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    国立戒壇論の誤りについて

 
二、国立戒壇の由来

  (
本宗で“国立戒壇”の名称を使用した経緯

 これらの信士、学人がたまたま当宗の法義を瞥見し、その浅見的判断より本門戒壇の大御本尊その他の法義を、卒爾に批判する者があらわれた。これに対して本宗の僧俗が断固として反論し破折を加えたのも、当然であった。
 この論議は、主として戒壇論が中心であったから、論中に本門戒壇に関する表現が必要となりかつ使用されたのである。この場合に当宗の法義を論難する相手が先に、田中智学の創唱する国立戒壇の名称を使用したのである。

 これを受けて立つ当宗側においても、当時として特に国立戒壇の名称を積極的に嫌う理由も発見されず、というより論議の的は、国立か否かということではなく、その戒壇にいかなる本尊が安置されるべきかということにあったため、国立戒壇という表現は、相手の表現に応じて使用し始めるようになったのである。
 これが国立戒壇の名称がわが宗門で使用され始めた経緯(いきさつ)であり、決して前に挙げた国柱会の思想に同調して使用したというものではない。

 宗門関係の文献に国立戒壇の用語が初めて見出されるのは、大正元年十月、宗門機関誌白蓮華七巻十号に、正宗信徒荒木清勇氏が要法寺の富谷旭霜氏の批判(本宗の戒壇本尊への論難)に対して、その妄を破す中に用語として使用している。
 次は大正三年、白蓮華九巻一号に掲載の記事中、本宗奈良教会信徒と、日蓮宗某の問答の抄略記に見出される。「
我正宗の本尊は……国立戒壇建立の暁本門戒壇の大御本尊として奉安せられ云云」の一語を見るのである。その後、昭和に入ってからは、国立戒壇の語が、宗門の文献に、多少散見される。しかし、いずれも、国立戒壇論として、積極的、体系的に述べられたものではない。(もっとも小笠原慈聞師のように例外はあるが)
                                       
 以上の経緯からして、国立の用語は、明治維新後、日本国体の尊厳意識と惟神(かんながら)的国家思想が急激に鼓吹され盛んになったことに付随して発生したものである。したがって、それは明治以降の日本社会の思想的特殊性における一つのあらわれといえようが、それ自体にわが宗門の法義上の絶対性や本質があるとは、到底考えることはできない。

 最も大切なことは、遣使還告の血脈の次第から、現御法主を大聖人と仰ぐべきであり、現在においては御法主、日達上人猊下の御意向を仰ぐのが正しい。
 その御当代日達上人が、序論にあげたように昭和四十五年五月三日において、また同年五月三十日、三十一日の寺族同心会の御説法、都合三回にわたって、国立戒壇を今後宗門として使用しないことを宣言あそばされている。更に、本年四月二十入日の訓諭においても、国立戒壇云云の文言こそないが、明らかに国立戒壇を否定された前提に立たれている。
 それは、未来の広宣流布への大方針の宣言であることを銘記すべきである。



 ここに示された田中智学居士の国立戒壇論は、ほとんど富士門流のみが伝えてきた「本門戒壇」の法義の踏襲でした。なぜかならば、智学居士は明治十五年の「横浜問答」で富士派との法論に敗走し、以後ひたすら富士の伝統法義を学び取ったのでありました。
 そこにおいて、富士門流の一国同帰を前提とした勅立の“本門寺の戒壇”・“事の戒壇”の法義をはじめて知って盗用、自ら「国立戒壇」の文語を提唱しては、あたかも“持論”のように世に喧伝したのでした。

 こうした経緯は衆知のことであって、かつては創価学会も「
田中智学は、国立戒壇の建立が宗祖大聖人窮局の御本懐であらせられることまでは知ることができたものの、さて戒壇の大御本尊は如何に」(大白蓮華、昭和三十二年九月)と述べ、また「国柱会の田中智学は富士の正義をぬすみ、三大秘法抄によれば富士の本門戒壇を建立すべきだ、などと主張した」(同、昭和三十五年六月)とし、さらには日蓮正宗のみが、大聖人の御遺命をうけて、富士山に事の戒壇(国立)を建立しようと、必死の努力を続けてきたことは明白になった。近ごろは田中智学門流でさえも、囀(さえず)っている」(日蓮正宗創価学会批判を破す、昭和三十七年四月)とも述べて来たことでした。

 もちろん、創価学会だけではありません。日淳師は「田中智学氏の『日蓮聖人の教義』なる著書は、日蓮正宗の教義を盗んで書いたものであることは明白である」(「興尊雪冤録」の妄説を破す、昭和三十年十月)と、きっぱりと仰せでありました。
 阿部教学部長にして、こうした「事実」を知らぬはずはありません。「昭和に入ってからは国立戒壇の語が、宗門の文献に多少散見される」などが嘘八百であることは、当サイトの「
宗門」に掲げた各種資料を見れば明らかでしょう。

 しかるに、そうした経緯・史実をスリ替えて、「本宗僧俗との間に論議接触が生ずるようになった」、また「富士戒壇論に共鳴する者は、その意義を論じつつも」等と、卑怯にも事実の一面のみをなぞって、国立戒壇の法義こそ富士門流の伝統法義であった肝心な事実を、阿部教学部長はあくまで隠蔽し・否定するのでした。
 これあたかも法然房が、法華経等をして「
或は捨て或は閉じ・或は閣き或は抛つ、此の四字を以て多く一切を迷はし」(立正安国論)たことに、似てはいないだろうか。阿部教学部長は、こうして「国柱会の思想に同調して使用したというものではない」と述べて、富士門流にのみ伝わる国立戒壇建立の<御遺命>を「捨閉閣抛」せしめたのでありました。

                          ( 平成十五年一月三日、櫻川 記 )


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