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沿革:
講中設立、
試練と忍従、
七千即一万、
確認書、
誑惑訂正、
解散処分、
本門寺改称阻止、
誑惑崩壊、
国家諌暁
一、講中設立
冨士大石寺顕正会は、昭和三十二年八月に三百五十世帯の講員を以て「日蓮正宗妙信講」として、法道院( 東京・池袋 )所属の法華講から独立し、発足しました。当時、法道院法華講の講頭を務めていたのが浅井甚兵衛(
青年部長は浅井昭衛 )であり、宗内においてその信徒数は法華講として最大規模の、約三千世帯でした。
しかし法道院の住職は寺院経営を最優先し、折伏弘通に消極的だったことから、浅井講頭はついに法道院を離れて広宣流布に邁進せんと決意。その思いに賛同するわずかの有志を率いて、妙信講を再建したのでした。
それに対し、宗内の実力者でもあった法道院の住職は、信心強盛な在家信徒たる妙信講の発足を快く思わず、妙信講の認証に大反対をしました。
やがて昭和三十三年一月、妙信講発足後半年を経て、ついに堀米日淳師(
総本山・第六十五世 )の決断により、正式に日蓮正宗の法華講支部として認証が発せられ、その指導教師として妙縁寺(
東京・吾妻橋 )の松本日仁師があたることとされました。
日淳師は妙信講の認証にあたって、浅井講頭等の代表を本山に呼び、「妙信講は熱原の法華講衆を鑑として、戦う法華講となって御奉公しなさい。まず三千の弘通を成し遂げてごらんなさい」と述べられた、と言われます。
妙信講の機関紙『講報』の第1号には、「権勢にへつらうな、おもねるな、曲げて安易に住するな、ただ恐れるは仏の金言に違わん事のみ、そのほかに何が恐い」と記されていました。そして妙信講の、「ただ恐れるは仏の金言に違わん事のみ」の姿勢は、顕正会となった今日に至るまで、一貫して変わりません。
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