迷走する顕正会を斬る


淺井昭衞会長の足跡と変節

    顕正会年表 (私家版)


      
昭和43年 (1968)           _
1月1日
 宗門、細井日達管長、「大白蓮華」1月号に寄稿。「この正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も教化の儀式も定まり王仏冥合して、南無妙法蓮華経の広宣流布であります」と。
1月1日
 妙信講、浅井昭衛本部長「冨士」巻頭言。
「鳴呼、日目上人のこの御振舞いを偲び奉るとき涙せぬ者は信心なきの輩である。妙信講の前進の精神はここに立ち、ここに存するのである。「根深ければ枝しげし」と、浮薄の前進は却って大聖人の御意に叶わぬを知るべきである」
 [解説 浅井昭衛]「この43年は諫暁に立つ前年である。池田の慢心と御遺命歪曲は露骨の度を加えてきた。これを見て、いつかは立たねばならぬ、諫めねばならぬ、さもなければ大聖人のお叱りをも蒙ろうとの思いが日ごと月ごとに強まってきたのであった。この思いが「もう道は決ったのだ」「妙信講の前進は講中を大きくする為にあるのではない。唯仏弟子の自覚ある所、為すべきを為さず、努むべきを努めずしては大聖人の御眼恐しと感ずるままに、権威を恐れず、只々使命を果さんとするのみである。肚を据えようではないか」との言葉となった。
 この頃になると連合会のいかなる妨害も、もう妙信講の折伏前進を阻み得なくなっていた。まさに試練の嵐に打ち勝ちつつあったのである。この年、「富士」63号「仏法とは何か」が刊行されたが、本格的弘通をなさんとする気魄の表われであった」(「冨士」第182号 )
1月14日
 妙信講、研修部。三級昇格試験実施、出題範囲は「法華取要抄」、百余名が受験した。
1月21日
 妙信講、研修部。部員登用試験実施、204名が受験。
1月28日
 妙信講、幹部大会開催(豊島公会堂)。浅井昭衛本部長、「日目上人の御振舞いを偲び奉り、生命かけて一万世帯を達成せん」と。
「そこに今、内外の状勢を見るに、いよいよ日目上人御出現の時は迫って来ていると感ぜずにはいられない。これを思いまするに、その御出ましをお待ち申し上げ一日も早からん事を願って妙信講は捨て身の御奉公を為さねばならない。妙信講の折伏が、戦いが、日目上人御出現の道を開いているのです。この大確信を持って、この2月から全魂こめて折伏を進めて行こうではありませんか。妙信講の使命を思い、この緊迫した内外の状勢を見る時、昭和45年の一万達成は断じて遅らせてはならないのであります。自分は思っております。講頭先生の良き指導を受けながら、しかもこれ程人材の揃った妙信講でありながら、万々が一これが達成出来なかったら、それは誰の責任でもない、私が本部長として全責任を一身に負うべきだと心に決めております」
1月29日  創価学会、創価中学・高校落成式。池田大作会長、記念にイチョウを植樹。
2月5日
 宗門、松本佐一郎氏遺著『富士門徒の沿革と教義』発行。(大成出版社)
「三大秘法は..閻浮同帰を目標にする。国立戒壇は、閻浮同帰への前提だ。国立戒壇の前提は、異体同心である。下々の下々たる土民までが聖人の師子王の心に同心し得たとき、国立戒壇への道が開ける。勅宣はその結論である」と論ず。
2月10日  創価学会、第9回社長会開催(於築地・小富美)。
 池田大作会長「大蔵商事では一番いやな仕事をした。どうしてこんないやな仕事をするのかと思った。
 戸田先生は葉っぱを御札にする。本当にする。そうしなければ広宣流布は出来ない。必ずそうする。広宜流布の為ならば葉っぱを札にしてみせる、と云う戸田先生の強信が今日の学会を築いた。  これからの最後の闘いは経済戦だ。10年後の経済革命への闘いだ。武力の時代は去った」(「社長会全記録」継命新聞社 )
2月11日  創価学会、出版妨害依頼。隈部大蔵著『日蓮正宗・創価学会・公明党の破滅』の出版に際し、日本大学・古田会頭等が介入。初版からただちに絶版、市販されず。
2月16日
