迷走する顕正会を斬る


淺井昭衞会長の足跡と変節

    顕正会年表 (私家版)


      
昭和47年 (1972)          _
1月1日
 妙信講、妙縁寺にて元旦勤行、「正念場の年」。
 浅井甚兵衛講頭、年頭の辞「宗開両祖の御金言のままに」
「この濁悪の時、宗祖大聖人・日興上人の仰せのままに進み貫くことこそ大事である。我等の行くべき道は只一筋、立正安国論の御意たる謗法禁断・国立戒壇建立に向って前進あるのみである」(「冨士」第101号 )
1月5日
 宗門、細井日達管長。創価学会員の登山者数減少に言及、池田大作会長の思惑を嘆いた。
1月7日  創価学会、『南無妙法蓮華経』の横書きを、商標登録申請。
1月8~10日
 妙信講、初級講習会開催(豊島振興会館)。「寒風をついて求道の大熱気」、1千8百余人が参加。
1月16日
 妙信講、研修部。三級昇格試験実施(拓殖大学)、試験範囲は「立正安国論」、186名が受験した。
1月23日
 妙信講、研修部。部員登用試験実施(拓殖大学)、試験範囲は「冨士」4号と「冨士」63号、178名が受験。群馬県南蛇井の地方拠点でも、12名が受験した。
1月26日
 妙信講、1月度総幹部会開催(豊島振興会館)、「いよいよ正念場の法戦開始」
 浅井昭衛本部長「仏法は大事なことを削ってはいけない、また余計なことを付け加えてはいけない。大聖人様の仰せのままを伝えていかなければならない。…
 開目抄の … 烈々たる御本仏の大誓願を拝し奉るとき、小さな我が身が大地にめり込むような大聖人の御確信を感ぜずにはいられない。この御心を拝しこのいやしい身体をぶつけて、大聖人様の国立戒壇建立の御義を守り奉る。そして全講中は、立正安国のご奉公の土台となる一万達成に向かって、一丸となって折伏を開始していこう!」(「冨士」第102号 )
1月 日  創価学会、池田大作会長、山崎正友顧問弁護士に「妙信講問題を処理せよ」と指示。
2月1日
 妙信講、浅井昭衛本部長。「冨士」巻頭言、「雪中の御本仏を拝し奉って」
「ここに思うに、たとえ世間眼前の主・師・親をあなずる者も、出世の三徳・即ち御本仏日蓮大聖人は断じてあなずれない。その故は、誰人たりとも仏法に背けば、身が持たぬからである。… 既成の一切の秩序・道徳、そして世間の三徳ことごとく権威を失った今日こそ、誰人も否定し得ぬ根源の徳に人類がめざめる時である。今こそ、一切大衆に声を大にして根本の帰依所を教えねばならぬ。さもなれば、遂には個人も国家も世界も亡びざるを得ない。…
 七十年代に入って三年目、柱なき日本は不気味にゆれ動いている。この時、折伏の大精神に立たぬ者は大聖人の弟子ではない。二月、雪中の御本仏を拝し奉って、妙信講は折伏と大事の御奉公に毅然として立つのみである。二月一日」(「冨士」第102号 )
2月4日  創価学会、社長会開催。
 池田大作会長「新宿の選挙違反事件等は絶対にいけない。八矢は、アブノーマルな点が、心配だから、絶対いけない」(『社長会記録』)
2月5日
 妙信講、池田大作会長に「訂正の意志ありや否や」と、確認の一書を送る。
 創価学会、池田大作会長。宗務院に、妙信講の懐柔を要請。
2月13日
 宗門、宗務院が介入して妙信講を説得。
 妙信講、浅井昭衛本部長。「院達をもって、正本堂の誑惑訂正と国立戒壇の正義を、全宗門に布告されたらどうか」と提案。
「去る二月十三日、宗務院より呼び出しがありました。講頭先生と二人で参りました。総監殿の云くには『学会が黙殺したと云って慣る気持は一応わかるが、何とかならないものか、と思って宗務院が乗り出した』と。そこで申し上げた。…
『この期に及んで、学会の返事も無いのに亦々宗務御当局が間に入るという。どうも筋がよくわからぬ、もし宗務御当局が本当に解決なさろうとする御意志あるならば、御当局こそ自らの責務として今此処に毅然として学会を訂正せしめるべきである。それには宗務院の公式声明、即ち院達を出し歪曲の訂正を厳然と全宗門に布告すべきだ』と申し上げた。
 そうしたら傍におられた阿部教学部長が云われた『これは仮定の話だが、もし院達さえ出されれば、すべてこれで収まるのか』と。私は云いました『それは院達の内容によりましょう、曲文すでに顕然なれば、訂正も亦顕然ならざるべからず』と」(「冨士」第103号 )
2月15日
 妙信講、研修部入部式開催(豊島区民センター)、「妙信講の使命すでに明らか」。
 入部式の後、緊急臨時班長会開催。浅井昭衛本部長、妙信講全班長に御遺命守護の全貌を初めて明かす。班長一同、「聖人展」以来の妙信講の御遺命守護の御奉公の全容を耳にし、感激止まず。
「冨士」編集後記。
「◇ 緊急の臨時班長会が開かれ、時にあたって極めて重大なる発表が、浅井先生より行われた。常に信義を重んじ「たとえ倒れても筋を貫き通す」と申される浅井先生が、宗門に於ける妙信講の御奉公を始めて明かし、更に一身を賭しての強烈なる決意を吐露されるのを伺い、言葉に尽くし難い感動の中に …
 ◇ 浅井先生は申されている。「かかる大事に言及する以上、すでに一身の破るるは覚悟の上」「然る時は、妙信講こそ日蓮正宗の法華講衆として、大聖人・二祖上人の命じ給うまま一万世帯の団結を以て、一死を賭して御奉公するのみ」
 ◇ 天の一角を凝視して敢然と立つ師匠の勇姿には、大聖人の御正意をつらぬく大確信があふれ出ている。いざ続かん、弟子の一人として … 」(「冨士」第103号 )
2月19~28日  連合赤軍、浅間山荘事件を起こす。新左翼組織「連合赤軍」の残党5人が、管理人の妻を人質に浅間山荘に立てこもった。警視庁機動隊と長野県警察機動隊が人質救出を行うが、救出作戦は難航し 死者3名 重軽傷者27名を出した。
2月21日  アメリカ合衆国ニクソン大統領、中華人民共和国を訪問し毛沢東ら首脳と会談、米中共同宣言(上海コミュニケ)を発表した。
 一、体制間の相違を相互に認め、国際問題及び二国間問題を処理する。
 二、米中ともアジアに覇権を求めず、覇権主義に反対する。(※ 覇権主義とはソ連を指す )
 三、「中国は一つであり、台湾は中国の一部である」との中国の主張を米側が認識。
 四、米中の関係正常化はアジアと世界の緊張緩和に貢献する。
 中華人民共和国では、毛沢東のプロレタリア文化大革命が1996年の開始から5年が経過、後継者に指名した林彪がクーデタ未遂で失脚・死亡するなど不安定な状況が続く中、国境紛争で中ソ対立が激化していた。
 ニクソン訪中が日本に通知されたのは、わずか数十分前にすぎず、日本政府(佐藤栄作内閣)は仰天した。その数ヶ月前にはニクソン=佐藤栄作会談で、両国の緊密な連携を約束していた。アメリカが、重大な外交方針の転換を同盟国日本に相談なしに実行するとは、考えられなかった。
 ニクソン=キッシンジャー外交は冷徹で、事前に日本の了解を得ることは困難と判断し極秘裏に訪中を進め、発表の数十分前に電話で日本の外務省に知らせただけであった。
2月22日
 妙信講、2月度総幹部会開催(豊島振興会館)。「全講中に漲る死身弘法の決意」、2月度折伏成果 127世帯、総世帯数は 9,362世帯となり、一万法城達成まであと 638世帯とせまった。
 浅井昭衛本部長「七百年間、かつて国立戒壇建立の正義は乱れたことがない、失われたことがない。それが曲げられ危うくなるということは、まさしく事の広宣流布、国立戒壇建立が近いのではないか、その大瑞相ではないかと深く思わずにはいられない。…
 いま妙信講が成さんとする御奉公は、一妙信講の問題でなく、宗門の大事、日本の問題、そして全人類の運命にかかわる重大な問題である。ゆえに生命にかえてもこのことをつらねかねばならない」(「冨士」第103号 )
2月24日
 宗門、早瀬道應総監、浅井昭衛本部長と面談。妙信講に、「正本堂は現時点における"事の戒壇"である」「ただしこの"事の戒壇"とは、御遺命の戒壇を意味しない」旨の了解を求む。
 妙信講、以下の「三ヶ条」を示し、宗門声明を重ねて要求。宗門の回答は、4月10日とされた。
 一、正本堂は三大秘法抄・一期弘法抄に御遺命の事の戒壇ではない。
 二、正本堂は奉安殿の延長として、大御本尊を厳護し奉る殿堂である。
 三、正しく御遺命の事の戒壇とは、一国広布の暁、国立の戒壇である。
「そして二月二十四日、再び宗務御当局より呼び出しがあった。総監殿の云われるには、『宗務院の考えとして、宗門声明を出そうと思っている、だがその時期と内容は未だ云えない』と。こんな漠とした話ではつかみようがない。はっきりするよう強く求めた所おっしゃった。… ただ一ヶ条、云わく『正本堂は現時点における"事の戒壇"である』と。但し、"事の戒壇"の定義は宗門古来のそれとは違う、御遺命の戒壇を意味しないのだそうです。そして、三大秘法抄・一期弘法抄の御遺命の事の戒壇については、将来に属する問題だから、今は一切ふれないのだそうです。
 何たる事か。… 『これでは訂正どころか、学会の歪曲を再び宗務院が支持裏付けするのと同じ結果になるではないか。こんな宗門声明は断じて承伏できない』と申し上げた。そして更に『もし、御当局が毅然と訂正せんとする御意あるなら、宗門声明は宣しく次のごとき内容であるべきである』として、妙信講の考えを強く申し上げた。それは次の三ヶ条(※ 上掲)です。…
 されば、此処で宗務御当局の決意を伺いました。… 『かかる重大な事、御虫払い法要が済む以前には決められない』と。『それでは御虫払いの後の四月十日までお待ちする』と申し上げて座を立った」(「冨士」第103号 )
3月1日
 妙信講、班長会開催(豊島区民センター)、「四月十日を見つめる」。全班長に初めて「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」と「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」の二冊の『諌暁書』を配布。全講、「三ヶ条」に対する4月10日の宗務院の回答を注視。
 浅井昭衛本部長「私は学会を少しも蔑るものではない。あの戦時中、初代牧口会長は獄中に身命を軽うされた。また弾正講講頭・藤本秀之助氏も信州の獄中に散られた。いつか藤本氏の亡くなる一ヶ月前の手紙を見て涙が止まらなかった。死を賭した人の言葉はまざり気がない。学会は大衆へ弘通し、藤本氏は国家諫暁を叫ばれたが、道こそ違えこのお二人こそ正宗信徒として、戦争中の弾圧にも節を曲げず、遂に生命を棒げられた方である。また第二代戸田会長の死身弘法によって、今の広宣流布の気運は正しく出来したのである。学会の曾っての死身弘法は心から敬意を表する。…
