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破邪新聞 昭和五十年四月十五日号 (第7号)
新副住職赴任さる
円頂方袍
昨年暮、寒い冬にむかう頃、元妙信講の暴力に迎えられて入寺した暗い陰気な妙縁寺でしたが、今ではすみずみまできれいで、多くの青年信徒が出入りして活発に振舞う明るい“春の寺院”に生まれかわりました。
もっとも裏の方では老令に対する温情から居住を許されているにもかかわらず、恩をあだで返す松本日仁が、飯炊婆さんを客引に仕立て“しきみはこちら、法要はこちら”とこそこそ墓参りの人の袖を引かさせているみじめな姿が時折りみられますが、それすら表の明るいたたずまいに何の影響も及ぼせないどころか、かえって引立てているくらいです。
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それにしても、堂々とお寺に来る法華講、学会員の方々の功徳に満ちた喜々とした表情に比べ、こそこそ泥棒猫のように松本のところにしのんでくる元妙信講の人達のいかに暗くみじめなことか。魔にたぶらかされ、自己の判断力と思考力を失った浅井教のロボット達は、目の光もうつろで言うこともすることも、表情やしぐさまで浅井に以ているのですから不思議です。魔の通力というか、本当に気の毒です。
何とか宗門と学会を仲たがいさせ、その間げきをぬって実権をとろうというさもしい野心と根性が、人のあらさがしをするときのしたり顔にありありとあらわれています。このような人間性の貧しい輩に、何で崇高な宗教を云々する資格がありましょうか。
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たしか昨年六月頃には、“二、三か月以内に学会は音をたてて崩れるであろう”と、大見栄を切ってことを起した浅井昭衛であります。このことを、元妙信講の人達はよもや忘れてはいないでしょう。それが三か月はおろか、一年たっても、宗門も学会も厳然としています。かえって、音をたてて崩れかかっているのは浅井一派の方ではありませんか。
元妙信講員は次々と脱落し、会合を開いてもひところの半分位しか集まらず、皆、浅井の狂気じみた“ノストラタムスの大予言”にはうんざりしはじめています。形勢利あらずとみれば、今度は、“三年以内に結着”等と云い出す、この上、裁判で負けたら、一体どう云いわけをするのだろうかと、今から楽しみです。
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誤った考えをもった一部の信者に対する猊下の御指南をどうかん違いしたか、言論問題の時と同じく“今こそ学会攻撃のチャンス”と信義も道理も踏みにじって暴走した浅井昭衛の野心と身の程知らずが、正しく「還著於本人」、自分の墓穴を掘る結果となりました。
無暴な行動にかり立てられて傷つき、病気になり、前科者となり、或いは無理がたたって失業した幹部も少なくありません。名をあげるには余りにも気の毒であります。“浅井昭衛よ。自分は地獄に落ちようと勝手だが、多くの無知な人達を道ずれにすることは止めたまえ”といいたいのです。
黒幕
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破邪新聞 第7号は、第6号で 破邪新聞刊行委員会が発足し、「掲載を求める記事の投稿が、のせきれない程殺到して、うれしい悲鳴をあげてい」て、「かなり原稿もたまっておりますので、二、三月は、月三回の旬刊」と言っていたのでしたが、ずいぶんと遅れたことでした。それはさておき..
一面には「新副住職赴任さる」の記事と、妙縁寺総代であった
佐藤悦三郎氏の「法華講連合会 委員長就任にあたって」とする文章、そして「円頂方袍」(上掲)と「黒幕」(別掲)という無署名のコラムが掲載されていました。
では今回は、力作の「円頂方袍」を、じっくりと味わってみましょう。
「このような人間性の貧しい輩に、何で崇高な宗教を云々する資格がありましょうか」とは、自ら組織・指揮して<組織的犯罪行為>をなした、山崎氏自身にふさわしいことでありましょう。そしてそれを山崎氏に指示したのは、山崎氏言うところの「日本最大の人権侵害団体」の長、池田大作氏であったことでした。
妙信講本部の本尊を奪取することで組織壊滅をはかった理不尽な裁判は、事実上妙信講の勝利たる和解に終わりました。その後山崎氏においては池田氏に冤罪を着せられて獄につながれ弁護士資格も剥奪、正しく「還著於本人」、「自分の墓穴を掘る結果」となりました。
また、山崎師団にあって、堕落し・過ちを犯す者少なからず、まさに ”自分は地獄に落ちようと勝手だが、多くの無知な人達を道ずれにすることは止めたまえ”ということでありましょう。やがて、山崎氏の指揮下で働き、破邪新聞を出していた久保川・浜中氏等も、宗門追放となりました。
そして創価学会・池田大作名誉会長また宗門から破門、彼が御遺命の「事の戒壇」と誇った誑惑の殿堂・正本堂も、いまや地上にその影を留めません。
当時一万二千世帯の妙信講は、いま冨士大石寺顕正会として八十万の弘通を成し遂げ、国立戒壇の正義を掲げて邁進しています。
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