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沿革:
講中設立、
試練と忍従、
七千即一万、
確認書、
誑惑訂正、
解散処分、
本門寺改称阻止、
誑惑崩壊、
国家諌暁
妙信講の前身
総本山・第六十二世・日恭上人に認可をいただき、大戦の最中の昭和十七年にわずか数十名の同志を以て、浅井甚兵衛は妙信講を設立しました。当時は「東京妙信講」と称していました。
戦後、妙信講の折伏はぐんぐんと伸び、二千所帯にまで達しました。
その後、妙信講が所属する末寺の住職から、他の講が伸びないのでまとめて指導して欲しいとの要請があり、
昭和三十年に浅井講頭は法道院法華講の講頭に就き、妙信講は発展的に解散したのでした。
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