 だが、広宣流布の前夜、一番大事な時になって、重大な誤りを侵したらどうなる。大聖人の御心に背いてはいかなる大組織も持つべきはずがない。功徳を失う、これは一学会だけの問題ではない、宗門の大問題でもある。…
 此処に思う。在俗の者が、宗務御当局に対し、宗門声明の内容にまで立ち至って強言を申し上げる事が、どれほど礼を失い僭越であるかはよくよく承知である。だが、こと此処に及んでは既に非常事態である。一宗の大事、国家の大事、かかる時、宗務御当局への礼にこだわり、大聖人様への大事の御奉公をおろそかにするわけには行かぬ。それこそかえって大不忠の者、非礼の者、仏法中怨の者となる。…
 四月十日、宗務御当局は何と御返事なさるか。どのような御返事であろうともよい。いまは只御当局の信心に任せ奉る。私は最悪の事態も覚悟している。もしそうなれば、それが大聖人様の御仏意であるとする。なまじ表面だけの誤魔化しで通れば却って将来に禍根を残す。大聖人様はどのように思し召され、どのように命じ給うか。妙信講はその御命令のままに一死を賭する。… 今はただ、四月十日をよくよく見つめるのみである」(「冨士」第103号 )
3月17日
 妙信講、研修部会開催(豊島区民センター)、「開目抄」講義開始。
3月22日
 宗門、正本堂の意義につき指導会開催(総本山大客殿)。細井日達管長、「正本堂は一期弘法抄の意義を含む、現時に於ける事の戒壇である」と。
3月26日
 妙信講、3月度総幹部会開催(豊島振興会館)。「宗旨御建立の御徳を偲んで」、3月度折伏成果 91世帯、総世帯数は 9,453世帯、一万法城まであと 547世帯となった。
 浅井昭衛本部長「すでに異常気象は盛んに起こり、経済は大きな壁にぶつからんとし、米・中・ソの3匹の猛獣にはさまれて日本は方向を失っている。…
 妙信講は七千世帯達成を以て、大聖人様より発言の資格を給わり、宗門における御奉公を貫きつつある。4月10日、それがどうなるかは知らない。すべては御仏意である」
 本部辞令:佐藤良子 女子部幹事に任ずる。
 編集後記「今、全講はこの4月10日をみつめて、かってなき緊張に満ちた前進をなしている。総幹部会・支部幹部会・班長会・男女青年部幹部会における、火を吐くような決意がそれを如実に物語っている。… 今、広布の前夜たる末法濁悪の入り口に立って決然と立たれる、師匠の御奉公をしっかり見つめ、弟子としての斗いに立たんと思うものである」(「冨士」第104号 )
3月31日  三一書房、溝口敦著「池田大作 権力者の構造 堕ちた庶民の神」を発行。
4月1日
 妙信講、「冨士」巻頭言、浅井昭衛本部長「三月の悪風に思う」
「三月二十日、突如春の嵐吹き来りて富士山で大量遭難。その後わずか十日、再び悪風は全国に三日間吹き荒れて死者不明実に百十余名に及ぶと聞く。近年の異常気象は今さら目新らしい事ではないが、この三月の再三の悪風は何か気になる。御書に云く「風は是れ天地の使なり、まつり事あらければ風あらしと申すは是れなり」(八幡宮造営事)と。御本仏大聖人の一期の御遺命、いま立つとやせん、曲げられるとやせん。天これを知るか。而して御書に云く「師子王のごとくなる心をもてる者必ず仏になるべし」と。又云く「争子家に在れば則ち其の家直し」と。又云く「寧ろ身命を喪うとも教を匿さざれ」と。 正しく本年こそ、広布の前夜たる末法濁悪の入り口・七十年代の初期の山場なること疑いない。天変いよいよ盛んなる中、折伏も亦必ずしんしんと進む。濁悪の世に大慈悲を以て御本尊の功徳を説く者、まさに仏様の使いではないか。この四月、心豊かに題目を唱え、断じて勝とう。必ず、大聖人様は見てて下さるのである。四月一日」(「冨士」第104号 )
4月6/7日
 宗門、総本山で恒例の霊宝お虫払い大法会奉修。
4月9日
 宗門、「三ヶ条」に対し妙信講に回答。
「初めに、猊下の御指南であるとして、正本堂を定義して云く「正本堂は一期弘法抄の意義を含む現時における事の戒壇である」と。
 これに宗務院がさらに解釈をつけ加えて「正本堂は広宣流布の暁に一期弘法抄に仰せの本門寺の戒壇たるべき大殿堂である。但し現在はまだ謗法の人が多い故に安置の本門戒壇の大御本尊は公開しない。この本門戒壇の大御本尊安置のところはすなわち事の戒壇である」(「冨士」第105号 )
4月9日  創価学会、「月例登山会」を激減させ、本山への経済封鎖等、種々の圧力を加う。
4月10日
 妙信講、宗務院の早瀬道應総監に面会要請。
「四月十日夜おそく総監殿に電話しました。『何としてもお会いしたい』と、そして四月十六日午后四時から八時半までお会いした」(「冨士」第104号 )
4月16日
 宗門、妙信講と法道院にて論判。宗務院は早瀬道應総監・阿部信雄教学部長・藤本栄道庶務部長、妙信講は浅井甚兵衛講頭・浅井昭衛本部長。
「教学部長「宗務院は論判するつもりはない。今日はそんなつもりで出て来たのではない」
 浅井「まず入る。あの三ヶ条の回答、一つづつ確認したい。まず,一期弘法抄の意義を含む、との御指南につき … 詮ずる所、条件はまだ満足していない、意義は整わないが、建物だけは最終のものを立ててしまったと云うことではないか」
 教学部長「まあ、そういうことになる」
 総監殿と教学部長が共にこれを認めるまで約一時間、ああでもない、こうでもないとウナギかナマズのごとし。… だが釘でやっと止めて「もうこの結論を変更してはならない」とダメを押して先に進んだ。
 浅井「あらためてお聞きする。未だ広宣流布も達成せず謗法充満の時、建物だけは先に立ててよいという文証と道理があいったらお聞きしたい」
 教学部長「文証といわれるが、御書の読み方にも文・義・意の三段があってなかなか難しい」
 浅井「その文・義・意の三段というのをぜひお聞かせ願いたい」…
 教学部長「......。いや、すでに流行の広布の相であるから立ててよい」
 浅井「流行の段階で究極の戒壇を立ててよいという文証はあるか。もし広宣流布に約せば流行ではなく、まさしく流溢の時始めて立てられるのではないか …」
 教学部長「… 我々はただ猊下の御指南に従うほかはない」… あとはこれを繰り返えすだけ、…
 浅井「明らかな道理も文証も示さず、ただ猊下をかくれみのにして逃げていることだけはよくわかった。第一条はこれで結論、次の第二条に移りたい」
 浅井「… 国立戒壇でなければどんな戒壇が御遺命か」…
 教学部長「妙信講の解釈のほかに、あるいはもっと深い意味があるかも知れない。御書は甚深です」
 浅井「その甚深の意をぜひお聞かせ願いたい」
 教学部長「いや、我々は猊下の御胸中より御書を拝する以外にはない。また逃げると云われるだろうが猊下に随うだけだ」
 浅井「おっしゃる通り、たしかにお逃げになった。これが結論である。それでは次の第三条に移りたい。… "天母山を云う者は要山日辰の亜流だ"と、これ又思いきった事をいわれたが、… 日寛上人も日穏上人も当るがどうか」
 教学部長「.......」
 浅井「… これでは現総監も又まさしく日辰の亜流となってしまうではないか」
 教学部長「.......」
 総監「とにかく、こうして新しく正式の御指南が出た以上は随ってほしい。猊下の仰せには、いかなる事といえども随うべきだ」
 浅井「血脈付法の猊下が宗開両祖の御遺訓に違うことを申されるはずは断じてない。そのような御指南は猊下の御本意でない。… 妙信講に仰せられた猊下の御指南は宗開両祖の御遺訓のまま、歴代先師の御伝承のままである。これこそ猊下の御本意である。妙信講はただ御相承の御本意を守り奉る。これが真の忠節である」… 」
 かくて、講頭先生と二人で帰って来ました。家に帰っても口をきく気になれない。… 一体仏法はこれでどうなるのか。御遺命を曲げて宗門はこれからどうなるのか。…
4月17日
 妙信講、臨時班長会開催、「公場に是非を決せん」。浅井昭衛本部長、池田大作会長との「公場対決」を宣言。
「この四月十日、宗務院よりいかなる回答が為されるかと、全妙信講員が緊張し心配してくれました。… 四月九日、宗務院の回答が書類で送られて来ました。今から発表します。(※ 前掲 )… これを大前提として、妙信講が宗門声明として出すべしと先に求めた三ヶ条についてもそれぞれ回答をして来ました。以下その要旨を云います。…
 以上が宗務院回答の要旨です。曲げに曲げて恐ろしいことを云って来たものです。まさしく最悪の事態です。かねての覚悟とは云いながら、これほど悲しいことはない。妙信講がとりつぶされる事なんか少しも最悪の事態ではない。たとえ妙信講はどうなろうとも、正義をとり入れて頂ければ有り難い。…
 いまの状況でこれを決するのはただ一つ。妙信講の代表とも池田会長と公場において是非をはっきりさせる以外にない。みんなの見ている前で、いずれが是、いずれが非かを決したい。池田会長もし確信あるならば、いたずらに玉座を障壁とすることなく、公場に出て堂々と是非を決すべでいないか。(大拍手)
 公場対決の結果、もし妙信講の云うこと誤りなりとすれば、妙信講は直ちに解散して、私は肚を切る。だが、もし学会のいうところ誤りなれば、虚心担懐に今までの歪曲を訂正してほしい。そして猊下の御本意のもと、日蓮正宗信徒として真の異体同心・団結を以て御在世の信心に立ちかえり、御遺命のままに死身弘法と一国諫暁をなすべきである」(「冨士」第105号 )
4月18日  創価学会、第60回社長会開催。
 池田大作会長「お墓はたくさんあった方がいい。… 三多摩に菩提寺を作りますよ、日本一のお寺を作る。三百年前の様式で作る。創価山立宗寺で、萩を植えて、月をあびながら、生きるために永遠のために懇談しましょう」
4月26日
 妙信講、4月度総幹部会開催(豊島振興会館)。「一万法城にあと四二五世帯」、4月度折伏成果 122世帯、総世帯数は 9,575世帯。
 浅井昭衛本部長「5月は、先般4月17日において発表しましたが、今、妙信講が行なっている国立戒壇の正義を守る御奉公の一つの山場を迎えております。為さねばならぬことがあるので、支部会は中止。班座談会を中心として活動してほしい。…
