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     創価学会の宮本議長宅電話盗聴事件判決

第三 証拠
 三 言論出版妨害問題及び学会、公明党と共産党の対応

 
) ( 矢野書記長の接触容認談話

  (1) 公明党の矢野書記長は、昭和四五年一月一六日、言論出版妨害問題に関し、
著者、出版元との接触は認めるが、右接触はあくまでも不当な中傷に対して名誉を守るための話合いや要望の範囲内にとどまるものである、しかし、国民に疑惑を抱かせたことは遺憾である旨の談話を発表した。

  (2) 右矢野書記長談話に対して、共産党は、同日、松本代議士がこれを批判し、共産党は言論出版妨害問題を徹底的に追求していく旨の談話を発表し、翌一七日の赤旗紙上において、矢野書記長談話を「
卑劣な談話」と決めつけ、「あくまでシラをきる」との見出しのもとに批判する記事、右談話に対する藤原弘達の反論及び右松本代議士の談詰の内容を掲載した。
 また、同年二月五日には、原告が言論出版妨害問題について矢野書記長談話を批判し、引き続き共産党として真相解明の努力を行う旨の談話を発表した。

  (3) マスコミ関係では、朝日新聞が昭和四五年一月二五日の投書欄において言論出版妨害問題の特集をし、同月三〇日発行の週間朝日にも「
公明党は“批判拒否政党”か」との見出しで、言論出版妨害問題について評論家の中野好夫と、矢野書記長ら及び藤原弘達との二元討論の記事が掲載された。

  (4) 労働組合関係においても、日本新聞労働組合連合会が昭和四五年二月三〇日の春闘臨時大会において言論出版妨害問題について公明党、学会に対する抗議及び右問題についての名新聞社に対する申入れを採択し、そのころ開かれた総評拡大評議会が「
出版・言論の抑圧は許されない。」旨の岩井事務局長見解を発表したほか、各種労働組合もその機関紙に右問題を批判する記事を掲載載した。

  (5) その他、昭和四五年一月の
日本出版物小売業組合定例理事会、同年二月三日の懇談会集会が、それぞれ抗議、責任追及の意思を表明したほか、同月九日には、五木寛之ら作家七名が、潮出版社刊行の雑誌「潮」、「週刊言論」の編集部に対し、学会系とみられる出版物についての取材、執筆を自発的に差しひかえるとの文書を提出し、同月二〇日には、京都仏教徒会議が、京都府下の寺院に言論出版妨害問題批判のアピールを送付した。
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 藤原都議(当時)は昭和四十四年九月十三日に創価学会本部において、北条・秋谷両名同席の上、池田会長に 「
今回の一件はもうこれ以上の無理押しはやめたほうがいい。強引にやれる相手じゃないですよ」 と進言したのでしたが、池田会長は 「いや、藤原君の判断なんかどうでもいい。もう一回行ってこい」、「もっと強引に頼みこめ。きみのやり方は手ぬるいんじゃないか。向こうからやられてもいい覚悟で徹底的にやってこい」と指示し、翌日の藤原弘達氏との会談に秋谷氏も一緒に行くよう命じたのでした。
 翌・九月十四日に藤原弘達氏宅で、藤原・秋谷氏との三者会談が持たれ、藤原弘達氏はその際の会話を一時間四十分に渡るテープに録音、これを言論弾圧の重要証拠として後にマスコミに暴露したのでした。

 同じ時期、池田会長は藤原・秋谷両氏を鉄砲玉に使っておきながら、それとは別に学会系の潮出版社など出版関係・雑誌関係の幹部たちを動員、「おまえらも全力を挙げてあの本の出版を潰せ」と命じていたのでした。
 その厳命を承け、当時・潮出版社幹部だった池田克也元衆議院議員らは、大手取次店各社・大手書店などに手を回し、『
創価学会を斬る』を取り扱うなら学会系の潮出版社の刊行物をすべて引き上げることもありうるという脅迫・裏工作を、昭和四十四年九月中旬から連日展開していたのでした。

 さて、藤原弘達氏からテープの一件が暴露されたのは、池田会長が潮出版社幹部に取次店各社・大手書店への出版妨害工作指示を出した直後で、こうした池田会長の悪あがきがキズをどんどん深めたのでした。「問題はもはやテープだけではなく、いずれ取次店や書店への学会の圧力まで暴露されるかもしれないと池田会長は気を揉み、心配のあまり一種のパニック状態に陥っていた」と、藤原元総務はその著書「池田大作の素顔」で証言しています。

 強い不安に駆られた池田会長は事態の打開を焦るあまり、さらに最悪の手を打ったのでした。竹入委員長の 「
じゃあ、自民党の田中角栄幹事長を使ってモミ消しますか」の提案に、「おお、その手でいこう。よし、やってみてくれ」と飛びついたのでした。竹入委員長の工作により、田中幹事長本人が藤原弘達氏に電話を入れ会談を申し入れたのは、十月六日のことでした。
 しかしながら、昭和四十四年十月十五日、赤坂の料亭「千代新」で藤原弘達氏と田中角栄氏との第一回目の会合がもたれたのでしたが不首尾に終わり、十月二十三日の二度日の会見も藤原弘達氏が要請をきっぱりと蹴って、物別れとなったのでした。

 そして十二月には、共産党の機関紙 『赤旗』に自民党・田中幹事長が「創価学会の言論弾圧に手を貸した」という藤原弘達氏の談話が掲載され、新聞・雑誌などマスコミ各社の動きが俄に騒然としたのでした。
 こうした事態の悪化に直面して創価学会上層部は連日のように善後策を協議し、元より「
身に覚え」のあることであるし、著者と世間に対して「これから気をつけます」と頭を下げ、とにかく事件を収めようという最終意見がまとまりました。創価学会ナンバーツーの北条氏がその最高会議の結論を報告したところ、池田会長はここで首を横に振ったのでした。

 このとき、池田会長は 絶対に事実無根で押し通せ!」と 北条氏に厳命し、その指示は竹入委員長に伝えられ、年が明けた昭和四十五年一月五日 竹入委員長は言われた通り、事実無根で押し通」したのでした。
 この竹入委員長の事実無根発言に激怒したのは、連日・嫌がらせの電話や手紙や投書等の攻撃を受けていた藤原弘達氏でした。藤原氏の自宅には創価学会側からのイヤガラセの手紙、無言電話、脅迫電話が昼夜を分かたず殺到していたのでした。

 しかし、その圧力を激しくすればするほど著者側は、態度を硬化させたことでした。藤原弘達氏は件(くだん)の三者会談テープを持っており、自民党・田中幹事長から二度に渡り執筆取り止めを要請され、その席で田中幹事長から、「
公明党の竹入委員長から頼まれた」と創価学会側の裏工作の真相をも聞いてもいたことでした。こうして竹入委員長のウソは、関係者やマスコミ陣たちの目には、あまりにも明らかだったことでした。

 竹入委員長の無謀な「事実無根」発言は、こうして事態の問題性を一気に高める効果を果たしました。そこで事態の沈静化のため、今度は矢野書記長が昭和四十五年一月十六日に、先の竹入委員長の「事実無根」発言を撤回し、著者、出版元との接触は認める」旨の、事実上 「言論出版妨害事実」を認め( つつ、いいわけするという )る訂正発言となったのでした。

                          ( 平成十四年二月八日、櫻川 記 )


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