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              御遺命守護年表
昭和三十二年    _
四月二十二日  創価学会、「大阪事件」。参議院大阪補欠選挙の前日、候補者名を書いたタバコと候補者の名刺を添付した百円札を、創価学会員がばらまいた。「残念なことに、それが行われたことはまぎれもない事実である。しかも、三、四十名の大量会員が計画的に行った」(池田大作著、『人間革命』 第十一巻)と。
四月二十八日  宗門、保田妙本寺帰入奉告法要。戸田会長、その席で「岸君が総裁選挙をやった時に、どうか頼むと言ったのだ。御本尊様へ」、「しかるに石橋君が七票で勝った」、「彼が、身延の権大僧正の衣を貰った時に、私は、これはあぶないと思った」、「このまま彼が総理をつとめれば、日本の国に災いがある。彼が病気で倒れたのは、それから三日目だ。そうして、岸君が総理の位置についた」と。
六月一日  創価学会、「大白蓮華」 六月号。戸田会長、巻頭言にて「国立戒壇建立こそ遣使還告の役目であり、地涌の菩薩のなすべきことと自覚するならば、化他にわたる題目こそ、唯一無二の大事なことになるのではなかろうか。そこに折伏の意義があり、学会の使命がある」と。
七月二日  創価学会、小泉隆理事長。大阪府警に出頭、百円札バラまきによる買収を指示した容疑で、逮捕・勾留さる。
七月三日  創価学会、戸田会長。妙悟空の筆名で、小説『人間革命』を発刊。「日蓮正宗の潰れることを恐れて、なにになる!仏法の力によって、日本を栄えさせてこそ、大聖人はお喜びになる」、「総本山の安泰のみ願うのは、弟子の道ではない」と。
七月四日  創価学会、池田参謀室長。大阪参院補選の最高責任者として、大阪府警に出頭。戸別訪問教唆の疑いで、十五日間留置さる。後にこれを、七月三日と改竄し身を飾る。「大阪府警に出頭し逮捕された、昭和三十二年の七月三日を思い起していた。その日が、奇しくも、戸田城聖が二年間の獄中生活を終えて出獄してから、十二年後の同じ日であったことを思い返すと、戸田と自分とを結ぶ、不思議な運命の絆が痛感され、感動に胸が高鳴るのを覚えた」(池田大作著、『人間革命』 第十一巻)と。
七月十七日  創価学会、池田参謀室長。全面自供で釈放。後に石田氏、「拘置所入りして、二十一日間の拘留満期まで頑張り通さず、全面自供して十七日に出てきた。だから、この後しばらくは会内でもきわめて低姿勢を貫いて、『“全面自供しないと戸田先生を引っ張る”と言われ、そうなっては大変だから、自分があえて泥をかぶる形でケリを付けて出て来ました。法廷闘争で正義を述べて頑張ります』と言い訳していた。だが、正義のハズの法廷闘争から約二十人の有罪者が出たことは、ちっとも正義でなかったことを物語る」(石田次男著、『内外一致の妙法この在るべからざるもの』)と。
 龍氏、「池田は牢獄の中では、何故題目を唱えなかったのか?その理由は簡単です。彼には生死の境に題目をあげぬく、という信仰心がなかったのです。日蓮正宗の信者としての基本の朝晩の五座三座の勤行を、彼は若い時からやっていなかった」、「ある日、結婚して半年ぐらいの池田かねが、思いつめた表情で、戸田先生に質問していました。『主人(池田大作)は、朝晩の五座三座の勤行をしません。私がどんなにやかましく言っても、俺は特別なんだからやらなくてもいいんだ、と言うんです。本当に主人は、特別なんでしょうか。五座三座はやらなくても、いいんでしょうか』と。戸田先生は、びっくりした表情で、強度の近眼鏡の奥で眼を丸くされて、『ホホー、そんなことを言っているのか……』と言ったきり、二の句がつげない様子でした」(龍年光著、『有徳王』)と。
