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     闇の帝王、池田大作をあばく

 終章 宮本顕治邸盗聴事件の新事実

  
箱根研修所

 昭和四十五年四月下旬、私は、池田氏に呼ばれて箱根研究所
(ママ)におもむいた。当時は、世間の目をカムフラージュするために、民音の研修所という看板をかけていたが、言論妨害事件で世論が沸騰していた間、池田氏は、ほとんどここにこもりっ切りで、佐藤栄作氏に電話で哀願したり、東京の学会本部で防戦にこれつとめていた北条氏以下を叱咤激励していた。

 この日、私の他にも、検事の神崎武法、朝日新聞の央忠邦記者といった、日頃、池田氏の諮問役をつとめている人達が数名いっしょによばれていた。そして、一階の仏間で池田氏をかこんで、五月三日の総会における、池田氏の“
謝罪原稿”についての検討会が行われたのであった。

 ちなみに、私は、この年の二月から四月にかけて、数回、箱根によばれている。一回目は、二月中旬であったと思うが、このときは、北条、森田、といった学会首脳と、竹入、矢野、浅井、正木といった公明党首脳といっしょであった。そして、池田氏の前で、竹入・矢野を辞任させ、後任として、正木(委員長)、大久保(書記長)を登用することの是非などを検討する御前会議が開かれたのだった。
 三月中旬には、矢野書記長は、池田氏からはげしい総括を受け、マジナイと称して、皆のみている前で数珠で頭を殴打されたのであった。

 最終回が、先に述べた、五月三日の総会の原稿案を検討するために呼ばれた日であったが、午後から夜にかけて、池田氏と打合わせたり懇談したりした後、池田氏は、疲れと病気を理由に、早々と専用施設に引き上げた。


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  本書の冒頭で、山崎元顧問弁護士は「
これほど密着した行動をとったことは、私といえど過去三回しかない。正本堂落慶のとき(昭和四十七年)、創共協定発表のとき(昭和五十年)、そして、四十九年の宗門問題のころ」と述べ、この昭和四十五年二月から四月にかけては、その数に入ってはいないことでした。この時は山崎元顧問弁護士が情報分析にかかわった最初であり、そしてこの時の働きが池田会長に高く評価されて、以後重用されることとなったのでした。

 箱根の山中に創価学会・公明等の中枢幹部を呼びつけ、当時池田会長がしていたことを見てみましょう。
 それは、国会承認喚問阻止のための各党への懐柔工作の指揮、同じく佐藤栄作首相への根回し、公明党役員人事刷新の検討、国立戒壇についての政府照会への対応、三月下旬に届いた妙信講の「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」への対策、五月三日の総会の池田会長“
謝罪原稿”の内容検討、同じく宗門に対する「国立戒壇放棄の公式決定」の強要、今後の共産党に対する対策とそれら一切の総括・決済等であって、まことに盛り沢山なことでありました。

 池田会長・創価学会としては、すでに四年前の昭和四十一年五月八日の創価学会本部幹部会で、「
今後、国立戒壇という言葉は使わない」ことを決定していたのですから、この機会を奇貨としてそれを宗門に認めさせ、「公式決定」までさせることができたということは、“ころんでも只では起きない”と言うべきでしょうか。

 しかしながら、この「
会長謝罪講演」を期に、創価学会は大きな変質を余儀なくされたことでした。
 側近の一人であった藤原元総務は、「この事件が創価学会、公明党に与えたダメージは想像以上に大きかった」、「創価学会に対する社会の風当たりが強まり、それまでの折伏という強行手段はとれなくなった。戸田二代会長から伝授された組織拡大の秘密兵器を奪われた池田大作はなす術がなくなり、広宣流布による日本社会の制覇という『天下取り』の野望は崩れ去った」、「学会勢力の伸びは横這い状態からやがて五十年代に入ると減少傾向を示し、今日まで一度として上向きになることはなかった」と述べていますが、その通りでありましょう。

                          ( 平成十四年三月十日、櫻川 記 )


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