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創価学会第三十三回総会 池田会長講演
言論・出版問題
( 言論の自由の根本 )
次に言論・出版問題について、私の心境を申し上げます。
今度の問題は「正しく理解してほしい」という、極めて単純な動扱から発したものであり、個人の熱情からの交渉であったと思う。ゆえに言論妨害というような陰険な意図は全くなかったのでありますが、結果として、これらの言動が全て言論妨害と受け取られ、関係者の方々に圧力を感じさせ、世間にも迷惑をおかけしてしまったことは、まことに申しわけなく、残念でなりません。
たしかにこれは、それ自体としては、法律に抵触するものではなかつたと思う。しかし私は、法に触れないから、かまわないというような独善的な姿勢ですまされる問題ではなく、まさに道義的に考えなければならない、最も大切な問題だと思うのであります。
今回の問題をめぐって幾多の新聞、雑誌にフランスのボルテールの次の言葉が引用されておりました。それは「私は、お前のいうことに反対だ。だが、お前がそれをいう権利を、私は命にかけて守る」という有名な言葉であります。
私は、これこそ言論の自由の根本だと思う。かくも言論の自由が尊重されるゆえんは、それが人間の権利の欠くべからざる要素であり、あらゆる人が自己の主義主張をなんら拘束されることなく、表現できることが、民主主義の基盤であるからであります。
( 句読・改行等、便の為に当サイトにて添加
)
「個人の熱情からの交渉であったと思う」などと人ごとのように語り、「言論の自由」が「民主主義の基盤」であると、したり顔で説く厚顔はたいしたものでありました。
そもそも、「選挙前にこんな本が出るのは邪魔だ」「相手と話をつけて、余計な雑音を押さえろ」と命じ、「無理押しはやめたほうがいい」と進言する藤原元総務に、重ねて「きみのやり方は手ぬるいんじゃないか。向こうからやられてもいい覚悟で徹底的にやってこい」と、「言論の自由」も「民主主義の基盤」も踏みにじって厳命したのは、池田会長自身でありました。
藤原弘達氏の自宅に学会員を動員してイヤガラセの手紙・無言電話・脅迫電話等を裏で殺到させておいて、どこが「言論の自由の尊重」・「民主主義の基盤」であるのだろうか。
さらには、学会系の潮出版社など出版関係の幹部たちを動員して、「おまえらも全力を挙げてあの本の出版を潰せ」と命じ、妨害行為がマスコミに糾弾されるやコソコソと自民党の田中幹事長にモミ消し工作まで依頼したのでした。
こういう輩を日蓮大聖人は、「諂曲(てんごく)なるは修羅」(本尊抄)と、きっぱりと分析しておいででありました。
ねじ曲がった精神を持ち猜疑・嫉妬の心強く、勝他の念に執着して他より劣ることに耐えられず、常に他を軽んじて己を大切にし(日蓮大聖人御書辞典、池田大作監修
より)、自らを飾るために他に向かっては「賢善を説く」(言論の自由や人権尊重や民主主義や世界平和)というのでした。
大聖人を摂受の聖僧に貶めては自らを折伏の大賢王に任じ、あるいは己を転輪聖王に擬し、正本堂の寄進を久遠元初以来の壮挙とうそぶき、日本乗っ取りまではかるような手のつけられないこの「自我拡大」と「ナルシズム」は、「勝他の念」の執着の極みでありましょう。
おもしろいことにその奢りが壊れたときの、「おごれる者は必ず強敵に値いておそるる心出来するなり。例せば修羅のおごり帝釈にせめられて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し」という面もまた、ピッタリ符合することでした。
池田会長本人の国会証人喚問の可能性が生じるや、日ごろのおごり・威張りかえった仮面はどこへやら、自らの「諂曲」の正体が暴かれることをおそれ・あわて・うろたえ、箱根研修所へ逃避行を図って山中に身を隠し、それからこの総会をむかえたことでした。
しかしてその自身の「諂曲」に対しては何の反省もなく、さらにまた「諂曲」に「諂曲」を重ねては、国立戒壇を否定して御遺命を破壊すること、無慚なことでありました。
(
平成十四年四月七日、櫻川
記 )
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