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沿革:
講中設立、
試練と忍従、
七千即一万、
確認書、
誑惑訂正、
解散処分、
本門寺改称阻止、
誑惑崩壊、
国家諌暁
七、第三次宗門諌暁( 本門寺改称阻止 )
会長職を退いた後も、なお創価学会に君臨する池田大作名誉会長は、かつて正本堂の発願式に願主として自らの徳を称揚した「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又、仏教三千余年史上空前の偉業なり、乃至、正本堂の完成を以て三大秘法ここに成就す」の野望が、その落慶の際に無念にも妙信講によって阻止されたことを忘れたことがなかったのでしょう。
昭和五十一年十一月の本部幹部会では「あとは一路、昭和六十五年、1990年、創価学会創立六十周年、戸田先生の三十三回忌、これを目指して、まあ、五十周年とかさ、七つの鐘の終わりとか、七百年違忌とかあるが、そんなものはパーッと通り越して、それ一点に大きい焦点を内証に秘めて、(中略)私の今の熱烈たる、真剣勝負の焦点はそこにあります」と、池田名誉会長は述べています。
この昭和六十五年とは、大石寺開創七百年に当たります。池田名誉会長はこの開創七百年を機に、富士大石寺を「
本門寺 」と改称することをもくろんだのでした。昭和四十七年に宗門に圧力をかけて出さしめた訓諭には「正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」と。
すなはち正本堂は落成時にはまだ御遺命の戒壇と云えないが、広宣流布の時にはそのまま「
本門寺の戒壇 」となる建物なのだ、と云うことなのでした。
そのためにあらかじめ細井管長をして「日本国全人口の三分の一以上の人が、本門事の戒壇の御本尊に純真な、しかも確実な信心をもって本門の題目・南無妙法蓮華経を異口同音に唱えたてまつることができたとき、その時こそ日本一国は広宣流布したと申し上げるべきことであると、思うのであります。その時には我が大石寺は、僧侶の指導者たち、信徒の指導者たち、相寄り相談のうえ、大聖人ご遺命の富士山本門寺と改称することもありうると、信ずるのであります」( 大日蓮、昭和五十年一月号 )と言わしめたのでした。
また阿部教学部長(当時)はこれを承けて「ここに猊下は、きわめて慎重な表現をとられつつも、御遺命の富士山本門寺と改称すべき時と、条件の大綱を、示され給うたのである。この時、現在の正本堂が、本門寺本堂となるであろうことは、昭和四十七年四月二十八日の訓諭と合せ拝するとき、まことに明らかであろう。御遺命の戒壇建立は、この時実現をみるというべきである。(中略)大石寺創建七百年という宗門史上重大な時を間近に迎えようとしていることに、不思議な一致を感ずる」( 「戒壇論 」後記 )と。
昭和六十四年は平成と改元あって、池田名誉会長は「大石寺開創七百年記念慶祝文化祭
」を平成二年に総本山で開催することを発表し(
合同最高会議、平成元年四月九日 )、また内々に創価学会員には「本門寺改称」の旨が伝えられました。
平成二年四月、顕正会は二十万の死身弘法を成し遂げ、これを背景に浅井会長は「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」とする一書を、阿部管長に送附しました。
さらに七月、顕正会は横浜アリーナにて二万人の大総会を開き、もしや本門寺改称を強行するならばそのとき、全顕正会員はこぞって大石寺に総登山し断じて本門寺改称の陰謀を粉砕する、と浅井会長は講演しました。
この顕正会の一連の諌暁に、阿部管長には躊躇の心を生じ、本門寺改称の陰謀において池田名誉会長との間に齟齬が生じました。
ついに「大石寺開創七百年記念慶祝文化祭」はその規模が縮小され、本門寺改称の陰謀は潰えたのでした。
昭和四十七年以来懐き持った「事の戒壇成就」の野望がここに水泡に帰し、これを機に池田名誉会長は変心した阿部管長を「最大の魔はあのジイさんだ」( 中央会議、平成二年十月十七日 )と慶祝文化祭の四日後に述べ、阿部管長批判の口火を切りました。
阿部管長また池田名誉会長の法華講総講頭職を剥奪してこれに応じ、ここから今に至る全面的な宗創戦争へと発展するのでした。
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