 宗門、歴代上人墓地御遷座法要、新墓苑起工式を奉修。
  ブラジル連邦共和国サンパウロ市にて、一乗寺開院式奉修。
2月18日
 妙信講、男子部大会開催(拓殖大学)。「一万完遂後に二千名結集せん」、450余名を結集。
 浅井昭衛本部長「一万達成後、いよいよ妙信講は外に向かって立正安国の大運動を起こす時である。その時に於いて男子部は、その先陣を切って文京公会堂に二千名を集めて、堂々と出陣の大会を開いて行こう。… その成し遂げた後で、妙信講の全力をもって立正安国の大運動を起こして行かねばならない。これが指針であります」(「冨士」第55号 )
2月19日
 宗門、ラジオ放送「日蓮正宗創価学会の時間」開始。第一回、阿部信雄師担当。
2月25日
 妙信講、2月度総幹部会開催(拓殖大学)。「油断一擲、師子王の心で必勝を」、2月度折伏成果75世帯、総世帯数は5,866世帯となった。
 浅井昭衛本部長「折伏に当っては、獅子王の心をもたなければ相手を救うことは出来ない。2月の斗いでは、この決意が甘かった。故に破れたのである。この2月の油断を一擲しまして、未だ足らざる思いをかけて、この3月の斗いに入ろうではないか」
 研修部、三級昇格試験合格者は24名、登用試験合格者は42名であった。(「冨士」第55号 )
3月5日  創価学会、池田大作会長。聖教新聞に「政治の正邪を決する公場対決とは、選挙のことをいうのです。すなわち仏法、政治ともに、その正邪は折伏と選挙によって、民衆の前で決定していくべきである、との大聖人の御金言であります」とし、選挙活動が宗教活動であると位置づけた。
3月15日
 妙信講、研修部入部式開催。
「研修部では、今回従来の研修部制度を全面的に検討、現在の妙信講にふさわしい教学の実力を備えるため、三級部員並びに研修部員の資格を次のように決定した。
 要項
 三級部員 三級昇格試験を突破して三級部員になってもその後2年間著しく出席を怠った場合、或いは次の三級試験に3ヶ年連続して落ちた場合は、その資格を取り消し一般部員とする。
 研修部員 研修部員となってから2年間、著しく出席を怠ったものは自動的にその資格を失う」(「冨士」第56号 )
3月22日  創価学会、第10回社長会開催(於プリンスホテル)。
 池田大作会長、九州・霧島山麓に68万坪の土地買収を指示。「68万坪に独立国を作ろう。創価王国、創価共和国だな。そうすれば文部大臣は森田さん。大蔵大臣、中西さん。外務大臣、小島さん。軍需大臣、木村。運輸大臣、田中。建設大臣、杉本。宣伝大臣、横松。北條さんは警視総監。全部いるよ」(「社長会全記録」継命新聞社 )
3月24日
 宗門、湊邦三、「富士大石寺」刊行。
3月25日
 妙信講、3月度総幹部会開催(拓殖大学)。「3月で6千世帯を突破」、3月度折伏成果127世帯、総世帯数は5,993世帯となった。
 浅井昭衛本部長「折伏成果は昨日の9時現在で、お聴きのごとく6千世帯にあと7世帯不足をして5993世帯、まことに皆様の悪戦苦闘にもかかわらずこのわずか7世帯でもって、6千突破が言えなかったのであります。しかし本日6時現在、各支部の報告を集めまして9世帯できており、24時間ずれましたけれどこの総幹部会では、妙信講の現在世帯数は6千を突破しました」(「冨士」第56号 )
3月26日
 妙信講、研修部。初の三級部会、六巻抄の研鑽開始。
3月29日
 宗門、全国15布教区を29布教区とする。
4月1日  チェコスロヴァキア社会主義共和国、ドプチェク第一書記が「プラハの春」を宣言。検閲制度を廃止し言論の自由を保障、70余人の知識人が署名した「二千語宣言」が発表され、ドプチェク路線は国民に強く支持された。
 しかし同年8月20日、ソビエト社会主義共和国連邦のブレジネフ政権は、ワルシャワ条約機構5ヵ国軍15万を以て一斉に国境を越えて侵攻、首都プラハの中枢部を占拠した。ドプチェク第一書記、チェルニーク首相ら改革派は逮捕され、ウクライナのKGB(国家保安委員会)監獄に連行・収監された。