 妙信講は誰に誤解されようとも、けなされようとも構わない。… 妙信講は毅然として、大聖人の仰せを貫いていく。たとえ今は誰にけなされようとも、将来もし一人の御方より、"よくぞこの力のない講中で、国立戒壇の正義を守り斗い抜いてくれた、御苦労であった"という一言をお聞きするならば、いつ死んでもいい。… 今、妙信講が立たずして、誰がこの御奉公をなすのか」(「冨士」第105号 )
4月28日
 宗門、細井日達管長、「訓諭」を発布。
「さきに法華講総講頭池田大作発願主となって、宗内僧俗一同の純信の供養により、昭和四十二年総本山に建立の工を起せる正本堂はこゝに五箇年を経て、その壮大なる雄姿を顕わし、本年十月落成慶讃の大法要を迎うるに至る。
 日達、この時に当って正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす。
 正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。
 即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。然れども八百万信徒の護惜建立は、未来において更に広布への展開を促進し、正本堂はまさにその達成の実現を象徴するものと云うべし。
 宗門の緇素よろしく此の意義を体し、僧俗一致和衷協力して落成慶讃に全力を注ぎ、もってその万全を期せられんことを。右訓諭す。昭和四十七年四月二十八日 日蓮正宗管長 細井日達」(「大白法」113号 )
「本来、日蓮正宗側は、創価学会の数と力にものを言わせる威圧的なやり方や、既成事実を次次とつくって、なしくずしに伝統教義を曲げていくやり方を快く思っていなかった。蔭で妙信講の肩を持つ僧侶も少なくなかった。…
 池田大作氏と創価学会は、必死になって宗務院を固めた。なかば威圧と、理論闘争と、そして、『ここまできて、いまさら正本堂が事の戒壇でない、などと言ったら、正本堂御供養金の返還さわぎがおこり、宗門までつぶれてしまう』という脅しで、創価学会への同調を迫った」(「盗聴教団」、山崎正友 )
4月28日
 宗門、細井日達管長「正本堂の意義についての御法主上人猊下御説法」
「唯今、教学部長から「正本堂は一期弘法抄の意義を含む現時に於ける事の戒壇である」と、定義を公表致しました。これについて、もう少し詳しく私の見解を述べてみたいと思うのでございます。その解釈は、「正本堂は広宣流布の暁に、一期弘法抄に於ける本門寺の戒壇たるべき大殿堂である。現在は未だ謗法の人が多い故に安置の本門戒壇の大御本尊は公開しない。この本門戒壇の大御本尊安置の処は即ち、事の戒壇である」―――これは先程、昭和40年2月16日の私が申しました言葉の意味とピタリ合っておるわけで、それを判り易く要約すれば、こうなるのでございます。このなかの「一弘弘法抄の意義を含む」という事について、もう少し述べたいと思うのでございます。まず、この解釈に当って二方面から考えてみたいと思います。第一は、世間儀典的。第二は、出世間内感的。…
 しからば今、末法において、我々大聖人の弟子檀那が南無妙法蓮華経と唱える、我々の己心においての有徳王・覚徳比丘の王仏冥合の姿こそ、我々の己心にあると考えなければならないのであります。これ実に、我々行者の昔の己心の姿を顕されていると拝すべきであって、その己心の上に勅宣並びに御教書がありうるのであります。…
 又、日寛上人の事・義の戒壇について、もう一言加えて解釈するならば、寛尊は所化の弟子を教導する為に、戒壇を事義の二段に別けられ、三大秘法を六義にわけられて説かれておるのでありますが、詮ずるに、六義は本門戒壇の大御本尊を顕彰するためであって、本門戒壇の大御本尊は六義の正主である本門戒壇の大御本尊を顕わさんがために、六義に立て分けて説明せられたのに過ぎない。… 今、この言葉を転用して本門戒壇の大御本尊安置の処を事の戒壇と申すのは、六義を超越した所謂独一円妙の事の戒壇であるからであります。「正本堂は一期弘法抄の意義を含む、現時に於ける事の戒壇である」と宣言する次第であります」(「大白法」113号 )
4月28日
 妙信講、浅井昭衛本部長。池田大作会長に対し、「公場対決申し入れ書」を送付。
「然るに池田会長には此の御金言を侵し、未だ広宣流布も達成せず一国に謗法は充満の時、俄かに正本堂なるものを建立寄進して、自らこれを「三大秘法抄・一期弘法抄の事の戒壇」「宗門七百年の悲願の達成」「仏教三千年史上空前の偉業」と断定、自讃を致しました。其の文既に顕然であります。これ正しく大聖人一期の御遺命を歪曲し、宗門七百年の悲願を蹂躙するものでなくて何でありましょう。…
 若し会長自身正本堂を御遺命の戒壇と確信し、御金言に照らして少しも愧ずる所無くば、誰の権威を借りる必要がありましょう。自ら堂々と其の所信を述べて妙信講を摧き、天下に声明すべきであります。然るに応えるべき自身は全く隠れ、宗務当局を使嗾し、其の上恐れ多くも再び猊座を障壁とする。まさに袞竜の袖に隠れる卑劣とはこれであります。…
 若し妙信講だにも承伏すれば、日本国に誰か正本堂を違法と云うものがありましょう。されば此の対決、池田会長にとっても仏教三千年史上空前の偉業を愈々飾る無二の好機でもあります。
 日時は五月二十日、場所は豊島公会堂(当方で既に契約)、入場者は学会員・妙信講員共に五百名、更に加えて報道関係者、これ既に四十五年五月三日の学会総会に歪曲を聞く故であります。かくて全宗門僧俗の眼前、更に日本国中の見守る中、大事の仏法の正義公然と糺明すべきであります。万一にも五月二十日が不都合とあれば、会長御希望の日時を示し給え
 されば、右応否の返報、来る五月十二日までに必ず給わるべく鶴首して待ち入るものであります。恐々 四月二十八日」(「冨士」第105号 )
4月29日  創価学会、聖教新聞に訓諭を掲載。「正本堂について猊下、全僧俗に訓諭 広布の暁には本門寺の戒壇 一期弘法抄、三秘抄の意義を含む」の見出しを付す。
5月1日  創価学会、「大白蓮華」5月号発行。宮本忠憲副教学部長の論文「主師親の三徳の意義」掲載、凡夫の身に主師親の三徳がそなわることを強調。
「主師親の三徳は仏が備えている根本的資格であって、我々の九界の凡夫にはそうした徳はないとするのは大きな誤りである。なぜなら、九界の衆生も一念三千の当体であり、仏知見を具えているからである。… 以信代慧の原理によって、… 仏知を開き顕すことができるのである。そこには主徳も師徳も親徳も一切含まれている」
5月4日  サンケイ新聞社、池田大作著「文明・西と東」出版、クーデン・ホーフ・カレルギー 対談。
5月5日
 宗務院、妙信講に対し「訓諭に従い公場対決を撤回せよ」と、公場対決取り消しを迫る。
「池田会長へのこの書状に、はじめに反応したのは創価学会ではなく、宗務院であった。通告文書をもって"猊下の御本意は訓諭にあり、これに従わないことは信徒としてとどまる意思がないと考える。池田会長への公場対決申し入れを撤回しなければ、宗制宗規により処分する"と威嚇してきた。
 後でわかったことだが、日蓮正宗の宗制宗規には、その時点で講中への処分規定はなかった。妙信講へのこの通告を発送した翌日、臨時宗会を召集して処分条項を新設したのである。…
 妙信講は全講員に呼びかけて、広く創価学会員に"御遺命違背"を知らしめる文書の配布、伝達を開始した。これに対応するかのように、宗門は阿部教学部長が書いた「国立戒壇論の誤りについて」という文書を刊行して配布した」(「冨士大石寺顕正会」下山正恕 )
5月6日
 宗門、臨時宗会開催。法華講支部に関する「解散・活動停止」等の処罰規定を新設。解散処分の事由に「宗門の公式決定に違背し、宗内を乱したとき」の一項が設けられた。
5月9日  創価学会、和泉覚理事長、妙信講に「公場対決には応じられない」旨の返書送付。
「創価学会としては、猊下の正式のご決定に対して異議をとなえる貴殿の非を正すことにやぶさかではありませんが、以前より、猊下からは、教義に関しては、みだりに信徒同士で争ってはならないとの御指南があり、それを遵守してきたことであり、いわんや四月二十八日の訓諭があって、猊下の正式の御決定があったにもかかわらず、信徒同士で、公開討論というのは、猊下をないがしろにする結果となることを慮り、恐れ多くもこれが可否を猊下にお伺いしたわけであります。これに対して、猊下の御教示は、別紙Ⅱのごとく、かかる行為を禁止されたものでありました。したがって学会としては、公開における討論には応じかねます」(「冨士」第106号 )
5月10日
 妙信講、細井日達管長への目通りを願い出る。
5月12日
 宗務院、妙信講に回答。「池田会長に対する公場対決申人れを撤回し、訓諭に随わざる以上、目通りは不可能」と。
5月15日  沖縄返還、琉球諸島及び大東諸島の施政権が、アメリカ合衆国から日本国に返還された。
5月23日
 妙信講、臨時班長会開催。浅井昭衛本部長、宗務当局に提出(昭和44年)した、「日蓮聖人展」における諌訴状を始めて妙信講員に公開。
 第一回諌訴状(昭和44年5月12日)。
 第二回諌訴状(昭和44年5月18日)。
 第三回諌訴状(昭和44年6月18日)。「既に我に千五百の男子精鋭あり、而も仏法守護の刀杖すでに持す。隠忍の過去十二年、枚を啣み鳴を鎮めて鍛えし捨身の精鋭なり。一朝事あらば、自ら率いて在家の本分に殉ぜんのみ」(「冨士」第106号 )
5月26日
 妙信講、5月度総幹部会開催(豊島振興会館)、「全講挙げて御遺命を守る戦いを」。
 浅井昭衛本部長、「されば、学会の歪曲は猊下のおそばにある宗務当局こそ糺すべきではないかと、まず当局に訴えた。当局は妙信講の所論を正論と認めた。さらに恐れ多くも猊下には御本意を仰せ下され、学会に訂正を命じ給うた。学会は確認書に署名をした。しかるに違約を為したゆえに会長に直接糺し訴えた、ところが前言をひるがえし、逆に開き直り、圧力を以て宗門声明を出さしめ、これを障壁として再び曲げてしまった。止むなく会長に公場対決を迫った。そしたら、五月九日に学会より正式の返事がありました。…「公場対決には応じられない」…
 同時に、宗務院からは「公場対決を取り消せ」と再三に亘って文書を以って迫って来ました。そして「五月十五日までに取り消さぬなら、宗制宗規に照らして厳重処分をする」と云っておどして来ました。だがこんな乱暴な規則は本宗には昔から無い。そこであわてて五月六日宗会を開き、妙信講を罰する為の新しい宗規の条目をにわかに作った。… 本日まですでに十二日を経ている。遠慮はいらない。早く処分なさったらよろしい。…