七月十七日  創価学会、大阪大会開催。(中之島中央公会堂) 戸田会長、「今度は、学会としては、事件を起こしまして、理事長や、参謀室長が、十日か十五日はいってきました」、「こんなバカなことをするかげには、なにかあると、私は思うのですけれども、どこだというわけには、まだいかないのだよ。そのうち、つかまえて、裏はこうだったということを教えますから、もう少し時間を私にかしてください」、「事件をおこした者たちが除名処分になっただけではすまされない気持ちだと、あなた(質問者)は言うが、除名処分以外に、なんの権利が、こっちにある。まさか、なぐりに行こうというわけにもいかないだろう。学会から除名するということは、これは恐ろしい事件なのです」、「新聞社なんていうのは、自分のつごうの悪いことは書かないよ。みんな、インチキばかり書いている」と。
七月二十九日  創価学会、参議院大阪区補選の公職選挙法違反容疑で、池田参謀室長ら幹部が起訴さる。起訴事由は、池田参謀室長らが大阪府下の約六万世帯の学会員を動員し、戸別訪問にあたらせたこと。この事件で最終的に、創価学会関係者、六十五名が起訴さる。後、昭和三十七年一月二十五日、池田会長は無罪。他の創価学会員ら二十人は、罰金・公民権停止等の有罪判決。
八月三日  妙信講、再建総会開催。(法道会) 法道院法華講から独立し、三百五十世帯の講員を以て、「日蓮正宗妙信講」として発足
八月二十八日  創価学会、本部幹部会。戸田会長、「今月の折伏の数がひじょうに多い。これは一面まことに喜ばしいことでありますが、半面またひじょうな憂いをもつものであります。それは、この多い入信者が、ほんとうに最後まで信心していけるかどうかという憂いであります」、「幹部の皆さんは、できるだけ会員の人たちの世話を懇切に指導してやって『信心してよかった』と、そういう信心の喜びを味わわせていただきたい」と。
九月六日  創価学会、聖教新聞に池田参謀室長の『遺誡置文講義』を掲載。「広宣流布の時には参議院議員、衆議院議員もいてさ。皆な財布の中には少くとも十万や二十万入れて、洋服も月賦じゃないの着てさ、一つ国会議事堂やプリンスホテルや帝国ホテルで会おうじゃないか。要所要所を全部ね、学会員で占めなかったら、広宣流布出来やしませんよ」と。
九月八日  創価学会、第四回東日本・体育大会。(横浜・三ツ沢競技場) 戸田会長、『原水爆禁止宣言』。「これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります。それをこの人間社会、たとえ一国が原子爆弾を使って勝ったとしても、勝者でも、それを使用したものは、ことごとく死刑にされねばならんということを、私は主張するものであります」と。
十月十九日  妙信講、第二回総会開催。(法道会)
十月十四日  宗門、第六十四代水谷日昇上人、御遷化。
十一月二十三日  宗門、第五十九代堀日亨上人、御遷化。
十二月十六日  創価学会、第六回男子部総会。池田参謀室長、「会長先生の御意思を体し、断じて、われわれは国立戒壇建立に、会長先生のもとに続いていかなければならない」と。
十二月二十五日  創価学会、七十六万五千世帯。
昭和三十三年   _
一月十五日  宗門、日淳上人猊下。浅井講頭等を本山に呼ばれ、再建 「妙信講」を御認証。「今まで法華講というのは墓檀家のように言われてきたが、法華講とは熱原の法華講衆を鑑として、戦う法華講となって御奉公しなさい。まず三千の弘通を成し遂げてごらんなさい」と。
一月二十五日  妙信講、第三回総会。(妙縁寺)
二月一日  創価学会、池田参謀室長。「広布途上の大講堂建設の意義」と題して、「われらが究極の目的である、国立戒壇建立に思いをいたすとき、さきの奉安殿の建立が広宣流布への第一実証を意味するならば、本門の大講堂の完成こそ、正しく広布実現への第二実証を示すものと確信するものである」(会長講演集 第四巻)と。
