冨士大石寺顕正会の基礎知識


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  沿革: 講中設立試練と忍従七千即一万確認書誑惑訂正
       解散処分本門寺改称阻止誑惑崩壊国家諌暁


 四、第一次宗門諌暁( 確認書 )


 妙信講が提出した「
正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を驚きと感銘をもって読み終えた細井師は、ただちに( 昭和四十五年四月三日 )浅井講頭と同本部長を本山に呼び寄せ、「よく書けてますね。私にもこうは書けませんよ。この本は宗開両祖の仰せのまま、宗門七百年の伝統のままです。一分の誤りもありません」と述べたのでした。
 ここで細井師は、浅井本部長の「正本堂の惑義訂正」の懇請を了とし、その三日後の御虫払法要の席において事の戒壇の正義を述べられました。

 しかし、池田会長は細井師のそうした変節を許さず、さらに激しい圧力を宗門に加えました。
 その強い圧力に抗しがたく、やむなく細井師は御虫払法要の十日後(四月十六日)に東京・常泉寺に下向。浅井講頭・本部長を呼んで、共産党の谷口代議士が衆議院に提出した質問趣意書を見せ、「
浅井さん、国立戒壇を捨てて下さい。国立戒壇を言うと、日蓮正宗は潰されるのです」と述べました。
 その席上、浅井本部長の理を尽くしての反論を再び是とした細井師は、却って創価学会に正本堂の惑義を訂正するよう伝えることを約しました。
 ところがその翌日、細井師は創価学会の激しい圧力にまたも屈し、浅井本部長に電話を以て創価学会の意を受けた「四ヶ条」を一方的に伝えたのでした。

 そして四月二十二日に総本山にて「臨時時局懇談会」が開催され、国立戒壇否定の義が創価学会の辻総務ならびに細井師から述べられたのでしたが、浅井本部長の質問に返答不能となり、「
惑義の宗内合意」はなりませんでした。
 しかしながら創価学会は、政府からの照会に対して翌二十三日、文部省に国立戒壇否定の回答書を提出、その直後に開かれた創価学会の第三十三回総会(昭和四十五年五月三日)において、細井師は創価学会の圧力もだしがたく、ついに宗門の伝統法義を曲げて「
国立戒壇の永久放棄」を公式に宣言したのでした。
 妙信講はただちに、かかる誑惑の訂正を求めました。宗門においてはもはや対応の当事者能力を欠き、創価学会と妙信講における直接の論判を求めるのみ、でありました。
 
 よって昭和四十五年五月二十九日、創価学会からは秋谷・森田副会長( 当時 )と和泉理事長( 同 )が、妙信講からは浅井講頭と本部長( 当時 )が出て、総本山・対面所の細井師の面前にて正本堂と国立戒壇の理非をめぐっての論判がなされました。
 しかして妙信講の主張に、理あるは明らか。結果、細井師は創価学会の三名に「
正本堂は三大秘法抄に御遺命された戒壇ではないのです。また、未だ広宣流布は達成されてません。どうか学会は訂正して下さ」と述べました。
 これを聞いた秋谷副会長等は血相を変え、憤然として席を立ちました。
 
 その後、創価学会は妙信講の正論の前に態度を翻し、森田副会長が細井師に「
正本堂は御遺命の戒壇とは言わない」、「広布はすでに達成とは言わない」こと、そして創価学会の出版物からこれらの意の文言の一切を削除することを誓いました。
 妙信講はさらにそれを「文書」にする事を求め、創価学会代表の頑強な抵抗の後、ついに昭和四十五年九月十一日、東京・法道院において宗門の早瀬総監・阿部教学部長・藤本庶務部長(当時)の立ち会いのもと、創価学会と妙信講の代表が署名した「御報告」なる確認書が作られ、細井師に提出されたのでした





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