 もう、妙信講はすべて云うべきことは云いつくし、踏むべき手順もすべてふんだ。此処に及んでは遂に決意せざるを得ない。この御遺命の曲げられた重大事実を、信心あらん日蓮正宗全信徒に知らせ訴える以外にない。全信徒の護法の道念に訴える以外にない。… 会長への諫暁書「富士」の三月号五月号、この三冊をセットにして、無料で配布してほしい。何千部でも、何万部でも、何十万部でもよい、資力の続く限り正論を聞かしめようではないか。… 本日よりこの一万世帯の火の玉の団結を以て、"御遺命を守る斗い"を決然とおこしていこうと思うがどうでしょうか。(大拍手)
 最後に申し上げる。それでは妙信講はどうなるのか … 解散・除名などは少しも悲しむことではありません。嘆くにはあたりません。むしろ喜びであります。妙信講には世間の失一分もない、ただ法を惜しむゆえに、いま大聖人様の御遺命を守り、御金言に方人申し上げている。その為に首を刎ねられるなら本望ではありませんか。…
 さればこれからが正念場の中の正念場、御本仏日蓮大聖人は必ず御照覧であります。いまこそ熱原の法華講のあとをも継ぎ、生涯二度となき御奉公、御遺命を守る斗いに毅然として全妙信講員は立とうではないか。(大拍手)」(「冨士」第106号 )
5月 日  美濃部亮吉東京都知事、都議会での公明党の協力を、パリ滞在中の池田大作会長に要請。
 公明党は、自公で連携をとって美濃部知事と徹底的に対立、人事案・予算案・条例案に反対し都政を妨害した。美濃部知事は再選から一年後の昭和47年5月、単身フランスに飛びパリ滞在中の池田大作会長を訪問、「どうか助けて下ざい」と懇願。
「美濃部知事がパリで頭を下げた直後、都議会の公明党控え室に池田から国際電話がかかってきました。竹入さんが控え室に待機しており、その電話を受けました。『いま、美濃部が来た。明日から与党になれ』との指示を受けた竹入君が、我々に向かって『明日から与党だ!』と叫んだことを鮮明に憶えています。あの事件以後、池田は『都知事の首など俺の意向一つでどうにでもなる』と豪語するようになったんです」(元公明都議会議員) 。
6月1日  創価学会、「大白蓮華」6月号発行。宗会議員・参議会議長・高野永済師の「訓諭を拝し奉りて」を掲載。"領解の不徹底"の章で、「ピエロ的要因を含ん」だ「頑迷固陋」な「保守派」、「閉鎖的セクト主義に蟄居」と妙信講を批判。
6月6日  創価学会、妙信講の文書配布停止を宗務院に訴える。
6月12日
 宗門、阿部信雄教学部長。「国立戒壇論の誤りについて」を刊行。
(※ この書の所詮は『日本国憲法のもとでは「国立戒壇」は成立し得ないから、国家と無関係に建てられた正本堂こそ、時代に即した御遺命の戒壇に当る』というにある。本書の根底には、憲法を主、仏法を従とする顛倒が横たわっている )
6月12日  創価学会、第61回社長会開催。
 池田大作会長「本当は全体主義は一番理想の形態だ。… 本当にやった人は表彰する。創価山立宗寺にも(※銅板に名を刻んで)入れてあげる」
6月13日
 宗務院、「通告書」を妙信講に送付。妙信講の文書配布を「猊下に敵対する破和合僧の行為」とし、「文書配布の中止と公場対決要求の取り消し」を迫り、弁疏を求めた。
「通告 … 
 猊下の訓諭に敵対し、宗門ならびに創価学会を誹謗中傷する言辞を弄しているとのことであります。これが事実であるならば、猊下に敵対し、宗門の統制を乱す重大な破和合僧の所為であると断ぜざるを得ません。…
 妙信講が、右通告を無視したのみならず、今回、再び、かかる不法な行為に及んだことについて、宗務当局は妙信講の指導者である浅井甚兵衛講頭及び浅井昭衛本部長に重大なる責任を問うものであります。よって宗制宗規の定めるところにより、本書面到達後一週間以内に、貴殿等の弁疎を書面にて宗務院に提出するよう通告いたします。…
 昭和四十七年六月十三日  日蓮正宗宗務院 総監 早瀬道応」(「冨士」第107号 )
6月22日
 妙信講、宗務院に回答文を送付。訓諭は猊下の御本意ではなく仏法違背と責め、かえって7月7日までに訂正の意志の有無につき、回答するよう迫った。
「阿部教学部長の曲論『国立戒壇論の誤りについて』のごとき、邪智にまかせて一を三と読む、まさに御金言に弓を引く者である。もし宗務当局に一分の道念でもあるならば、今からでも違法の訂正をせよ。改めて尋ねる、訂正の意志は全くなきか、あくまでも正本堂を"御遺命の戒壇"と云い切る所存か。7月7日までに返報せよ。もし一分の誠意なく敢えて違法を強行するというならば、妙信講は非常手段を以てしても、断じて御遺命を守り奉る。宗務御当局、その道を誤らぬよう、最後の忠告を申し上げる。…
 只々在家の本分に殉ずるのみであります。さればその時、妙信講も斃るべし、同時に猊下の御本意を覆う学会の暗雲もなし、阿諛の御当局も除かる。而して大御本尊と猊下は厳として輝き、純信の宗徒数百万は亦清浄の外護に立つ」(「冨士」第107号 )
6月26日
 妙信講、6月度総幹部会開催(豊島振興会館)、「御遺命守護と折伏さらに進めん」。
 浅井昭衛本部長「只今、全宗門に大聖人の御遺命の正義がこだましつつある。… 御本仏大聖人の御法魂まします宗門ならば、必ず大聖人様が、御遺命の正義を気付かせて下さるに違いない。…
 必ず大聖人の御裁断がある。いまや、日蓮正宗の御僧侶で御遺命の正義を知らない人はない。但し御僧侶はどういう立場か知れませんが、この事について発言をなさらない、しかし心の中では全部わかっていらっしゃるに違いない。…
 この日蓮正宗の中に、猊下の御本意を守って立つ一万世帯の妙信講がある以上、断じて御遺命は曲げさせない。必ずこの大聖人様の御遺命は誰人たりと雖も曲ることができずに、再び宗門に厳然と輝くこと断じて疑いない」(「冨士」第107号 )
6月 日
 妙信講、「冨士」編集後記。
「◇ 師匠の烈々たる憂宗護法の叫びを全宗門にこだまさせんと、六月から七月にかけて、全講をあげて大聖人の御遺命の正義を守る斗いが活発に進められた。ことに、仏法守護の実力部隊としてきたえぬかれた男子青年部では七月、一部の有志を選出、師匠の命を帯しまずは序戦として組織的な行動を開始した。…
 ◇ 全講をあげて御遺命を守る斗いに入ってから早くも一ヵ月半、正宗信徒から正宗信徒へ、妙信講の正論は今や北は北海道のさいはてから、南は九州まで全国に流れ渡り、その波紋は次第に大きな広がりをみせつつある。
 ◇ 「ここ数年前から、おかしいおかしいとは思っていたが、やはり」「これまさしく自分達が、かって叫んでいたことである」「この書を読んだ時、全身に電流が走るような思いに襲われた」等々、各地から、御遺命の正義にめざめた人々の声が送られてくる」(「冨士」第107号 )
6月 日
 阿部信雄教学部長と早瀬道應総監、7月7日の期限を待たず 細井日達管長に辞表を提出し失踪。
「創価学会、妙信講双方からの圧力が、宗務院にかかって板ばさみとなったうえ、宗内からも、妙信講に同情する声が上がり、宗務院をつき上げはじめた」(「盗聴教団」山崎正友著)
6月30日
 妙信講、細井日達管長への書状を認め、松本日仁能化に托す。
「すでに一切の覚悟も定めておりました。そして七月七日を待って、一日々々緊迫せる日が続いたのであります。ところが、突然猊下より妙縁寺・松本尊能師に対して七月一日に登山するよう御命がありました。そのことを御能師よりお聞きした時、ぜひとも猊下に直接お手紙をお手渡し下さるようお願いしました。すでに妙信講としてはお目通りの道も宗務当局によって塞がれている、郵送も不確実と聞いている、だが宗門重大の秋、事の真実を猊下が御存知なければ悔いを千載に残すとの思いでありました。早速、今までのいきさつと妙信講の心情を必死の願いを込めてしたため、七月一日松本尊能師に託しました」(「冨士」第108号 )
7月1日
 宗門、細井日達管長、本山に松本日仁能化を呼ぶ。松本能化、細井管長に妙信講からの書状を渡す。
「小輩等の非力にして猊下の御本意を学会の強圧より守り得なかった事、只々伏して愧じ入るのみでございます。… 講員は学会・宗務当局の無懺無愧に血涙を流し、男子精鋭二千の憤りは抑えがたきものがあります。もし妙信講一死を賭して立つの時、流血の惨を見ること必至であります。この時一国は震撼として始めて御本仏の御遺命を知り、宗務当局また始めて御遺命に背くの恐しさ、正直の講中を欺くの深刻さをはだえに感じ、ここに誑惑は一挙に破れ、仏法の正義は輝くものと確信いたします。… 妙信講、貧にして捧げるに財なく、但し一万の命を以て供養にかえ、此処に時に叶う御奉公を為し奉ります」
「だが猊下におかせられても、妙信講へのお手紙を御用意されておられ、松本御能師に下されたのであります。そのお手紙を拝見して、再び七月四日御返書を申し上げた」(「冨士」第108号 )
 下山した松本能化は、細井管長の「親書」を妙信講に渡した。書状の内容は自重を求めるもので、案文は山崎正友顧問弁護士の手になるものである。
7月1日
 妙信講、浅井昭衛本部長。班長会において「国立戒壇論の誤りについて」の曲文を破折。
7月3日
 妙信講、男子部。御遺命守護の為、組織的行動を開始。都内の全末寺にて、出入りする信徒に文書(先の三点セット)を配布。
7月3日  創価学会、池田大作会長、細井日達管長に妙信講対応を懇願。
「宗務院は、非常につらい立場に立たされた。そして、総監と教学部長は辞表を提出された。…
 一方、強引に妙信講追放のレールを敷いたものの、その結果、妙信講が脅しに屈するどころか、暴発はますます避けられない情勢になってきたことから、池田大作のほうが耐えきれなくなった。池田大作は、側近・首脳にも、また、宗務院にも相談せず、直接、御法主上人にお目通りして「かくなる上は、何とか、貌下御自身で妙信講を説得してください」と泣きついた。昭和47年7月3日のことである。御法主日達上人は、これを受けて7月6日、浅井父子に直接面談される決心をされた」(「あの頃のこと」山崎正友 「慧妙」2001年5月1日号 )