三月一日  宗門、総本山本門大講堂落成。創価学会の建立寄進による
三月一日  創価学会、青年部六千人が総登山。大講堂前で、『広宣流布の模擬試験』と称した記念式典を挙行。岸信介首相・不参加、戸田会長これに落胆。首相の代理として、首相夫人と令嬢・令息、娘婿の安倍晋太郎、南条徳男氏等が列席。
四月二日  創価学会、戸田会長、日大付属病院で急逝。日淳上人、大宣院法護日城大居士の戒名を授く。
四月三日  創価学会、本部幹部会。池田参謀室長、「迫撃の手をゆるめるな!」と題して、「どのように今度は会長先生に御恩返しをしたらばいいか」、「ただひとつ創価学会の目的である国立戒壇の建立、不開門を開いて、会長先生に、このように戦ってまいりましたという、御報告をする以外に、なにもない」と。
四月二十日  創価学会、青山葬儀場で戸田会長の学会葬。二十五万人が参列。
四月二十八日  妙信講、青年部結成式開催。(音羽・本部)
五月一日  創価学会、「大白蓮華」。池田参謀室長、「会長先生と青年部」と題して、「われわれ青年部は、いまこそ先生の御遺命となった国立戒壇建立に向かって、怒涛のごとく大進軍せねばならない」、「会長戸田城聖先生の遺弟として、われらの目的たる、信・行・学に励んで、各自の幸福を築き、さらに国立戒壇建立の大偉業を、りっぱに果そうではないか」と。
五月三日  創価学会、第十八回本部総会開催。原島理事、「われわれで、会長になりたいなどと考えているものは、それこそ一人もいない」、小泉理事長、「会長という職は当分おかないつもりであります」と。(「聖教新聞」、五月九日)
 「本部幹部会の空気は、会長代行の形で小泉が戸田体制を引継ぎ、そのあと和泉理事がワンポイントでつないで、戸田会長の七回忌法要のあと石田が三代会長に就任するというもの」(藤原行正著、『池田大作の素顔』)と。
五月十一日  妙信講、第四回総会。(妙縁寺)
五月十八日  創価学会、第一回男子部九州総会。池田参謀室長、「国立戒壇建立をもしかできなければ、日本の国は永久に属国とし、永久に日本民族は滅びる」、「国立戒壇を建立するならば、仏法の加護によって日本の国には原子爆弾は落ちなく、日本民族は必ず繁栄する」(会長講演集 第三巻)と。
六月三十日  創価学会、六月度本部幹部会。総務・庶務部・出版部を新設。池田参謀室長、新設の「総務」に就任。ただし、この時点での総務の権限は曖昧で、参謀室の昇格程度に周囲では了解されていた。
八月五日  妙信講、「講報」 第一号発刊。権勢にへつらうな、おもねるな、曲げて安易に住するな、ただ恐れるは仏の金言に違わん事のみそのほかに何が恐い」と。
九月一日  創価学会、「大白蓮華」 九月号。池田総務。「創価学会は、日本の国をとるのでもなければ、政治団体でもなければ、…あくまでも国立戒壇の建立が目的なのである」、「三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布、すなわち国立戒壇の建立が目的なのです」と。
十月三十一日  創価学会、百五万世帯。
十一月九日  創価学会、第十九回本部総会。
十二月七日  創価学会、第七回男子部総会。池田総務、「国立戒壇の建立は日蓮正宗の願望であり、また会長先生の、創価学会の目的でございます」、「国立戒壇は日本一国のものではない。大聖人様の仏法は一閻浮提総与の大御本尊様である。全世界にわたっての宗教であります。日本の国立戒壇の建立ということは、全世界の国立戒壇に通じていくと、私は信ずる」と。
昭和三十四年         _
