|
これでも池田大作を信ずるか -- 創価学会の友に訴える --
第一章 信じ難い現実
( 細井日達猊下の御説法 )
(略)
「富士宮のこれは信者ではないけれども、ある有名な人は大石寺は前々から言う通りに、軒を貸して母屋を取られるような事があるならば、大石寺の恥だけではない。富士宮の恥だという事を放言していたという事です」(略)
「ただ表面に服従して、ただ大きくなる事を望まないでもっとよく信心をしていただきたい。そして、宗門を護っていただきたい」(日蓮正宗総本山大石寺内事部発行「蓮華」、昭和49・5月号)(略)
「最近ある所では、新しい本仏が出来たようなことを宣伝しておるということを薄々開きました。大変に間違ったことであります。もしそうならば正宗の信仰ではありません。正宗の信徒とは言えません。そういう間違った教義をする人があるならば、法華講の人は身を以ってくい止めて頂きたい」(前出「蓮華」、昭和49・6月号)(略)
「この辺でも最近、人間革命が御書だということを盛んに言われてきております。私の耳にもしばしば入ってきています。また、誰れが本仏であるという言葉も、この近所で聞かれるのであって、私は非常に憂慮しています」(略)
「どうか、一時の富貴を喜ばないで、大聖人の根本の仏法をどこまでも貫いて頂きたいと思います」(「大日蓮」、昭和49・7月号)(略)
引用させていただいた細井日達猊下の御説法三篇は、いずれも日蓮正宗総本山大石寺内事部発行の月刊誌「蓮華」及び、日蓮正宗宗務院発行の「大日蓮」に掲載されたものである。
「蓮華」昭和四十九年五、六月号所載の猊下御説法をはじめて知ったのは、「日蓮正宗妙信講」と名乗る人達が、国電の駅頭などで配布していた「顕正新聞」によってである。“日蓮正宗”“日達上人猊下”という活字に誘われて、この新開を一読した私は、目の前が暗くなったような気がした。
というのは、日達猊下が創価学会と池田大作創価学会会長を、非難していらっしゃることが、この御説法で、あまりにも明白だったからである。池田会長とか創価学会とかいう活字こそ一字も見られないが、その内容からいって、創価学会のいき方への痛烈なご批判であることは、私達創価学会員にはよくわかるのである。(略)
( 句読・改行等、便の為に当サイトにて添加
)
下山正行氏が衝撃的な細井管長の説法を知ったのは、妙信講員が配布した「顕正新聞」によってでありました。わたしも当時・新宿駅等の主要駅頭で、連日・顕正新聞を配布したことが思い出されます。
それにしても、「一期弘法付属書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇」として、「宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証」(「訓諭」、昭和四十七年四月二十八日)とした正本堂落慶の昭和四十七年十月からわずか二年にも満たない昭和四十九年の五月から七月に細井管長のこの言のあるは、たいした正本堂の功徳というのほかはないでしょう。
しかして、ここで「そういう間違った教義をする人があるならば、法華講の人は身を以ってくい止めて頂きたい」と述べる細井管長は、法華講において誰がこれまで「身を以ってくい止め」てきたか・そしてこれからもそうであるのか、「表面に服従して、ただ大きくなる事を望まないでもっとよく信心をしていただきたい」とまで言いつつも、悲しいかな・それを如実に見極める知見を持ち得なかったのでした。
身を挺して御遺命を守護し、創価学会と論判・対峙して「確認書」(昭和四十五年九月十一日)を猊下に納め奉り、宗務院が職場放棄・機能停止する事態にあってついに創価学会をして誑惑訂正(昭和四十七年九月二十七日 )を為さしめた妙信講を、細井管長がまたも創価学会の圧力に屈して「身を以ってくい止め」ることもなくあたら解散処分に処したのは、昭和四十九年八月十二日のことでありました。
いささか視点を変えてみれば、こうも考えられるかもしれません。すでに池田会長の傲慢・慢心に、ここまで細井管長は気付き批判をしていた<時>でありました。たとえもしその知見に不足ありとしても、信徒の誠・妙信講がいますこし細井管長を包摂・猶予し、自らをしてあのように解散処分にまで追い込む路線を選択しなければ、その後の宗門の歴史は異なっていたかもしれません。
さすればあるいはまた細井管長をして、池田会長や山崎顧問弁護士に同心して「国立戒壇は大聖人の正意ではない」やら、「正に正本堂は本門事の戒壇である」等の<悪言>を為さしむることもなく、行いては御相承の断絶という事態もあるいは避けられたのかもしれません。しかし、歴史に<イフ>はないことでありました。すべては、時のしからしむるのみ、なのでありましょう。
(
平成十四年五月九日、櫻川
記 )
戻る 次
|
|
|