「本心は臆病な池田大作氏は、日達上人の説得工作に、円満解決の望みをかけたのだった。しかし、日達上人のお言葉次第では、すべてが裏目になってしまう危険のあることも明らかであった。むしろ、その可能性の方が強かった。そのときには、ただちに対策を講じ、裏目の被害を最小限に防がなくてはならない。そのためには、一刻も早く、ダイレクトな情報を入手する必要があった。結局、盗聴という手段が取られることになった。いつも池田氏の思いつきや恐怖心にかられた発作的な行動から生まれる学会を危くするような行為の後始末が、私に非合法な手段を強いるのだった」(「盗聴教団」山崎正友 )
7月4日
 妙信講、7月1日付け細井日達管長の「親書」に、返書を提出。
「このうえは、大事出来して一国の耳目驚動の時、公延において厳たる証拠と道理を示し、一国に正義を明かすのほかなく、… さればその時、小輩等早く霊山に詣で、宗開両祖の御尊前にて、聖人展の違法・正本堂の誑惑さし切りて言上、さらに宗門の現状と猊下の御苦衷、つぶさに申し上げる所存でございます。猊下には永く御健勝にてわたらせますよう、偏えにお祈り申し上げる次第でございます」
7月4日  創価学会、山崎正友顧問弁護士、墨田区妙縁寺に行き盗聴器の設置場所を物色。
「とにかく、一分でも一秒でも早く正確な情報を手に入れ、間髪を置かず対応しなくてはならなかった。そのために、北条副会長らと相談の上、宮本邸以来、ほとんど封印していた"盗聴"という手段を用いることになった。電話盗聴と違って、仕掛けるのも非常に簡単で、失敗の気遣いはなかった。私は、広野輝夫(学生部主任部長)を呼び、宮本邸電話盗聴の時の経験を元に、盗聴器の作製を命じた。…
 7月4日午後、私は、会談会場の墨田区妙縁寺に行き、「警備のため」といって内外を点検した。対談の場所である二階の和室のかもいの隙間に、盗聴器を放り込んでおけば、発見されることもないし、充分盗聴できる、という状況を見極め、広野輝夫に設置を指示した」(「あの頃のこと」山崎正友氏 「慧妙」2001年7月1日号 )
7月5日  創価学会、山崎正友ら盗聴実行グループ、妙縁寺に盗聴器をしかける。
「7月5日の午前中に、広野輝夫は、妙縁寺二階の会談場所と予定される部屋に侵入し、欄間と壁の間に電波発信式の盗聴器をしかけた」(「盗聴教団」山崎正友 )
7月6日
 細井日達管長、妙縁寺へ下向。浅井講頭・本部長を呼び、「今回、確認書の約束が破られたような形になったことは、まことに遺憾に思っている」、「訓諭については不本意な箇所がある。よって新しい解釈を『大日蓮』8月号に発表する」と指南。さらに。聖教新聞社へ「国立戒壇論の誤りについて」の連載中止を命令。
「そして七月六日、思いもかけぬことがおこったのです。実に恐れ多くも、猊下が直々に妙縁寺に御下向せられ、講頭先生と私に目通りを仰せつけられたのであります。当日朝八時半、恐々として妙縁寺に参詣するに、猊下には直ちに重大なる種々の御指南を下された。恐れ多いから公表を悼かりますが、伝えねばならぬことだけをお伝えする。
 その折申し上げました。「私共はおろかの在家、むずかしい御書・経文のことは全く存じません。但し、堅く約束された確認書が、弊履のごとくふみにじられたのは道理とはおぼえません。その上、約束を破った学会・宗務当局はかえって訓諭を障壁として、妙信講に対,『猊下に背く者』『破和合僧の者」『師子身中の虫」と悪罵し、処分を以ておどしております。この行為は許し難き所行と存じます」と申し上げた。
 猊下は仰せ遊ばした。「すでに早瀬総監・阿部教学部長は辞表を提出している」と。そして更に仰せられるに「確認書はたしかに私が摂っている。この事実を否定する者は宗門には無い。だが今回、この確認書の約束が、破られたような形になったことは誠に遺憾なことである」
 さらに訓論について御指南を仰ぐに「訓論については不本意な箇所がある。よって全宗門に誤解なきよう近々に新しい解釈を発表したい」と仰せられた。具体的に、どの箇所が、どのようにと云うことも、はっきりと承わりました」
 山崎謀略師団、この会見を盗聴。後に東京地裁が盗聴事実を認定
「私は、広野から受け取った録音テープを創価学会本部に持ち帰り、文化会館6階の会議室で、北条・秋谷・原島の各氏と共に、再生して聞いた。
 日達上人は、席に着かれるなり、『言うことを聞かぬなら殺す、というなら、私を殺しなさい。さあ、殺しなさい。やれるものならやってみなさい』と切り出され、浅井親子を圧倒した。『下替も着替えて、このように辞世の歌も用意してきた。法のために死ぬのなら、何の悔いもない』 … 『宗務院はどうでもいい。学会は学会だ。訓諭は私が出した。私がやったことだ。不満があり、殺すというなら、まず私を殺しなさい』… 『国立戒壇というのは、今後、いっさい当家では言わない、と決めたのは私だ。だから、当家の教義として国立戒壇がある、などということは、今後、いっさい言わないでもらいたい。そろいう主張もしないでほしい』(「あの頃のこと」山崎正友 「慧妙」2001年7月1日号 )
「日達上人は、浅井父子に"あの訓諭は、最初の部分(御遺命の意義を含むという趣旨の内容)は、私が言ったことであるが、あとの部分(将来、御遺命たる本門寺の戒壇となるという趣旨の内容)は、私がやったのではない"といわれ、"さらに訓諭の訂正文を出す、訂正文といってはおかしいから解釈文を出す"といわれ、浅井氏を包容されたのでした」(「池田先生への手紙」原島嵩 )
「日達上人ははじめは、「殺すなら殺せ。今日は白装束できた。これが辞世の句だ」と、威勢よく浅井父子を圧倒した。さすがの浅井昭衛氏も、こうなっては下手に出るしかなかった。しかし、そこは、名うての強者、下手に出ながら巧妙な話術で、つぎつぎと肝心のポイントを取っていった。終わってみれは、すべてが浅井昭衛氏ののぞみどおりの結果になっていたのである」(「盗聴教団」山崎正友 )
「浅井父子は妙信講本部へ帰ると、『勝った。勝った』と大騒ぎした。… 正本堂は、ただの建物にすぎないことがはっきりする。それを見極めて、一斉に創価学会攻撃をやる。今がチャンスだ。必ず創価学会はつぶれる。少なくとも、宗門から追い出す」(「あの頃のこと」山崎正友 「慧妙」第204号)
7月7日  田中角榮内閣発足、田中角榮、第64代内閣総理大臣に任命さる。
7月12日
 妙信講、浅井昭衛本部長、「冨士」巻頭言「仏意恐るべし」
「深く慎しみ、御仏意を恐るべきである。所詮、御本仏大聖人一期の御遺命を曲げては、誰人の身が持とう、いや国が持たない。御法主上人猊下の御本意、ひとたびは顕われ、学会また確認書に署名をなせしこと、誰人も否定し得ぬ厳たる事実である。しかるに、約を違え、剰え御本意を曲げ隠し奉ったのは一体誰か。また阿諛の宗務当局の責は重大である。…
 事きわまれば必ず大聖人の御裁断は下る。血脈付法の猊下の御本意、厳として再び輝きわたること断じて疑いはない。妙信講は伏して待ち、一死を賭して此の御本意を守り奉るのみ」(「冨士」第107号 )
7月17  六藝書房、蓮悟空著『変質した創価学会 - 現創価学会大幹部の告発』発行。いわゆる板本尊偽作説を展開、千葉県・保田の妙本寺(当時・日蓮正宗、その後再離脱)の「万年救護本尊」こそ信仰の対象と結論する。
(※ 妙悟空は戸田城聖、法悟空は池田大作、蓮悟空は松本勝弥 各氏のペンネーム )
7月18日
 妙信講、臨時男子部指導会。浅井昭衛本部長、胸中の決意を披瀝。男子部精鋭一同、共に御遺命守護の重大御奉公に殉ぜんことを誓願、決意を表明す。
7月19日
 宗門、細井日達管長、大石寺対面所にて妙信講と目通り。「大日蓮」に掲載する訓諭の訂正原稿を、松本日仁能化、浅井甚兵衛講頭、浅井昭衛本部長に示す。
「そして七月十九日、猊下より再び登山するよう命ぜられ、松本尊能師と講頭先生と私、三人でお目通りを給わりました。種々御指南を給わりましたが、その所詮は、正本堂は三大秘法抄・一期弘法抄に御遺命の戒壇ではないと云うこと、即ち「正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂」ではない、と云うことをよくよく重ねて承わってまいりました。未だ謗法充満の時に、最終の戒壇が前以って建てられる、などという事は断じてないのです」(「冨士」第108号 )
7月25日  公明党、竹入義勝委員長、訪中。周恩来・中華人民共和国国務院総理、中国は一つである以上台湾は不法な存在であるとの認識を持つよう、竹入委員長に強く要求。
7月26日
 妙信講、7月度総幹部会開催(豊島振興会館)、「訓諭やはり御本意にはあらず
 浅井昭衛本部長「いま、有り難きかな、猊下の御決断によって、訓諭が猊下の御本意でないことは明かになった、宗門としては"最終の建物"とは認めぬとの御意は明らかになった。だが学会の初めの動機は己然として貫かれております。未だ学会から内外への正式訂正は一度も行われていない。…
 これこそ、これから先は妙信講が御奉公せよとの、大聖人の御命令と私は拝する。未だ本質は解決されていないのです。このままでは国が危うい。私はただ大聖人の御眼を恐れる。法を守るに、徹底を欠く「ゆるき行者」「懶惰懈怠の者」とのお叱りを、ひたすら恐れる。
 ここに、決意をいたしました。どうしても云わねばならぬことを云うべき、最後の時はまいりました。すでにいのちは投げ出しております。大聖人様のおうなずきを頂くまで、非力のすべてをなげ出して最後の御奉公を申し上げる。成否は知らぬ、すべては大聖人にまかせ奉る。ただただ御本尊の御加庇を祈り奉るのみであります。いかなることあろうとも、全妙信講員は一糸乱れず、異体同心について来て頂きたいと思うものであります。(大拍手)」(「冨士」第108号 )
7月29日  創価学会、学生部前期全国大会開催。
 池田大作会長、「仏法の真髄、東洋哲学の真髄は人間原点である」と述べ、
 (1) 世界 のあらゆる国家は武器ならびに交戦権を放棄する決意をすべき、
 (2) 人間 としての権利、特に生存権に目覚めるべきだ、と主張。
7月 日
 妙信講、「冨士」編集後記。
「◇ 御遺命の正義を守る御奉公に馳せ参じた一同が、思わず息をのんで伺った御法主上人猊下の妙縁寺御下向、そして「訓諭」の御本意にあらざること。だが臨時班長会でその経過を述べられた浅井先生の面は、けっして晴れてはいなかった......その胸中は知るべくもない。
 ◇ その先生が、遂に七月度総幹部会で重大なる決意を示された。すでに命を投げ出されている先生が「あとは一切大聖人様におまかせ奉る」「いかなることがあろうとも一糸乱れず付いてきてもらいたい」と申されるのを伺い、まさに妙信講の斗いに於てかってなき、のるかそるかの大なる御奉公が、いよいよこの八月九月に行なわれるのを感じ、ここに弟子としてすべてを賭けて斗う時がきたことを覚悟したものである」(「冨士」第108号 )
