
 四、宗門は、創価学会が宗教法人上の必要性から行なう一定の儀式法要については認める。また学会は、寺院での儀式にも参加する。
 五、僧侶は、寺院に来た学会員の相談に応ずるのはよいが、その際必ず創価学会の組織につける。また、学会員で個人的に法華講に入講を希望するもの、及び法華講員で学会に入会を希望するものがあれは、僧俗協議会にはかり、検討する。但し、この場合でも、双方互いに批判しないことを条件とする」
 宗門、末寺僧侶一斉に反発の色を示す。
「佐々木師は怒ったように、『よく読んでみろ! これは完全に創価学会が日蓮正宗と対等な、一宗一派をつくると宣言しているようなものじゃないか』と言った。… 佐々木師は、『近いうちに猊下のところに、これをどうされるか聞きに行くつもりだ』と言っていた。…
 私は佐々木師のもとから帰って、山崎氏に電話をしてみた。… すると、山崎氏は、『知ってるよ、和道さん。あれは完全な独立宣言書だよ。池田さんは宗門があれを飲めば、しめたものと言ってホクホクしているよ。早瀬さんは、それをハハーと言って、有り難く受け取って帰ったそうだよ。『これで宗内も収まります』と言っていたそうだよ … 』と」(「浜中和道回想録」)
11月21日  山口組系後藤組、富士桜墓園造成反対派リーダーに暴行・傷害。
 若頭代行・佐野慎、富士宮市神田川町の望月好郎宅へ12トン用の大型ブルドーザーで突っ込み、ブロック塀を22カ所10mにわたって突きくずし、玄関をえぐりとる。さらに、日本刀を持って家の中に侵入。居間にいた望月さんに切りつけ、重傷を負わせて逃走。(「岳南朝日新聞」77年11月23日)
 望月氏は、背中・肩・顔を斬られ、特に背中の傷は肺に達する重症。一命は取りとめたが、数年後に死亡。
「創価学会の忠犬となった自民党市議の会社が中心となって、二百数十億円にのほる工事を請け負うこととなった。市長や自民党市議の勢力と反対勢力との政争などから、種々トラブルが起き、最後は傷害事件まで生じたが、双方の陣営に対するワイロと、地元暴力団の積極的な協力によって、何とか完成にこぎつけた。最後まで妨害した人物に対しては、暴力団がブルドーザーで家に突っ込み、日本刀で片腕を切り落とす、という荒療治で鎮圧した」(「懺悔の告発」山崎正友)
11月22日
 宗門、阿部信雄師、常泉寺住職となる。(「大日蓮」53年1月号 )
11月22日  富士宮署、佐野某を殺人未遂の疑いで緊急逮捕。
11月23日
 妙信講、「特別調査班」設置、主任に神野雅満任命さる。
11月27日
 妙信講、11月度総幹部会開催(豊島公会堂)、11月度折伏成果 752世帯、総世帯数 2万を突破。
 浅井昭衛講頭「二万達成は法の為、国の為、宗門の為、最大の喜び、これこそ昭和56年に熱原のごとき五万の大法華講必ず成るの瑞相」
11月28日  創価学会、正本堂建設事業費の疑惑に反論。(「聖教新聞」11月28日号 )
12月1日
 妙信講、班長会開催。浅井昭衛講頭「2万は仮の宿、大聖人の待ち給う大法戦場へ驀進せよ」
12月1日  講談社、月刊「現代」。内藤国夫記者、再び「創価学会批判」記事掲載。(「現代」1月号 )
12月4日
 妙信講、第1回特別調査班会開催。
12月4日  創価学会、池田大作会長。宮崎・日向本山定善寺本堂新築落慶入仏式で、形勢不利と見てご寛恕願い。
「私は愚鈍の身であり、日達猊下にも、わがままを申し上げながらも、いかなる波風にも微動だにしない僧俗和合の妙法の万里の長城をさらに深く、広く築いていきたい。どうか御尊師の方々には、私ども信者の、今までのわがままを、ここに謹んで御寛恕くださるよう、お願いしたい」と。(「聖教新聞」12月5日 )
12月6日  創価学会、第14回全国県長会議。池田大作会長、対宗門への軌道修正を示唆し、宗門への低姿勢を指示。
 1.七百遠忌を目指し、僧俗和やかに進もう。
 2.猊下を悩ましてはいけない。
 3.御僧侶を理解し、宗門外護の原点を忘れてはいけない。(「聖教新聞」12月7日号 )
12月8日
 妙信講、顕正寺上棟式奉修。
12月12日
 宗門、第2回七百遠忌慶讃委員会開催。僧俗和合をいっそう充実推進するため、宗門と学会による「僧俗協議会」の設置を決定。慶讃海外代表登山について、管長の第六十六世にちなみ、海外66ヶ国からの代表参加を決める。(「聖教新聞」12月13日 )
 細井日達管長、池田大作会長に対し「若い僧侶の連中が、創価学会と手を切るとまで言っておるのを私が抑えておるんだ、いよいよ手を切るならば、宗会も開いてはっきりしなければならんと思っておる」と。(「時事懇談会記録」)
12月22日  月刊ペン裁判、第10回公判。被告人の供述調書における任意性の否定に対し、取り調べに当った三井今朝光警部が検察側証人として出廷。
12月25日
 妙信講、「顕正新聞」月3回発行とする。
12月28日
 宗門、池袋・法道院(早瀬日慈住職)の法華講から、大草一男ら209名が離籍。その後、本山・塔中の理境坊(小川只道住職)に所属し、「法華講理境坊東京支部」となる。理境坊に移ったメンバーは、機関紙等で早瀬日慈能化批判を行った。
「私以下、元法道院所属信徒二百九名は、昭和五十二年二月二十八日をもって、日蓮正宗法華講・法道院支部を離籍した。しかし、離籍したとはいえ、御法主日達上人猊下に随順せんとの信心に変わりなく、また、決して法道院に造反するつもりなど毛頭ないことも、お断りしておく」(「法の道を歩む法道院信徒209名離籍の真相」)
「早瀬総監が住職を勤める法道院の法華講が、早瀬総監に反旗を翻したとのことであった。その理由は、法道院の執事であり、日達上人の弟子でもある志岐長導師が、早瀬師のことを『本従の師』と法道院の法華講員に指導したとのことであった。
 そのことが日達上人の耳に入り、『本従の師』というのは、宗祖大聖人のことであり、その名称を一末寺の住職に冠することはケシカランと烈火の如く怒られたとのことであった。そして、日達上人はその志岐師の指導に疑問をもった法華講員が法道院を離れることを許可し、そのメンバーを小川只導師住職を勤める理境坊に所属させた。日達上人の弟子の集まりである妙観会は別にして、宗内で "法器会" という大人数の僧侶派閥率いる早瀬総監の法道院の出来事だけに、宗内の耳目を集めた、法道院三千世帯の法華講の中、二百人ぐらいが脱講したとのことであった。
 これについて宗内では、『創価学会ベッタリの早瀬総監を日達上人がいよいよ排除する決意を固めた』『これはいってみれば、池田会長に対する日達上人の決意を表すものだ』との噂が流れた」(「浜中和道回想録」)
12月28日
 妙信講、浅井昭衛講頭「立正安国論を拝し奉る」執筆、「富士」12月号に掲載。
12月28日  創価学会、杉並区代表幹部会、池田大作会長「世間では、学会は世襲制にするのではないかという人もいるが、学会は、永久にそういうことはしないということを申し上げておきたい。… 信仰を根本とすべき宗教において、世襲制はそれ自体、もはや堕落である」

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