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沿革:
講中設立、
試練と忍従、
七千即一万、
確認書、
誑惑訂正、
解散処分、
本門寺改称阻止、
誑惑崩壊、
国家諌暁
二、試練と忍従
妙信講では浅井講頭のもと、一万世帯達成推進本部が置かれ、その本部長に浅井昭衛が就き、一万世帯達成を目指して地道な弘通をすすめつつありました。
しかし認証の翌年には日淳師が遷化あって、細井日達師が登座。昭和三十五年には池田大作が創価学会会長に就任し、その会員数拡大の勢い激しく、宗内において圧倒的な影響力を発揮するに至りました。
そして池田会長は法華講を統制し支配下に置くため、その機関として宗門に全国法華講連合会を設立せしめ、平沢益吉をその委員長に据えたのでした。
日達師また昭和三十八年に訓諭を発し、「創価学会に対し、実にもあれ不実にもあれ謬見を懐き謗言を恣( ほしいまま )にする者ありとせば、其籍、宗の内外に存するを問わず、全て是れ広布の浄行を阻礎する大僻見の人、罪を無間に開く者と謂ふべし」と、全法華講員に対して厳命したのでした。
こうして宗内には僧と言い俗と謂い、池田会長の意のままにならざるはなし、ひとり黙々と折伏弘通をすすめる妙信講を除いては。
平沢委員長は池田会長の意を受け、妙信講を潰すべく激しい圧力を加え、あるいは松本能師に対し指導教師辞任を強要、妙信講教学部の廃止、機関誌たる顕正新聞の廃止、青年部を連合会に所属させよ等と要求し、手段の限りを尽くしたのでした。
妙信講は教学部を名称変更、そして機関誌は廃刊等と、やむなくその要求のいくつかを受け入れつつ、その中核たる青年部の連合会所属だけは断固これを拒否。
じっと折伏弘通につとめてふりかかる理不尽な強要を、獅子の子の「千尋の谷の試練」と耐え、ひたすら忍従の時期をおくったのでした。
やがてこれに加えて、ついには宗制までも変更され、妙信講の折伏に対する御本尊下附・ならびに妙信講の本山登山を妨害するため、その権限の一切を法華講連合会が握ることとなりました。
愚直に一筋に折伏のご奉公を貫かんとする講中に対するかかる仕打ち、純信に講中を信頼してついてくる講員にどのように説明ができようか。
浅井講頭はその窮状を、貫主ならびに宗務当局に切に訴えるも、もとよりその一切が細井管長・池田会長・平沢委員長の三者の意を請けての措置であってみれば、「法華講連合会の統制に従うべし」、との回答が返るばかりでありました。
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