4月2日
 妙信講、「関西信徒某氏への手紙」
「拝啓桜花爛漫の候、愈々御健勝の事と存じます。
 さて先頃より妙信講の事に付き種々御心配を頂き、御好意は感謝に堪えません。しかしながら翻って考えまするに、小講の事はあくまでも小講の事ゆえ、終始一貫私共当時者の責任と信心に於て解決すべきが本筋であり、小講の事に関して第三者の力を借りたり、或は御迷惑をおかけしたりするのは本意でなく、誠に心苦しく思うものであります。又妙信講の仏法上の立場に付いては、私共に日頃より懐く所の存念もあり、若し未だ深く相識らぬ第三者の御方に、小講の事に関して論趣を添えて頂けば、却って真意伝わり難く、若し曲解誤伝を招けば将来お互いの恥辱ともなるものと深く憂うる次第であります。
 また御登山の事は小講が将来真に御奉公を為すに当っての大試練、更に沈考すれば罪業深重の身の先謗の所感ともつくづく観念している次第であります。いまは只身を捨てて弘通を為し、以てお目通りの叶う日をお待ち申し上げる心境の外は全くありません。依って今後は妙信講に関する限り義俠の添言も一切御無用に願います。もとより此の度の件は貴殿の自発の御好意よりなされし事なれば、当方より事改めての書面は筋違いかとも思われますが、事の重要に鑑み、敢えて一筆申し上ぐる次第であります。先ずは要用のみ。頓首」
 〔解説 浅井昭衛〕妙信講が連合会に妨害されて長いこと御登山できずにいることは、いつの間にか宗門に知れわたっていた。たまたま宗門で特殊な立場にあった関西の信徒某氏がこれを耳にした。彼は早速、事の真偽を確かめるべく、妙縁寺に松本日仁尊能師を訪れた。そして経緯を確認するや、直ちに連合会と宗務院に出向き、妙信講の登山を妨げることが理不尽であることを訴え、強い調子で談判を始めた。この某氏の行動が、妙信講に対する好意から出たものであることはわかっていたが、私は敢えてこの運動をお断りした。
 それは、御登山を歎願する時期はすでに過ぎたと思っていたからである。この頃、もう池田大作の御遺命歪曲は動かし難く、また管長猊下がこの違背を擢くことも、とうてい期待し得なかった。ならば妙信講が立たねば大事の御遺命はどうなろう、と思わずにはいられなかった。かく案じて、昭和37年秋以来の連合会のただならぬ妨害を見た時、それはまさしく妙信講に使命あるがゆえの試練であり、魔障であったのである。
 かかる段階で、大事の御奉公もせずに、ただ一講中のために御登山を願うことは、いかにも大聖人に対し奉り不忠である。いわんや第三者を介して妙信講が運動したとの誤解を招けば、将来なさんとする大事の御奉公に傷がつく。この恐れから、某氏の義俠を一切謝絶したのであった」(「冨士」第182号 )
4月3日
 宗門、阿部教学部長と藤本庶務部長が妙縁寺に来訪。妙信講について調査。
4月4日  米黒人運動の穏健派指導者、マーチン・ルーサー・キング牧師、暗殺さる。
 アフリカ系アメリカ人の牧師、公民権運動の指導者であるマーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、1968年4月4日午後6時1分にテネシー州メンフィスのロレーヌモーテルで致命的な銃撃を受け、セントジョセフ病院に運ばれ午後7時5分に死去した。
4月8日  創価学会、創価中学・高校を、東京・国立たかの台に開校。第1回入学式。
 池田大作会長、「モットーの碑」「青年と鷲の像」の除幕式、「栄光橋」の渡り初め、新入生(1期)と記念撮影、栄光寮の寮開きに出席。
「いうまでもなく、創価学園は、創価学会のために設立したのではない。われらの願いは、妙法の大地を根底に、崩れざる人類の繁栄と豊かな人間主義の文化の花を咲かせることである。したがって、教育はあくまで教育の分野で、見事な花を咲かせていくのは当然である。 事実、創価学園においては、宗教教育は行わないし、生徒のなかには、学会員以外の子弟も含まれている。創価学園は、あくまでも日本の未来を担い、世界の文化に貢献する、有為の人材を輩出することを理想とするものであり、それ以外の何ものもないことを断言しておきたい」(「創価学園の開校にあたって」池田大作 )