8月 日  創価学会、大石寺で夏季講習会開催。
「朝から晩まで、妙信講の対策のため御宗門や学会本部と連けいをとり、池田先生の側にあっては様々な報告をし、話もしました。その際、私はずいぶん先生の前で日達上人が時には学会側に、時には妙信講側に立ったというような話をしていたのです」(「池田先生への手紙」原島崇 )
8月12日
 宗門、細井日達管長、再び妙縁寺に下向。浅井甚兵衛講頭・昭衛本部長に「大日蓮」への訓諭訂正の発表不可能を告げ、創価学会と妙信講の討論を要請
「先日の約束は取り消します。もう私にはどうにもならない」、「あなたが学会代表と話し合って、解決して下さい」と。
「『解釈文を出されるのは結構だが、その内容によっては大変なことになる』などと陳情し、圧力をかけた。そして一ヵ月ばかりのやり取りの後、結局、解釈文を出させないことにしてしまった。そのかわり、創価学会側と妙信講とで直接話し合え、ということになり、正本堂落慶式を前にして九月初めから九月三十日までの間に、実に七回にわたり、両者が対決して激論を交わすことになった」(「盗聴教団」山崎正友 )
8月16日
 宗門、細井日達管長。「猊下妙縁寺に御下向御指南給う、訓諭はやはり御本意にあらず、一死を賭して最後の御奉公貫かん」とした記事掲載の「冨士」8月号(第108号)の回収を命ずる、管長名義の書状が妙信講に到着。
8月18日
 宗門、大石寺内事部。全国教師に「冨士」8月号の記事を否定する旨通達。
(※ 宗務院が機能停止のため )
8月26日
 妙信講、8月度総幹部会開催(豊島振興会館)、「9月は大折伏の月」
 浅井昭衛本部長、池田大作会長に書状提出。正本堂の誑惑訂正と、不信の来賓を正本堂に入れぬことを、書面で申し入れた。
「万一にも御遺命を詐ったまま一分の回心無く、敢えて御遷座を強行するとならば … 妙信講は護法の故に之を阻止、只一死を賭して在家の本分に殉ずるのみであります」
8月29日
 宗門、大石寺内事部。「冨士」8月号の回収について、妙信講に重ねて要請。
8月 日
 妙信講、「冨士」編集後記。
「◇ 本部直属一千五百の男子青年部は、いついかなる時でも先生の命下るならば、すべてを投げ打って先生のもとに馳せ参ずると、鋼のごとき堅い決意をみなぎらせている」(「冨士」第109号 )
8月29日
 妙信講、浅井昭衛本部長。池田大作会長との対論を求め、創価学会に重ねて書状を急送。
 その趣旨は次の三点である。
 一、直ちに誑惑の訂正を公表し、正本堂の意義を如法に正すこと。
 二、来賓を招くとも、不信・謗法の輩は正本堂の中に入れぬこと。
 三、訂正がなされぬうちは、断じて戒壇の大御本尊の御遷座をしないこと。
(※ 「妙信講と対論せよ」との細井日達管長の要請に、創価学会はこれを無視。正本堂落慶式はすでに、一ヶ月余に迫っていた )
9月5日
 宗門、「大日蓮」。「妙信講機関誌『冨士』八月号の御法主上人猊下と浅井氏の面談記事について」の記事を掲載、「冨士」8月号の内容を否定。
9月6日  創価学会、妙信講との論判を受諾。和泉覚理事長の名で、「猊下の御指示のとおり、整然と話し合いたいと望んでおります」と。
9月6日
 宗門、大石寺内事部。妙信講、創価学会の両者に対し、討論の要旨を通知。
9月13~28日
 妙信講、創価学会と常泉寺にて論判開始。妙信講代表は浅井甚兵衛講頭、浅井昭衛本部長。創価学会代表は秋谷栄之助副会長、原島嵩教学部長、山崎正友顧問弁護士。これより7回にわたり討論。
 山崎謀略師団、この論判も盗聴。発信機を仕掛けたアタッシュケースを会場に持ち込み、隣家の学会員宅に集まった配下の広野輝夫、竹岡誠治のほか、学会弁護士の桐ヶ谷章・八尋頼雄、現職検事の神崎武法らが受信・録音。
「私たちの発言にきわめてまずいことがあればチェックし、途中で僧侶に頼んで会場にメモを入れて注意を喚起するという役割のほかに、対談内容を分析して、その夜、私たちとの打ち合わせの席で、問題点を指摘する、などの役割を担当していた。一日たてば、テープから速記録が起こされ、私たちの手元に届けられて、次の戦いの準備に役立った」(「盗聴教団」山崎正友 )
 創価学会側は時間切れを狙って論議を延し、一人が詰まれば他の二人が口を出し、形勢不利とみれば時間を理由に論議を打ち切ることもしばしば、激論のすえ双方が「これで決裂」とする局面もあった。
「会談は、双方、自分の主張を繰り返して譲らず、ついに秋谷栄之助が憤然と立ち、『よし、もうこれ以上話しても無駄だ。実力で決着をつけるということなら、創価学会青年部は受けて立つ。阻止できるならしてみろ。次は、総本山で会おう!!』と宣言した。売り言葉に買い言葉で、浅井昭衛らも『やりましょう! やりましょう! 大いに結構だ!』と席を立ちかけた。…
 そこで、私が、当面の妥協案を提案した。… 浅井昭衛は、『たしかに、広宣流布はまだまだ先であるから、御遺命の達成ではないという.ことをはっきりさせること。そして、創価学会の方で既成事実を積み重ねるような"正本堂が御遺命の戒壇である"という発言や指導を絶対にしないこと。そのことをきちんとした形の上で示し、今後、妙信講と国立戒壇の是非を論じていくというのであれは、今日のところはそれで結構だ』と答えた」(「あの頃のこと」山崎正友 「慧妙」2001年8月1日号 )
(※ 浅井昭衛本部長は、「ついに決着がつきました。御遺命の正義は守られました」と講員に報告したが、「国立戒壇の是非を論じていく」という重要な"約定"については講員に隠した。櫻川 忠 )
9月28日
 宗門、柿沼広澄師(日明)、早瀬道應師(日慈)、千種法輝師(日健)、能化となる。
9月28日  創価学会、「聖数新聞」紙上に訂正を誓う。
 決着の内容は、「御報告」として書面で宗門に提出された。
「内事部の通達にもとづいて、創価学会及び妙信講は、去る九月十三日以来、会談をつづけましたが、ここにそのご報告をいたします。
           記
 一、 三大秘法抄、一期弘法抄の解釈については、双方に見解の相違があり一致するに至らなかったので、今後折をみて更に誠意を持って話し合う。
 二、 広布達成、御遺命達成の如何については創価学会機関紙上に、未来にわたることである旨を明記した論文(但し一、の点については双方の意見の相違を考慮してふれない)を掲載する。
 三、 正本堂の落慶に伴う儀式については、総本山の儀式であり、信徒としては干渉しない。
 四、 この会議の内容については一切公表しない。
 五、 今後双方一致して広宣流布をめざして戦う。
 以上の通りでございますので、総本山におかれましても私共の意中をおくみ戴き宜しくお取りはからい下さいますようお願い申し上げます」
9月29日  田中角榮首相、中華人民共和国訪問、日中共同声明。田中首相と周恩来首相との間で、「日中国交正常化に関する合意文書」に調印。
 日本は、中華人民共和国を中国唯一の合法政権であることを承認し、満州事変以来の両国の不正常な状態の終結と外交関係の樹立を宣言し、中国側は対日賠償請求権を放棄した。これによって、断絶していた両国の国交が回復された。日本は日華平和条約を破棄し、中華民国(台湾政府)と断交した。
9月30日
 妙信講、臨時総幹部会開催(豊島振興会館)、「御遺命守護の御奉公遂に貫かれる
 浅井昭衛本部長「大聖人様の一期の御遺命が曲るか正されるか、この決着がつかなくておめおめと他の事が出来るであろうか。この歪曲が糺され正義がつらぬかれなければ、十月から先の妙信講はありえないと考えていた。…
 この正義がつらぬかれるかどうか、私にもわからなかった。しかし、一昨日 28日、ついに決着がつきました。御遺命の正義は守られました。妙信講の御奉公はついに貫き通されました。…
 一朝ことあらばと、文字通り命を預けてくれた男子部一千五百のまごころを、私は生涯忘れない」と述べ、論判の決着と創価学会が訂正を誓ったことを報告した。
 浅井甚兵衛講頭・昭衛本部長を信頼し、正本堂問題の行く末を注視して来た講員は、「御遺命の正義は守られました」の一語に涙した。
「妙信講は御遺命守護の御奉公に、やむなしとは云え分に過ぎたることを申し上げてきた。御遺命の正義がつらぬかれたならば、他に求める何ものもない。妙信講は再び地にもぐり、野武士として不開門が開くまで、身を捨てて斗っていく。妙信講には栄光の二字はない」(「冨士」第110号 )
9月 日
 妙信講、「冨士」編集後記。
「◇ 思えば九月十三日以来、浅井先生の相は変っておられた。近づき難いほどの厳しさに、まさに御遺命守護の大詰め、まさに最後だ、予断は全くゆるさないのだ … 一日々々が、かくも深くきざまれたことはなかった」(「冨士」第110号 )
10月1日
 宗門、正本堂落成慶讃大法要に先立ち、正本堂完工式を営む。
 池田大作会長、「宗教的権威を象徴する殿堂ではなく… 人類の恒久平和と世界文化の健全なる進歩・発展を祈願する殿堂」と。
「宗門・学会・法華講・海外の日蓮正宗メンバー、設計・工事関係者、国内外の来賓や報道陣など合計約六千人が参列。猊下の大導師で読経・唱題したあと、建設共同企業体から正本堂建設委員会、そして猊下へと、正本堂の引き渡し、御供養の儀式が行われる。
 この完工式に学会の招待で、ローマ法王庁特命全権大使ブルーノ・ヴェステンベルグ大司教とデュモリン神父が列席。ヴェステンベルグ氏は「昨日、正本堂完工式に出席できましたことは、デュモリン神父および私自身にとりまして非常な喜びであり、また名誉でありました」とのメッセージを残す」(「正本堂の詩」聖教新聞社 )
10月1日  創価学会、「大白蓮華」10月号発行。井上光央副教学部長、「万年救護の本尊について」掲載。日蓮正宗・保田妙本寺の"万年救護本尊こそ大聖人の出世の本懐"とする説を破折。
10月3日  創価学会、聖教新聞に「正本堂の意義について」の訂正記事を、和泉理事長名で約束通り掲載。
「大聖人の仏法は本因妙の仏法である。全民衆を救おうとの大聖人の大精神に立つならば、現在は広宣流布の一歩にすぎない。したがって、正本堂は猶未だ三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇の完結ではない。故に正本堂建立をもって、なにもかも完成したように思い、御遺命は達成されてしまったとか、広宣流布は達成されたなどと言うことは誤りであるまた、この正本堂には信心強盛の人のみがここには集いきたり、御開扉を願う資格がある。したがって、正本堂は広宣流布のその日まで信徒に限って内拝を許されることはいうまでもない」
