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第十三回寺族同心会大会 細井管長説法
昭和四十五年五月三十一日
( 国立戒壇の名称不使用 ) 於 大講堂
五月三日創価学会の本部総会が行なわれました。その席で今日以後、私の方、日蓮正宗では国立戒壇と云う名称は使わないと云う事を私は申しました。
それに対して大変あちらこちらで不平の方もあったらしいのでございます。
国立戒壇と云う名前を使わないと言っても、決して三大秘法抄の戒壇の御文、或は一期弘法抄の戒壇の御文に少しもそれを否定したり謗ったり、或は不敬に渉る様な事は少しもないのでございます。勿論、三大秘法抄とか一期弘法抄に国立という名前は使っておりません。
またあの国立と云うのは明治時代に非常に国家権力が盛んになってきました。その前にも日本に於いて、昨日の話しの如く太古に於いて国家権力が強かったのでございますから、国家の庇護に依って仏法を流布しようと云うのが仏法者の考えでもあったのであります。
しかし国家の方では仏法を利用し、その太古に於いて国を盛んにし外国からの侮りを受けない様にしようと欽明天皇が仏教を採用した、と云うのは幸いにして朝鮮の百済から来た仏教をもって、そう云う新しい思想をもって今迄の神道の思想が非常に横暴であるから、それを防いで何とかして国政を盛んにし外国の侮りを得ない様にして仏教を採用して行った。
それが段々奈良朝時代になって来ると、今度は仏教徒がそれに甘んじて、自分等の勝手な振舞いをし国家の援護に依って仏法を盛んにするのみならず個人の堕落も来たしたのであります。(略)
( 句読・改行等、便の為に当サイトにて添加 )
この「不平の方」とはもちろん云うまでもなく、妙信講を指しているのでした。わずか二日前の昭和四十五年・五月二十九日、総本山対面所で細井管長は、創価学会を代表する秋谷副会長・森田副会長・和泉理事長の三名に、「正本堂は三大秘法抄・一期弘法付嘱書に御遺命された戒壇ではありません。まだ広宣流布は達成されておりません。どうか学会は訂正して下さい」と、命じられたことでした。
しかるに何故にこの寺族同心会の場で、細井管長からこのような言葉が発せられたのでしょうか。
すこしく推察をするに、もちろん細井管長の御本心は登座の説法の如く御遺命の戒壇は即「国立戒壇」であり、二ヶ月前の四月三日には妙信講の諫めに対し、「国立戒壇は当然であり、場所は天母山である」と、指南されていたのでありました。
ところが創価学会の圧力もだし難く、心ならずも五月三日の創価学会本部総会の席で「今後、日蓮正宗では国立戒壇と云う名称は使わない」と、対外的に発表をせざるを得なかったのでした。マスコミ、そして政府・国会が注視する中でそう述べた以上、この事はもはや絶対に変えることはできない。これを変えれば猊座の権威も、そして宗門の威信も失墜する。
しかし、血脈付法の貫首として争子の諫めある以上、大誑惑と百も承知で「正本堂は三大秘法抄・一期弘法付嘱書に御遺命された戒壇」なる邪義をして、とうてい「是」とは云えない。よって、創価学会には妙信講が云うように「正本堂は御遺命の戒壇ではなく」行き過ぎを訂正せよと求め、妙信講には創価学会が云うように「国立戒壇の名を捨てよ」..と。
おそらくはこの時、創価学会と妙信講・双方に譲歩を求める、御自身の立場・方針・行く末を覚悟された、ということだったのかもしれません。見方を変えれば、双方の顔をそれぞれにそれなりに立てられた、とも云えましょう。
悲しいかな..。その決断・判断において、大聖人の御眼を畏るるの赤誠と、法義護持の智水に欠くるところがあられたこと、また時のしからしむるのみ..だったのでありましょう。
(
平成十四年六月十七日、櫻川 記 )
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