4月11日  公明党、党大会で「日米安全保障条約」の段階的解消方針を決定。
4月15日
 妙信講、研修部会開催。「四信五品抄」講義開始。
4月25日
 妙信講、4月度総幹部会開催(拓殖大学)。「5月は前三後一の指導の月」、4月度折伏成果121世帯、総世帯数は6,114世帯となった。
 浅井昭衛本部長「折伏には無駄という事は一切ない。必ず相手の心田に下ろされた仏種はいつかは芽ばえて成仏の因となる」(「冨士」第57号 )
4月29日  創価学会、第11回社長会(於南伊東・井清寿)
 池田大作会長「学会の外郭は、100、200、1000となければ駄目だ。下手をすると合併、合併で大資本に綱を張られてしまう。戸田先生が焼鳥屋をやろうと云ったのもこれだ。社会と接触できる。大きな建物を作ってやってゆくのは駄目だ。小さいのを沢山つくって、気がついた時には綱が張られていたと云う様に。成功させたいな。外郭は流通分だ」(「社長会全記録」継命新聞社 )
5月3日  創価学会、第31回本部総会を開催。池田大作会長、正本堂を「法華本門の大戒壇」と呼ぶ。
 細井日達管長、「大聖人様の仏法を、今日の時代にひろめ、広宣流布のお手伝いをするのでありますから、我々の折伏は、化儀の折伏であります。故に、化儀の折伏は、政治、経済、文化、あらゆる方面にわたるべきであります」と、選挙活動を宗教活動とする池田見解を擁護。
5月16日  創価学会、パナマ共和国に支部結成。
5月23日  創価学会、第12回社長会を料亭「初波奈」で開催。
 池田大作会長「今は悪い奴等がのさばっている。石原慎太郎や今東光が出るなんてなげかわしい。松下幸之助はずるい奴だ。「PHP」50万部ですごく儲けている。もう少し下ると思うが、道徳をとりあげている。松下教祖だ。社内の訓練も松下教だ」(「社長会全記録」継命新聞社 )
 同年7月、参院選全国区に立候補した石原慎太郎は、前代未聞の三百万票を獲得しトップ当選。
5月25日
 妙信講、5月度総幹部会開催(拓殖大学)。「着実な前進で全講に信心の血脈を」
 浅井昭衛本部長「指導と折伏の場が十日・二十日の学習会 … 御奉公を成さんとする者は御書を真剣に学んでいくのは当然」(「冨士」第55号 )
6月1日
 宗門、高野日海宗会議員。ラジオ番組『日蓮正宗・創価学会の時間』で、「正本堂と申しますのは、日達現猊下が事実上の本門の戒壇であると御説法下さいましたが、(略)この戒壇建立と云う事は、実に日蓮大聖人七百年来の悲願でございまして…」と。
6月25日
 妙信講、6月度総幹部会開催(拓殖大学)。「7月は強烈な立正安国の斗い」、6月度折伏成果39世帯。
 浅井昭衛本部長「妙信講がこんな折伏の状態では、着実な前進ではなくて着実なる停滞である。あの日目上人の垂井の宿での御遷化のお姿を忘れているのではないか。もしもこんな事が続くならば一万もざれごととなり、広布への御奉公も戯論となる。1ヵ月かかってわずか39世帯、これは妙信講の折伏ではない」(「冨士」第59号 )
7月7日  公明党都議会議員、「船の科学館」に使用する東京都の跡地払い下げのため、笹川良一に便宜を計る。
7月8日  創価学会、第13回社長会(於ばん居)
 池田大作会長「三年先の参議院は北條、柏原でやろう。衆議院もそろそろまとめよう。大久保だな、大沢の代わりに。小島のところは山崎か秋谷だな。やっぱり30代だ。東京は大久保、山崎だ。人材が必要になってきた。上田君なんかもよい。身体が一寸弱いな。西は西中だな。…
 警察だって、動かしているのは竹入、井上だよ。竜なんかおどかすだけで味方にならない。竹入の一声だよ。竜も藤原も出さないでゆこう。 22~25名位にしよう」(「社長会全記録」継命新聞社 )
7月10日
 妙信講、学習会開催。7月から、会場を池袋の豊島公会堂に移し毎月10日と20日、学習会が開催されることになった。