一月一日  宗門、「大日蓮」 一月号。日淳上人猊下、「この元朝勤行とても、宗勢が発展した今日思いつきで執行されたというのでは勿論なく、二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて、国立戒壇を念願されての広宣流布祈願の勤行を伝えたものであります」と。
一月一日  創価学会、池田総務。『国立戒壇の建立と学会員の前途』と題し、「国立の戒壇建立は、全民衆の要望によって成就されるものであることを忘れてはならない」、「国立戒壇建立の際には、大御本尊様が奉安殿より正本堂へお出ましになることは必定」、「国立競技場・国立美術館・国立公園等もすべて国民の要望であり、国民のものである。宗教にあっても、最高の宗教が国民の幸福のために、国立戒壇として建立されることは必然」と。
一月一日  創価学会、『大白蓮華』 一月号。池田総務、「立宗ここに七百三年を過ぎ、仏命たる富士山に本門寺の戒壇の建立は未だならず。『時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり』の御予言こそ、残された唯一つの大偉業であり、事の戒壇の建立につきる。これを化儀の広宣流布と称し、国立戒壇の建立というのである」と。
三月十三日  妙信講、初の初級講習会開催。
四月二日  創価学会、池田総務。「会長先生の一周忌を迎えて」と題して、「三祖日目上人様の、老齢の御身をいとわず国家諌暁あそばされた、粛然・襟を正す御最後をしのび、広宣流布に向かって・国立戒壇に向かって、身命を惜しまず前進を続けなくてはならぬ」、「先生の墓前に、『勅使門が開きました。広宣流布が終わりました』と、御報告できる日を楽しみに」(会長講演集 第四巻)と。
四月五日  妙信講、「顕正新聞」 第一号発刊
五月三日  創価学会、第二十回本部総会。池田総務、「勝ってカブトの緒をしめよ」と題して、「大聖人様の至上命令である国立戒壇建立のためには、関所ともいうべき、どうしても通らなければならないのが創価学会の選挙なのでございます」と。(「大白蓮華」 六月号)
五月五日  妙信講、本部企画室を設置。浅井昭衛本部企画室長就任。
五月十日  妙信講、第五回総会。(妙縁寺) 九百世帯突破。
六月三十日  創価学会、池田総務が(総務のまま)理事に就任。その意味について、「石田を潰し先輩を抑え、自分一人が会長候補に残り、断然有利な態勢を構築した上、さらに三十四年六月三十日の機構改革で自派として育てゝ来た青年部を大躍進させることにより、事実上、創価学会を乗取ってしまった。この時の改革機構で池田は手下の北条浩、森田一哉、竜年光を引連れて理事になった」、「曖昧なまゝだった総務の権限を規定した。それは『理事長のもとに理事室を代表して、事務局及び各部を統括する』という驚くべきものであった。新米理事がいきなり、理事室を代表するというのだ」(武田了円著、『悪魔の邪望』)との指摘あり。
八月一日  創価学会、池田総務。「今後七年の戦い」と題して、「国立戒壇建立の関所ともいうべき、今度の参院選における大勝利」、「会長先生は、巻頭言に『国立戒壇の必要性を理解させるためには、一般大衆の支持を受け、言論界の理解を根本とすべき…』とおおせられていたではないか」(会長講演集 第四巻)と。
八月九日  創価学会、夏期講習会。池田総務、『創価学会の歴史と確信』と題して「御法主上人様の深い御構想で、やがては正本堂と、どういう名前になるかわかりませんが……そこへ奉安殿の御本尊様がおでましになるのです。そのときが広宣流布の姿、儀式なのです。そんなに遠くないような気もいたしますが、仏智はかりがたしです」と。
