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沿革:
講中設立、
試練と忍従、
七千即一万、
確認書、
誑惑訂正、
解散処分、
本門寺改称阻止、
誑惑崩壊、
国家諌暁
三、七千即一万
昭和三十九年、総本山の大客殿落慶と同時に、創価学会の池田大作会長は法華講総講頭に就任しました。そして細井師はその任命式において池田会長に「日蓮正宗の信徒は、ことごとくお任せします」と語りました。
こうして宗内の僧俗悉く、池田総講頭の前にかしこまってひれ伏したのでした。
ここに池田会長の慢心、とどまるところを知らず。ついには、「その時には不開門が開く。一義には天皇という意味もありますが、再往は時の最高の権力者であるとされています」、さらに「時の法華講の総講頭であり、創価学会の会長がその先頭になることだけは、仏法の方程式として言っておきます」とまで、語りました。
そしてこの年、その「時の最高の権力者」たる野望を遂げるべく、私兵としての公明党を設立し、衆議院への進出を打ち出しました。
さて、昭和四十四年一月、妙信講に五年ぶりの本山登山の許可が下り、講員七百名が渇仰の登山を果たしました。
そしてご内拝の後、妙信講員は他の法華講員と共に本山の大講堂において、法華講連合会の平沢委員長から「いま総本山に建設中の正本堂こそ、大聖人が三大秘法抄・一期弘法抄に御遺命されたところの事の戒壇である」との講演を聞きました。
妙信講の浅井本部長は、その後緊急に妙信講員だけを別室に呼び、先の平沢発言は誤りであると、ただちに告げました。
妙信講員たちは始めて耳にするところの、本山において進展している御遺命違背という事情がよく飲み込めないながらも、そのただならぬ事態の重大さと、やがて妙信講が果たすべき使命に思いを馳せたのでした。
当時、藤原弘達著「創価学会を斬る」に対する創価学会の出版妨害問題から、共産党の国会証人喚問の動きに脅えた池田大作会長は、国政選挙に不利な日蓮正宗の伝統法義たる「国立戒壇」を放棄することを決意。
しかしながら池田会長一人の二言ならば宗内の人の信ぜぬところ、あろうことか時の貫首の池田会長への諂いあり。「法主」の権威を以てして、この誑惑を助けたのでありました。
かくして誑惑は堂々とまかり通り、宗門僧俗ことごとく正本堂を讃嘆して、宗門から国立戒壇建立の御遣命は捨去されました。
「政治野心」と「自己保身」のため、国立戒壇を捨去する目的で俄に建てんとする欺瞞の正本堂の発願式に際し、無慚にも池田大作会長はその願主として自らの徳を称揚して云く。「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又、仏教三千余年史上空前の偉業なり、乃至、正本堂の完成を以て三大秘法ここに成就す」との誑言をなしたのでした。
その底意は、日蓮大聖人をして摂受の聖僧に貶め、自らは折伏の大賢王たるべし、との大慢心でありました。
このあまりの御遺命破壊の大悪事を眼前にして、妙信講はもし黙止せんか..、日蓮大聖人への不忠これに過ぎたるはなし。
弘通目標の一万達成には未だ届かずとも、七千世帯は即一万世帯。今こそ大聖人の待ち給う法戦場のご馬前、講中の存続はもはや問題ではない。
浅井本部長は、ついに昭和四十五年三月、「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を宗門高僧七名と創価学会首脳五名の計十二名に提出し、ここに諌暁の御奉公に立ったのでした。
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