7月10日  毎日新聞等 新聞各社、「投票入場券 十万通消える」「大量の不正投票か」と報道。第8回参議院選挙(7月7日)「新宿替え玉投票事件」。
 後に東京地裁、「新宿替え玉投票事件」に判決。「他人の投票入場券を盗み..公明党候補に詐偽投票をおこなった」として、宮本孝・砂川昭夫被告に禁固1年・執行猶予4年、北林芳典被告に禁固4ヶ月・執行猶予3年など、創価学会員・被告8名に有罪判決を下す。
 山崎証言では、「これは新宿区総指令(選挙責任者)八矢英世氏 直々の指図で行われた、組織ぐるみ事件である。(略)池田大作は..『覚悟して、腹を決めて対処しろ』と竹入氏に指示した。私も公明党都議、区議団とともに必死の証拠隠滅工作に奔走した。(略)竹入義勝委員長は警視総監と会い、手加減を頼みこんだ。(略)結局8人に有罪が宣告されたが、摘発は組織末端に止まった」と。(「週刊文春」平成8年9月12日号 )
7月17日  創価学会、小説『人間革命』第4巻発刊。
「この折りの彼の明晰な悟達は、仏法を見事に現代に蘇らせ、近代科学に優に伍して遜色のないものにした、といえよう。そして、仏法に鮮明な性格と、現代的な理解とを与えたのである。いや、そればかりではない。日蓮大聖人の生命哲学を、あらゆる古今の哲学のうえに位置せしめた、記念すべき強力な発条であったというべきではなかろうか」と。
7月25日
 妙信講、7月度総幹部会開催(拓殖大学)。「8月は学習会に全力を」、7月度折伏成果70世帯、総世帯数は6,179世帯となった。
 浅井昭衛本部長「今 学習会は、七百名を突破している。わずか数ヵ月前には四百数十だったのが、ぐんぐん伸びている。大聖人様の御書に取り組んで、真剣に勉強しようという気運がみなぎってきた。私は思うのであるが、量の変化は必ず質の変化を将来する」(「冨士」第60号 )
7月31日  創価学会、第14回(臨時)社長会(於三崎会館)
 池田大作会長「3年たったら第2党だ。今迄メチャクチヤに突進して来たが、我が軍も大したものだ。こうなったら21世紀迄生きよう」(「社長会全記録」継命新聞社 )
8月18日
 妙信講、研修部。初の二級昇格試験実施、試験範囲は「六巻抄」で、28名が受験した。
8月20日
 妙信講、奥武蔵・高麗川原で整理班野外訓練実施。
8月22/23日
 妙信講、折伏講習会開催(拓殖大学)。
 第1日目は「何のために信心するのか」「幸福とは何か」、第2日目は「生活の種々相」「何故御本尊を受持するのか」「何故利益と罰があるのか」「折伏の心掛け」の講義があった。(「冨士」第61号 )
8月25日
 妙信講、8月度総幹部会開催(拓殖大学)。「本年最後の法戦の火ぶた切る」
 浅井昭衛本部長「妙信講は、大聖人の御正意に添い奉る、折伏に立つ講中である。45年一万をめざし、火の玉のような信心があるならば大聖人様の御力をかりて、大衆を救えることは火を見るように明らかである。すでに本年は、充実に充実を重ねきた。… その出発としてこの9月は、百世帯の御本尊流布をやっていこうではないか」
 本部辞令:加藤礼子 女子部第五支区長に任ずる。(「冨士」第61号 )
8月25日  創価学会、アメリカ合衆国ハワイ州ホノルルにて、第5回全米総会開催。
9月1日  創価学会、ブラジル連邦共和国サンパウロにて、第4回南米総会開催。
 公明党、「在日米軍基地総点検」を開始。
9月8日  創価学会、第11回学生部総会開催。池田大作会長、「日中国交正常化への提言」を発表。
(1)日中国交正常化、(2)日中首脳会談の早期実現、(3)中国国連加盟実現へ強い努力、(4)日中貿易拡大への道を開き平和・文化に貢献、等を提唱。
9月10日
 宗門、細井日達管長、日正寺に親教。
「大聖人様の大理想は日興上人にお継ぎなされ、富士山に本門寺の戒壇建立の時は、と云う二箇の相承となって日興上人に御遺命遊ばされているのであります。それが今日、戒壇の本尊の奉安殿となり、また今回、法華講総講頭池田先生の大発願のもとに、本門の戒壇堂とも云うべき正本堂建立が、来月の12日に着工」と。
