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沿革:
講中設立、
試練と忍従、
七千即一万、
確認書、
誑惑訂正、
解散処分、
本門寺改称阻止、
誑惑崩壊、
国家諌暁
六、解散処分
正本堂の誑惑訂正を固く約束したにもかかわらず、落慶法要を行なった昭和四十七年十月十二日、池田大作会長は儀式に参加した全創価学会員に、福島源次郎副会長を通して「本日、七百年前の日蓮大聖人の御遺命が達成されました。ありがとう」と伝えさせていたのでした。
そして昭和四十八年五月、妙信講の本山登山の願いに対して、池田会長は宗務院をして妙信講に「国立戒壇を捨てなければ、登山させるわけにはいかない」と言わしめました。
ここに妙信講は、「御遺命守護の御奉公、未だ終わらず」と知りました。そしてその欺瞞の根源こそ、共産党代議士の国会質問を承けての政府照会に対し、創価学会が昭和四十五年四月二十三日に文部省に提出した、国立戒壇否定の回答書にあることを。
浅井本部長は再び、諌暁に立つことを決意。創価学会への会談の申し入れが拒否されるや講中の命運を顧みず、御遺命守護を特集した百万部の顕正新聞を全国の創価学会員に配布。また七月二十八日には明治公園に、三千人を結集した立正安国野外集会を開催、「国立戒壇を否定した政府への欺瞞回答を撤回せよ。もし撤回しなければ、妙信講が文部省に対して訂正する」と、八月十五日の期限を切って創価学会に迫りました。
日蓮正宗の一講中たる妙信講による、政府への欺瞞回答の訂正を恐れた池田会長は、妙信講を宗門から抹殺する以外にないとして宗務院・細井管長を動かし、昭和四十九年八月十二日を以て妙信講を解散処分に処したのでした。
解散処分の宣告書には、「 一、主文 講中解散に処する。右妙信講は数年来、『国立戒壇の名称を使用しない』旨の宗門の公式決定に違反し、更にまた昭和四十七年四月二十八日付『訓諭』に対して異議を唱え… 」と。
細井管長は、御遺命守護の赤誠を尽くす妙信講を完全に壊滅せしめんとして、猊座に背くとした妙信講非難の直筆の文書を数度に渡り全妙信講員宅に送付。また妙信講本部の御本尊を奪うため、宗門に本尊を返却せよとの裁判を起こしました。
さらには、争子・賢臣たる妙信講を庇護するご老齢の松本日仁尊能師まで、無慚にも擯斥・宗門追放としたのでした。
加えて、創価学会の山崎正友顧問弁護士率いる謀略部隊による、妙信講壊滅のための一連の悪質な策謀が、妙縁寺の久保川法章住職と連携して激しく組織的になされました。
しかして妙信講は微動だにすることなく、その後二人三脚で妙信講を抹殺せんとした細井管長と池田会長の関係こそ、不思議にも却って険悪化。
細井管長膝下の正信会の僧侶が池田会長の慢心・逸脱を責め、池田会長はお詫び登山の屈辱の後、ついに法華講総講頭ならびに創価学会会長の職を辞しました。そして昭和五十四年七月には、細井管長が急逝されました。
解散処分時にわずか一万二千世帯だった妙信講は、宗祖大聖人・二祖日興上人の御眼のみを畏れてひたむきな弘通を続け、昭和五十七年には六万の集団となりました。
そして、創価学会の擁する強大な顧問弁護団を相手とした、長い法廷闘争にもついに実質的勝利の決着を果たしました。ついに、本部會舘の御本尊をご守護申し上げるとともに、日蓮正宗の名を冠すること誰人にも妨げられることなかるべし。
ここに妙信講は浅井昭衞を会長とし、名称を「日蓮正宗顕正会」と改めました。
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