「『正本堂は、いまだ御遺命の戒壇の完結ではない』というのが重要な部分です。このうち『の完結』の三文字を入れるか入れないか、最後の争点となりました。浅井氏は、先生を思う私たちの一念を感じ、『の完結』を入れることに同意したのです。会長談話を要求してきたのですが、それも理事長談話に落ち着いたのです。この三文字を入れるか入れないかでは、まったくちがうのです。正本堂が御遺命の戒壇ではないとすれば、これまでの学会の主張は音を立てて崩壊するからです。そのとき、たとえ敵対関係にあるとはいえ、"信義には信義゛"礼には礼゛であり、私たちは感謝しました。ここで悪戦苦闘の末・合意点に達し、死んでも正本堂の儀式を阻止しようとする妙信講との"流血の惨事゛は何とか食いとめることができたのです」(「池田大作先生への手紙」原島嵩著 )
10月4日
 宗門、大日蓮編集室。妙信講に対し、不当記事の取り消しと陳謝を表明。
お詫び 本誌八月号に掲載の『妙信講機関紙「冨士」八月号の御法主上人猊下と浅井氏の面談記事について』の記事は、編集室として、内事部の意向を正確に伝え得ず、穏当を欠く表現がありましたので、これを取り消し、ここに内事部と妙信講に御迷惑をおかけしたことをお詫びいたします」
10月7日
 宗門、大御本尊御遷座お練り奉修。
「大御本尊を奉安殿から正本堂に御遷座申し上げる折のことである。日達上人より私一人が呼ばれ、次のようなお話があった。"実は、正本堂建立の功績を永遠に留めるために、大御本尊のお厨子の中に池田先生のお名前を刻みました。日蓮正宗の外護と発展に尽くされた池田先生の大功労を、万年まで伝えます"とのお言葉であった。…
 池田氏は『大御本尊の最も近い場所に私の名前が刻まれている。日顕以下の坊主どもは、毎日、私の名前を拝んでいるのだ。どうだ、凄いだろう』と自慢したわけだ。池田氏は、同じ正本堂内の大前机に裸で寝そべる自分のカラーレリーフを据えつけて法主以下の僧侶に拝ませては、一人悦に入っていた」(「諸君!」内藤国夫 1994年1月号 )
「このことが妙信講の耳に入った場合を恐れてか、10月7日の戒壇御本尊遷座は、かなり密やかに行われていた。この時のことは、末端の創価学会員だった筆者にもある記憶がある。"御遷座は午後1時か2時、その時間に家にいる会員は唱題するように"と云われていた。ところが当日の朝、幹部から電話があって、"どこかの妨害があるといけないので、… 早くなったからその時間にあわせて唱題しろ"というのだった。怪冴な思いをした記憶がある」(「冨士大石寺顕正会」下山正恕 )
11~17日
 宗門、正本堂落成慶讃大法要。
10月11日
 宗門、大御本尊御遷座御遷座大法要、正本堂で初御開扉。
 細井日達管長、「今後、この正本堂において、永久にこの戒壇の御本尊様の御開扉をして信徒皆様の即身成仏、現当二世の大願を祈願し、世界平和の祈願の大殿堂とすることに決定した次第でございます」
「それでも、池田大作は、万一のことに備えて、日達上人をせかし、大御本尊の御遷座を、予定した日の2日前に、総本山に居合わせた幹部達だけが供奉する中で、そそくさと行なった。私もその中の一人として、大御本尊を支える榛の一端を肩に乗せながら、参加させていただいたが、何とも言えない気分であった」(「あの頃のこと」山崎正友「慧妙」2001年8月1日号 )
10月11日
 妙信講、浅井昭衛本部長、「冨士」巻頭言「御遺命ついに曲らず
「事きわまって大聖人の御裁断は此処に下り給うた。大御本尊御遷座の九日前・九月二十八日ついに決着、ゆえに十月三日の聖教新聞の公式声明に云く「云々」と。また不信・謗法の来賓数千も大御本尊の御座所をついに踏み奉らず。御遺命の正義・本宗七百年の伝統は辛じて此処に死守せられた。
 これに至る経過、まさしく御本仏大聖人の御加庇なくしては、と思えば両眼滝のごとし。今は静かにその誠意を見守らせて頂く。もし不実ならばすでに仏天これを許さず、自らその身を亡ぼすのみ。
 而して一国広宣流布は未だおわらず、御遺命の事の戒壇は未だ立たず。御遺命の正義守護せらるれば、いよいよその達成に身を捨てるべきである。妙信講はその大法戦場に向って新たなる前進を開始する。 十月十一日」(「冨士」第110号 )
10月12日
 宗門、正本堂落慶大法要。
 池田大作会長の「慶讃の辞」には、「御遺命の本門戒壇」も「宗門七百年の悲願」も「仏教三千年史上空前の偉業」も「久遠元初以来の壮挙」もなかった。
「妙壇は夫れ正本堂の中心にして則ち一宗一山の根本大道場たる処なり。その大屋根は現代技術の最高峰をゆくサスペンション構造を採用し、リーマン多様体(マニフォード)四次元宇宙の形相構造にさも似たり。其の頂は一際高くして法華独妙醍醐の正主此処にましますを示し、高さ六十六メートルの頂上は法灯連綿六十六世を寿ぎ表わすものにして、華麗悠々・姿は鶴翼広く虚空を舞い羽ばたく様に相似たり。… 
 凡そ世俗の大業は、此れ全て東奔西走に事始まり、概ね大建築を完遂して栄えの幕を閉ずるなり。心すべき事にこそ。… 史例を徴せばオリンポスの栄華、バビロンの神殿も既に空しく、三国権迹の諸堂宇・亦人影絶えて瓦礫の土と化す。我等若し殿堂眼前の美麗に酔いて、此の荘厳に驕らば如何がせん。…
 然れ共、信受の人未だ天下一同の義数に満たず、此れを以って省れば大願未だ達せず広宣流布は未来に在り」(「正本堂の詩 落慶式典記録」聖教新聞社 )
10月12日  創価学会、池田大作会長。側近の福島源次郎氏に命じ、落慶式の後 下山するバス車中の創価学会員に、「本日、七百年前の日蓮大聖人の御遺命が達成されました」とのメッセージを伝えさせた。
「ところが、法要が終わってから、ある一件が起きたのです。下山のバスの乗客に池田先生のご伝言が伝えられました。『本日、七百年前の日蓮大聖人の御遺命が達成されました。ありがとう』。私は、それをいちはやく聞くやすぐに手を打つことを考えました。… 私も若気のいたりで、真剣さのあまり少々感情が高ぶっていました。先生の伝言をそのまま伝えたのはある首脳でした。私は、その人に責任をとれといいました。しかし、そのことが池田先生の逆鱗にふれてしまいました。雪山坊の一階ロビーで『責任をとれとは何だ! 正本堂は御遺命の戒壇ではないのか!』等々、烈火のような先生の怒りは周りの人々にさえ恐怖感をいだかせたようです」(「池田先生への手紙」原島嵩 )
「このようにして、何とか、法義上の体面はかろうじて守れたが、しかし、いったん白けた気分はどうしようもない。来賓も、当初プチ上げたような大物の顔は並べられなかったし、一般マスコミの扱いは極めてさりげなく、冷淡で、扱いも小さかった。…
 池田大作は、表向き元気に機嫌よく装い振る舞ってみたものの、内心の不満と憤懣を抑えきれない様子だった。行事の合間に、池田大作は、何を思ったか、福島源次郎氏らを呼び、 『皆さん、本日をもって大聖人の御遺命は達成されました。ありがとう』と、バスで下山していく会員達にメッセージとして伝えさせた。
 原島嵩氏がこれを耳にして、福島原次郎氏をつかまえ、血相を変えて、『やっと妙信講をなだめ、押さえられたというのに、そんなことをしては、明らかに違約になり、耳に入ったら、浅井父子らが騒ぎ出すぞ。何でそんな無責任なことを言うのか』と問い詰め、謝らせた。
 その夜、池田大作は、原島嵩氏と私を呼びつけ、首脳達の前で総括した。『俺が指図して福島にやらせたのだが、文句があるのか!!』。原島高氏が二言三言言いかけると、『お前らは、一寸手柄を立てたと思って艮い気になるな!! 増長するな!! 俺は、妙信講なんか怖くも何ともない。来れるなら来てみろ!!』と怒りちらした。十日前、妙信講との最後の対決から、私たちが帰るのをそわそわして待ち、『何とか話がついた』と聞いて胸をなで下ろした十日前とは、打ってかわった虚勢であった。原島嵩氏も私も、黙って頭を下げるしかなかったが、何とも情けなかった」(「あの頃のこと」山崎正友 「慧妙」2003年4月1日号 )
10月13日
 妙信講、「妙信講一万世帯達成奉告文」
「而して本日の此の嘉き日に、仏祖三宝様に妙信講の再建以来の誓願一万世帯の弘通達成の御奉告を為し得ますこと、講員一同の喜こびこれに過ぐるものはございません。
 いかなることか三千達成の頃より、此の微弱の妙信講にも前途を阻む魔障紛然として競いおこり、まさに講中の命運も此処に尽きるかと思うばかりで御座いました。…
 思えば正系門家七百年の歴史に曾って見ぬあの謗法同座の聖人展、更に重大なる本門戒壇の御遺命の歪曲、まさに御本仏一期の御遺命の政治の濁流によって曲げられんとした時、その仏法の相異は御金言に照らして明々白々なるも、非力の我等には如何ともし難く、ただ身の仏法中怨の責めに当るを恐れ、因っておこる国土の衰乱を嘆くのみでございました。然るに事極まりて遂に御本仏の御裁断は下り給い、此処に御法主上人の御本意、宗門七百年の正義と伝統を辛うじて守護し得ましたこと只々感泣の他はございません。
 然し乍ら伏して御仏意を拝し奉るに、なお深く恐れを感ぜざるを得ません、歪曲は辛うじて訂正されるとも御遺命の国立戒壇は未だ建立されず、而もその声、全く一国に絶えております。されば大聖人の御遺命を奉じ、我等法華講衆の末流として本日より誓いを新たにし、「未だ広宣流布せざる間は身命を捨てて随力弘通を致すべきこと」の遺誠を胸に死身弘法を堅く誓い奉るものであります。
 願わくば御本仏大聖人哀憫納受を垂れ給い、我等弘通の誓願を容れ給い御守護を賜わらんこと、恐々として願い奉るものであります」(「富士」第113号 )
10月17日
 宗門、正本堂記念品埋納大法要。池田大作会長の「慶讃の辞」やモーニング等々の記念品を、妙壇の基底部に格納。
 池田大作会長、「この部屋は...第1回は今日より7百年後、第2回は3千年後、そして第3回は1万年後に開かれる」と。
10月22日
 妙信講、第15回総会開催(渋谷公会堂)、「国立戒壇こそ世界平和の鍵
 松本日仁能化より祝電「皆様の一致団結の力により、御遺命守護貫徹と新たなる妙信講の船出の総会を祝福し、広宣流布達成の為各位の奮起を祈る」