9月11日  創価学会、出版妨害。公明党 北條浩副委員長、隈部大蔵を赤坂プリンスホテルに呼出す。
「お前は、こんなくだらんことを書いて、ジャーナリストとして恥ずかしくないか。我々は巨大な象のようなものだ。お前は蟻のような存在だ。こんなものは屁とも思わん。しかし、我々は、蟻であろうと、向かってくる者は本気でふみつぶす。お前もふみつぶされたいか。お前も西日本新聞杜に圧力を掛けてクビにするぞ!」と脅迫。(『「月刊ペン」事件埋もれていた真実』山崎正友 )
 隈部大蔵、5月から執筆していた『現代のさまよえる魂、釈尊と邪教の対話』なる、学会教義批判書の出版を断念。
9月11~12日  日米安全保障協議、日本の外務省首脳が米国政府関係者に、創価学会池田大作会長の民間外交を批判。
「1960年代末に外務省首脳が、創価学会の池田大作会長(現名誉会長)の『民間外交』を日本外交の妨害になるとして、米国政府との協議の場で同会長非難を強く表明していたことが、このほど解禁された米国政府の秘密外交文書で明らかとなった」(「産経新聞夕刊」95年9月25日 )
9月20日  創価学会、英訳版『仏教入門』完成。
9月25日
 妙信講、9月度総幹部会開催(拓殖大学)。9月度折伏成果119世帯、総世帯数は6,298世帯となった。
 研修部、二級昇格試験合格者発表。加賀陽子、浅井信衛、石原康一の3名。(「冨士」第62号 )
10月11日  東京地方裁判所、新宿替え玉投票事件で "他人の投票入場券を盗み、本人になりすまして公明党候補に詐偽投票をおこなった" として、宮本孝・砂川昭夫に禁固1年・執行猶予4年、北林芳典に禁固4カ月・執行猶予3年など、創価学会員8人に有罪判決。
 山崎正友は後に、新宿替え玉投票の指示は、新宿区・港区の総指令の八矢英世から発せられ、新宿区男子部司令・松山久男が直接指揮をとったと告発。
「この事件の全容について、創価学会は"デッチ上げだ"などと言っていたが、全貌を知る竹入義勝氏が、一昨年秋、朝日新聞に連載した"回顧録"で事実を認め、自ら、河井次席検事に"お手柔らかに"と頭を下げに行ってさんざん文句を言われたことを公表したから、もはや否定のしようがなくなった。その恨みと怒りを、池田大作は、竹入氏に対する個人攻撃に振り替えているのである」(『あの頃のこと』山崎正友 「慧妙」2001年1月16日号 )
10月12日
 宗門、正本堂建立着工大法要奉修。
 池田大作会長、「この法華本門の戒壇たる正本堂の着工大法要を、血脈付法第六十六世日達上人猊下の御導師により、無事終了することができました」と。
10月23日
 妙信講、折伏講習会講義「仏法とは何か」(「冨士」第63号 )発刊。「冨士」第4号と並んで妙信講の教学の理論的支柱となる。
「日蓮大聖人は三大秘法という、此の上もない大法をこの世界にお残し遊ばされた。目的は唯一つ、全人類の真の幸福の為にであります。若し、この大法が無ければ世界はやがてどうなるか。行き着く所は決っています。即ち、自界叛逆(内部分裂)と他国侵逼(国際紛争)という、自らが招く大渦に、いかなる人も国も巻き込まれ、滅亡へと向うのです。それは何故か … 。仏法の中心なきところ、個人も国家も貪・瞋・癡の三毒が益々強く激しくなり、その趣くところ地獄・餓鬼・畜生・修羅の生命活動になり切って了うからです。四悪道の生活は弱肉強食、終点は互いの破滅以外にはありません。況や、戦慄すべき核兵器・細菌兵器を無数に蓄えた現今の国際状勢に於ておやです。沈思すれば思い半ばに過ぎるものがありましよう」(「冨士」第63号 )
10月24日  創価学会、第17回社長会(於三菱関東閣)
 池田大作会長「下之坊、妙蓮寺、正本堂を結ぶと三角形になる。やがて道路をつくる。又、大客殿、大講堂の壁を近代的にタイルをはる。動物園はくさいから廃止。…
 正本堂の土地もやっぱり私が出て、やっと目鼻がついた。勅使門も今迄の軽い考えではなく、本当の意味の勅使門を作るよ。大化城はこわさなければならない。あれは私の発案ではない。
