|
沿革:
講中設立、
試練と忍従、
七千即一万、
確認書、
誑惑訂正、
解散処分、
本門寺改称阻止、
誑惑崩壊、
国家諌暁
五、第二次宗門諌暁( 誑惑訂正 )
全宗門的合意たる確認書の決着を見て、その誓約のとおり昭和四十五年九月以降の一切の刊行物から、創価学会は誑惑の文語を削除。宗門内の諂いによる誑惑の発言も、また一掃されました。
しかし、池田会長は表向きだけ訂正したかのように見せ、実は妙信講の眼の届かない内部発言においては、相変わらず「正本堂は事の戒壇なり」との誑惑の言辞をくり返していたのでした。
妙信講の浅井本部長はそれを知るや激しく違約を憤り、ただちに「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」を執筆し、池田会長に送付( 昭和四十六年十一月十五日 )しました。
それを受け取った池田会長は、宗務院を動かしました。その意を受けて翌年二月、早瀬宗務総監は妙信講を法道院に呼び、「浅井さんの憤る気持ちはよくわかる。しかし何とかならないものか」と懐柔をはかりました。
しかし浅井本部長は、宗務院こそ誑惑訂正の院達を出し、宗内に明らかにすべしと主張。宗務総監はしばしの時間の猶予を求めました。
その時、またもや創価学会の圧力に屈した宗門は、「訓諭」を公布( 昭和四十七年四月二十八日 )しました。それはちょうど、正本堂落慶の半年前のことでした。
その訓諭に云く「日達、この時に当って正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす。正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」と。
云うところは、すなわちこうでした。池田会長の意のとおり、正本堂を以て内には「事の戒壇にして広宣流布の暁の本門寺の戒壇」であると創価学会員を欺き、外には「国立戒壇」を捨去することを後代の誠証として闡明したのでした。
浅井本部長は、かかる無慚なる訓諭を出さしめた元凶たる池田大作会長に対し、訓諭発布の当日「公場対決」を書面にて申し入れました。創価学会の和泉覚理事長からは、「猊下の許可がないので、公開討論には応じられない」旨の返事が、宗務院からは「池田会長への法論申し入れを撤回せよ。さもなくば宗規に照らし処分する 」との令達が返りました。
妙信講の「断じて御遺命を護り奉る」との強い意思を知った、早瀬宗務総監ならびに阿部教学部長(
当時 )は、当事者能力を失って辞表を細井管長に提出、失踪してしまったのでした。
そして細井管長また、「わたしにはどうにもならない」との事態に至りました。
ここに妙信講は「もし御遷座を強行するならば、妙信講は護法のゆえにこれを阻止、ただ一死を賭して在家の本分に殉ずるのみ」と記した会談の申入書を提示。創価学会もついにこれを承け、正本堂落慶の一ヶ月前、創価学会代表と妙信講代表との会談が七回にわたって常泉寺( 東京・向島 )で行われ、ようやく創価学会は訂正を承伏したのでした。
正本堂落慶法要の九日前という時に、聖教新聞紙上(
昭和四十七年十月三日 )の第一面において、惑義の訂正が果たされました。
戻る 次
|
|