 浅井昭衛本部長「七百年の宗門の大事な時、大聖人の御遺命のまさに曲げられんとする時、宗門の中でその正義を守るために発言をするその資格を、妙信講は大聖人様より与えられていたのであります。… だが非力の妙信講になにが出来ましょう、しかるに大聖人様の御守護を給わり、その御裁断により去る九月二十八日遂に決着、七百年来の御遺命の正義・本宗の伝統を辛じて死守することが出来たのであります。而して、今は静かにその誠意を見守らせて頂く、もしその誠意が不実であるならば、すでに大聖人様がお許しになるはずはありません。
 そして此処に思うことは、たとえ御遺命の正義は守られても、守られただけでは達成できないという事であります。まさしく御遺命の正義を守った者こそ、その達成に身を捨てるべき義務と責任がある。されば本日のこの総会こそ、妙信講の過去十五年の悪戦苦斗の歴史をしめくくり、その一万世帯の弘通と御遺命守護の御奉公により、ここに新たに大聖人様より御命令を給わり、いよいよ妙信講が一国広宣流布・国立戒壇建立への大法戦場に堂々と出陣する儀式であると、強く強く確信するものであります。…
 ここに末法濁悪・事の広宣流布の前夜、一国の前途に只ならぬものを感ずる時、十五年の試練に堪えぬき御遺命を守った妙信講こそ、目師様の露払い・諫暁団体として毅然と立たねばならぬ使命がある。私は確信します。もし国に十万の捨身の法華講衆あれば一国は必ず動く。また、たとえ非力にして事ならず途上斃れるとも、必ず骨は時の御法主上人がひろって下さるに違いないと確信しております。… されば妙信講たとえ途上に斃るるとも、何の憂える所がありましょう。ただ目師様御出現の露払い、本化国主の王路を開く斗いをするのみであります。…
 然らば、この十万世帯をいつまでに達成すべきか。今まで漠然としていたが、本日はっきりと申し上げる。… 次の80年代こそますます濁悪は深まり、末法濁悪もその直中、真中の年代と思われる。しかもその80年代の初め1981年即ち昭和56年は宗祖日連大聖人御入減七百年の歳にあたる。… あと九ヶ年、この時までに一国諫暁の十万世帯、断して達成しようと思うがいかがでしょうか。(大拍手)」(「冨士」第111号 )
10月26日
 妙信講、10月度総幹部会開催(妙縁寺)、「さあ十万世帯への第一歩」
 浅井昭衛本部長「妙信講は、宗門のことに於ても七千達成までは発言をしなかった。そこに今、一国諫暁の発言資格には十万世帯の弘通がなければならない。そこで今月から、この十万世帯の大法弘通の実践にとりかかっていく。斗う法華講衆、あの熱原の方々の血潮をくむ、流れをくむ私達が、いよいよ一国広布への前進である。肚をすえて折伏に猛進しようではないか。
 私は、この両三年。ことに本年は、御遺命守護のことで頭がいっばいで、講中のことを顧みるいとまがなかった。だが十五回総会をおえた今、心に決したことは「よしっ、これからは講中の事に真剣に取り組もう」ということであった」
 十万への第一布石として、全支部の総班を改称し、新たに「支区」制を布き、8個支部のもと37支区の陣容となった。また、整理班を整理部と改組した。(「冨士」第110号 )
11月2日  創価学会、日本武道館で第35回本部総会開催。
 池田大作会長「創価学会は生命論に始まり、生命論に終わるといってよい。すなわち、戸田前会長のあの獄中での悟達に、創価学会の原点があったのであります」と、73年を出発点として教学の充実、新しい理論構築、高度な言論活動を展開することを表明。
(※ "学会万代路線"の実質的な出発点となる )
11月7日 「週刊サンケイ」、特別増刊号「世界一を誇る正本堂のすべて」発売。特別付録に新聞紙大カラーポスターと、細井日達管長の唱導による読経、池田大作会長の挨拶を録音したソノシートが付く。
11月11日  創価学会、民音職員・松本勝彌、「正本堂御供養金返還請求」訴訟を東京地方裁判所に起こす。
「民音の職員で男子部部隊長であった松本勝彌が、東洋物産の社員や学会幹部十数名とかたらって、千葉県保田・妙本寺に接近し、同寺の"万年救護の本尊こそ本物の大御本尊で大石寺の板本尊は二セモノである"として、分派行動を始めた。…
 松本勝彌は、後に、『週刊ポスト』誌上において、池田大作の私生活や、外郭会社の実態を、本部職員としてはじめて暴露する内部告発を行ない(「蓮悟空」のペンネームで行なった)、さらに学会に対し、数人で正本堂御供養金返還訴訟を起こした。その他にも、組織のあちこちで不穏な動きをする人物が出てきたし、また学会本部職員や創価学園教師の中にも、造反的態度の者が現われた。
 こうした造反対策のため、私が担当者に指名され、あらゆる手段を用いて鎮圧にあたったのである。… 造反者対策については、私の下に、情報師団・謀略師団を作り、電話盗聴をはじめ、あらゆる手段を用いて鎮圧に当たった」(「あの頃のこと」山崎正友 「慧妙」2003年5月1日号 )
11月 日  創価学会、聖教新聞紙上で松本勝彌夫妻の日蓮正宗宗門除名と、創価学会除名を発表。
11月 日
 宗門、地方末寺。妙信講員に対する御授戒拒否頻発。
11月28日
 妙信講、11月度総幹部会開催(豊島公会堂)。「宿願一万世帯、遂に十一月で突破」、11月度折伏成果 166世帯、総世帯数は 10,023世帯となった。
 浅井昭衛本部長「今、十五年の妙信講の歴史をふりかえって、その底に流れる行動理念とはなんであったか。たとえば企業の行動原理は利潤の追求であり、政党の行動原理は政権獲得にある。
 しからば妙信講の行動の原理はなんであったか、それは"大聖人様の御眼を恐れる"これ一つであります。… 過去もそうであったように、広宣流布の暁まで妙信講は『大聖人様の御眼を恐れる』、これを基本原理として更に強力な斗いを進めてまいります。…
 妙信講はここにいよいよ堅固な団結をはかり、やがて時が来て御出現になられる日目上人、そして本化国主出現の露払いとして、九年後十万をめざして強力なる斗いを起さねばと決意するものであります」(「冨士」第112号 )
11月 日
 妙信講、「冨士」編集後記。
「◇ まさに今の妙信講員こそ、嵐の中に船出した再建妙信講の精神を身に味わったものとして、この事を未来に語り伝える権利と義務があるのだと深く思うのである。そしてまたこの正念場の年にめぐり合せ、講頭先生・浅井先生に師事することの出来た我が身の、言葉に尽せぬ福運も加えねばなるまい(白石)」(「冨士」第112号 )
(※ 小生は、白石秀一研修部長(青年部参謀、研修部長、総務を歴任)に格別に目をかけていただき、当時しばしば音羽の本部に呼ばれ話を伺った。いま「顕正会年表」を作成していて、思いがけず「未来に語り伝えよ」の言葉に接し、その篤実な面影が瞼に浮かんだ。櫻川 忠 )
12月10日  第33回衆議院選挙、公明党は言論出版妨害事件の影響もあり、前回より18議席減らし29議席まで落ち込んだ。
「創価学会が、なりふりかまわず総力をあげて選挙運動をしなければ、公明党は成り立たないことを、この選挙は、はっきりと証明した。『このままでは、公明党はつぶれる。そうなると創価学会もつぶれる』、こう見極めた池田大作は、創価学会首脳に、秘かに"政教一致路線"への回帰を宣言した。そして昭和48年以降・最小限、表向きの"分離"のゼスチャーは維持しつつ、公明党の選挙も人事も、そして路線も、池田大作が直接指揮し、統制する方向へ逆もどりさせた」(「池田大作日本経済乗っ取りの野望」山崎正友 )
12月10日
 妙信講、妙縁寺で御会式厳修。参加者全員に「一万達成記念の盃」が配布された。
 浅井甚兵衛講頭「一万世帯達成奉告文」奉読、「まさに御本仏一期の御遺命の政治の濁流によって曲げられんとした時、その仏法の相違は御金言に照らして明々白々なるも、非力の我等には如何ともし難く、ただ身の仏法中怨の責めに当るを恐れ、因っておこる国土の衰乱を嘆くのみでございました。然るに事極まりて遂に御本仏の御裁断は下り給い、此処に御法主上人の御本意、宗門七百年の正義と伝統を辛うじて守護し得ましたこと、只々感泣の他はございません」(「冨士」第113号 )
12月23日
 宗門、鎌倉寛全師(日櫻)能化となる。
12月23日
 妙信講、12月度総幹部会開催(妙縁寺)。「いよいよ地方折伏の布石」
 浅井昭衛本部長「妙信講は今まで東京だけを主体に置いていましたが、来年から一国広宣流布の斗いを全国各地にひろげるために地方の拠点を大事にしていく …
 すでに時は来たのです。全国いたるところで必ずや妙信講の折伏を待っているに違いない。… 若しその地に三十人の同志が集まるようになったなら、私はたとえ北海道であれ九州であれ、どんなところでも必ず出席いたします。…
 来年からいよいよ大きな斗いをする。その出発に教学を真剣にとりくんでいく。願うことならば、全幹部が研修部員になってもらいたい。又研修部員は全部、三級に昇格してもらいたい。教学をおざなりにしては、広宣流布は夢物語となる
 本部辞令:鈴木志郎 整理部長に、星修一 整理部主任に任ずる。
 妙信講全国分布図(「冨士」第113号 )
12月26/27日
 妙信講、研修部会。「開目抄」講義終講。
12月末  創価学会、池田大作会長。山崎正友に直接、機密費を渡し始める。
「私が記憶しているかぎりで、最初、池田大作から直接金をもらったのは、昭和47年の末である。当時、全国的に、"正本堂御供養金返還運動"を起こしかけていた"創対連"(創価学会対策連絡協議会)の幹部を買収するため、池田大作は私を呼んだ。…
 私の計画を聞くと中西治雄氏を呼び、「金庫から例のやつを …」といい、中西氏は風呂敷につつんだ500万円の札束を持ってきて、池田大作の指し図で私に手渡した。… この500万円で、私は、創対連の稲垣和雄、梅沢某、徳田賀一、小池某らを買収し、組織を崩壊させるとともに、彼らを手先として、これまで彼らを裏であやつっていた新宗連や立正佼成会攻撃を行なったのである。…
 昭和47年までは、私の師団の電話盗聴等、裏の活動の機密費は、北条浩氏から、公明党の選挙の際の陣中見舞をピンハネした金などから与えられていたが、この頃から、池田大作からも直接手渡されるようになった。その後も、日蓮正宗対策や、「月刊ペン」事件裏工作のための交際費等、折にふれて池田大作から渡された。』(「池田大作 日本経済乗っ取りの野望」山崎正友 )
 

                前年   一覧    翌年