 正本堂に御本尊様を安置すれば、御宝蔵、奉安殿より広く拝ませる事になるが、あくまで大信者に限るので内拝である。将来一国の総理等が信者で、又、国家権力を押さえた時に国中の人に拝ませる。内か外かはまだわからない。
 正本堂の位置も、日興上人は大石寺と北山本門寺の中間を考えていらっしゃったが、現猊下も大聖人様ですから、現猊下がおきめになった。現在の位置が最高、又名前も本門戒壇堂であるが、正本堂の方が通ずる。戸田先生がつけられた名前だ」 (「社長会全記録」継命新聞社 )
11月1日  「月刊ペン」創刊。左翼勢力に対抗するためのメディアとして、財界、右派筋の支援のもとにつくられる。資本金1億円、社長の原田倉治は右翼大物総会屋。
11月17日  創価学会、細井日達管長臨席のもと第17回男子部総会開催。
 池田大作会長、「私どもの最大の念願であった本門の戒壇たる正本堂」、「一閻浮提総与の大御本尊まします本門戒壇」、「広宣流布は、今や名実ともに総仕上げの段階に入っている。かかる重大な驚異すべき時は、過去の歴史にかつてなかった」と。
11月21日  創価学会、『日蓮正宗教学小辞典』を刊行。『戒壇建立』の項で、「本門戒壇即正本堂の建立が実現」と記載。
「そして今まさに、本門戒壇建立の時である。すなわち大御本尊を信受し、功徳に浴し、歓喜している衆生が、日本ばかりでなく世界に満ち、日蓮大聖人のご予言である化儀の広宣流布の時が到来したのである。ここにおいて、創価学会第三代会長の発願により、これら純真な民衆の、心からの供養によって、本門戒壇即正本堂の建立が実現されることになったのである。この正本堂は、日蓮正宗総本山富士大石寺において、一閻浮提総与の大御本尊をご安置する本堂であり、事実上の本門の戒壇である」(※ 後にカットされる)
11月25日
 妙信講、11月度総幹部会開催(豊島振興会館)。「一万への関所、最高の折伏で突破」、11月度折伏成果130世帯、総世帯数は6,502世帯となった。会場はこれ以降、豊島振興会館となる。
 浅井昭衛本部長「今年は「前進」を合言葉に進んでまいりました。だが一万世帯達成が重大なればこそ魔障も当然でありました。途中遅々として進まぬ事もありました。何とか此の壁を突き破らんとして「乞眼の婆羅門」にも似た責めに堪え抜き、勇猛に突き進んで来ました。そしてその厚き壁を此の11月で始めて打ち破ったのです。若し此の11月が信心弱くしてだらしない法戦に終ったなら、誰が来年の事を確信以て云い切れよう。すべて口先だけの虚妄となって了うではないか。だが強盛なる信心さえあれば、いかなる障碍も断じて突破出来るとして、明年への明るい道が、この11月に大きく開かれたのであります」(「冨士」第64号 )
11月30日
 宗門、早瀬道應総監が妙縁寺にて、松本日仁能化と浅井甚兵衛講頭に本山登山の許可を伝える。
〔解説:浅井昭衛〕「妙信講が願い出もしないのに、御登山の道は自然と開けてきた。43年11月30日のことである、どうしたことか突然宗務院の早瀬総監が妙信講の登山のことで、妙縁寺に来寺されるというのである。松本尊能師より報を受けて父と私は妙縁寺で総監を待った。
 総監は藤本庶務部長を随えて席に着くと、厳かに云った。「いま平沢さんと会ってきた。明年(44年)1月7日に連合会の正月登山が行われるが、妙信講も参加できるよう取り計った。ついては12月9日、富士会館(連合会本部)で理事会が開かれるから、出席の上宣しく挨拶をするように」と。
 総監は池田大作の意を受けてこれを取り計らったように思えた。連合会を使って登山を妨害していることが非理であることは、池田大作が誰よりも知っている。彼は一流の敏感さで、何かを感じていたのであろう。いずれにしても妙信講が歎願したのではない、自然と道が開けたのである。これぞ「大聖人様のお呼び出し」と直感した。「参詣遙かに中絶せり、急急に来臨を企つべし」の御金言が胸に浮かんだ」(「冨士」第182号 )
12月8日
 妙信講、御会式大法会奉修。臨時班長会開催、浅井本部長「躍進」の大号令。
12月9日
 法華講連合会、理事会に登山の件で妙信講を招集。
〔解説:浅井昭衛〕「やがて理事会は始まり、その中途で私達は会場に通された。私達が席につくと、平沢益吉は、妙信講の登山問題について、いまいましげに理事達に説明を始めた。「総本山への登山を許す権限は、今宗門で二人だけが持っている。学会では池田会長、法華講においては自分である。… しかし今回宗務院から、理事会でどうか検討してくれと申し入れがあったので、妙信講の登山を許すかどうかきょう検討したい」と。
 次いで司会者が、妙信講の講頭に挨拶するよう促した。… 「講頭に替って私が挨拶したい」といって私は立ち上がった。「連合会が清浄なるべき御登山を統制の道具に使っているのではないか。… 宗務院が何と云ったかは知らぬが、妙信講は連合会などに登山をさせてくれなどと頼んだ覚えはない。宗務院から、すでに取り計ったから出席するようにと云われたから、今日来たまでである」。云いおわると、三人そろって席を立った。平沢・柳沢を始め、数十名の理事はアッケにとられ、ポカンと口をあけて見ているだけであった」(「冨士」第182号 )
12月12日
 妙信講、法華講連合会からの「登山決定通知書」を受領。
〔解説:浅井昭衛〕「これで御登山は当分できまいと思っていたところ、案に相違して、三日のちに連合会から"登山を決定したから"と、連合会庶務部長の名で細目を通知する書状が送附されてきた。聞けば、私達が帰ったあとの理事会では、全員が妙信講の登山に反対したそうである。しかるにこの結果はいったいどうしたことか。虎の威を借る狐とは悲しいものである。平沢はどれほど自分で妙信講を憎々しく思っても虎殿が決定すればそれに従わざるを得ないのだ。池田大作は平沢の頭ごしに高度の政治的判断を下し、宗務院にその意を伝えたのであった。平沢はせめてもの虚勢を、先の登山決定通知の文面に表わした。「今般貴講中より依願の昭和四十四年一月七日総本山登山の件、東京地方部として左記の通り決定いたしましたので通知いたします」(原文のまま)と。"連合会に頼んだ覚えはない"と、妙信講からはっきり云われても、なお"頼まれたから決定した"と虚勢を張った」(「冨士」第182号 )
 臨時班長会開催、浅井昭衛本部長「参詣遥かに中絶せり、急急に来臨を企つべし。是にて待ち入つて候べし。哀哀、申しつくしがたき御志かな、御志かな」(南条殿御返事)を引いて、「日蓮大聖人が妙信講をお呼びになっている」と。
(※ 高揚した口調て語られたその声を、小生は今もはっきり覚えている。当時はその背景に、このような事情があったことは、まったく知らなかった。櫻川 忠 )
12月23日
 妙信講、12月度総幹部会開催(豊島振興会館)。「4月総会までに七千を突破」
 浅井昭衛本部長、1月7日の代表登山につき、本山登山の意義とその精神にふれ「自分達は、一万世帯を達成せねばお目通りの資格はないと思っていましたが、はからずも今回御法主上人猊下よりもったいなくもご配慮を給わった。これは一万への大精進、この仏事を本当に勇気をもって成し遂げよ、という大聖人様の有難いお励ましである」
 本部辞令、浅井盛衛 新宿支部中村班組長に任ずる。(「冨士」第65号 )
12月26日  創価学会、12月度本部幹部会開催。教学部長に、原島嵩が就任。
12月27日  創価学会、第19回社長会(於吉兆)開催。
 池田大作会長「横松、山崎等若手がしっかりする年だ。原島新教学部其は良いだろう。5年間御義口伝をつききりでやった。その的確さ、深さにはかなわない。…
 本部の裏に200坪、7階のビルを作る。3DKにして身近な人を入れる。皆さんの子供も結婚したら入れてあげる」(「社長会全記録」継命新聞社 )
12月 日  創価学会員 松本勝弥、学会本部職員となり財団法人民音の企画局に勤務する。
12月 日  創価学会、687万世帯。
 

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