 この変節を捉えて、「先の一月一日の発言においては、正本堂へ大御本尊がお出ましになるのは『国立戒壇建立の時』と言っていたものを、ここでは逆に『正本堂へ大御本尊がおでましになる』その時が“広宣流布”との考えに変っている。そしてその時期も、「そんなに遠くないような気がする」と述べているのである。ここに創価学会における、戒壇建立の時期と条件に関する微妙な変化が看取される」(「正本堂に関する御指南の真意」)と、後に宗門が批判。
八月三十日  宗門、細井総監。自著、『日蓮本仏論』を刊行。
十月十八日  妙信講、嵐の中・青年部第一回結集大会開催。(板橋産業会館)
十月十五日  創価学会、学生部第一回弁論大会。池田総務、「三、四年前・立正佼成会の庭野日敬が、国会に招喚されていろいろ調べられたことがある。このとき会長先生は、ニッコリ笑って『こっちへくればちょうどいいな、このときこそ立正安国論叫びたい』と、申しておられました。大事なときに叫ぶことこそ、わたくしは本当の雄弁ではないかと思う」と。
十一月十日  妙信講、青年部を対象に御書の「学習会」を開始。
十一月十六日  宗門、日淳上人猊下。丑寅の刻に、細井総監に御相承。
十一月十六日  創価学会、小泉理事長・池田総務が日淳上人宅に呼ばれる。猊下、「今度常在寺に、あとをまかせることにしたから、よろしく」と。
十一月十七日  宗門、日淳上人猊下御遷化。
十二月二日  宗門、御座替り式を奉修。細井総監、第六十六代貫首に就任。
十二月二十三日  創価学会、百三十万世帯。
昭和三十五年         _
一月一日  猊下、宗内一般に『訓諭』。「日達先きに日淳上人より昭和三十四年十一月十六日丑寅の刻に血脈相承をうけ、十二月二日・日蓮正宗管長の職につき、総本山六十六世の法燈をつぐ」、「宜しく宗門の僧俗は一致して広宣流布の願行に徹して、克く開山上人以来の伝統を護持せねばならない」、「身口意三業を謹んで和衷協力・各自その分を尽くして宗門の願行たる戒壇建立に勇猛精進せられんことを」と。
一月一日  宗門、「大日蓮」 一月号。猊下、「日蓮正宗の僧俗は、共々一致協力して、真の世界平和は国立戒壇の建設にありと確信して、本年も益々折伏行に徹底邁進せられんことを願う」と。
一月一日  創価学会、「大白蓮華」 一月号。猊下、「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命であり、本誌大白蓮華の使命であることを忘れてはならない」と。
三月十日  創価学会、男子青年部。約千名が鼓笛隊を先頭に気勢を上げ、身延山久遠寺に威勢行動。
三月十五日  妙信講、初級講習会開催。
四月二日  創価学会、戸田第二代会長の三回忌法要。(大石寺)
四月十日  宗門、第六十六代日達上人御座替り慶賛奉告大法要。二十一日まで。
四月十九日  創価学会、池田総務の第三代会長就任を決定。池田会長、「願わくは、早く次の偉大なる会長にバトンを渡すまで、しっかりがんばっていきたい」、「私にはなんの力もありません。なんの確信もない私でありますけれども、そういう先生方に守られ、そういう先生方を信じきって」、「あくまでも学会員の小使いみたいな立場でいかねば、いけないことも知っております」、「変わったことはなんにもありませんし、変わることもありません。いままでと同じような気持ちで、いままでと同じように」と。
五月三日  創価学会、第二十二回本部総会。池田第三代会長の就任式挙行。池田会長、「申すまでもなくわが創価学会は、日蓮正宗の信徒の団体であります。したがって、私どもは大御本尊様にお仕え申し上げ、御法主上人猊下に御奉公申し上げることが学会の根本精神であると信じます」、「恩師である戸田城聖先生の、総本山に忠誠を尽くされたその心を心として今、私は全学会員を代表して日達上人猊下により以上の御忠誠を誓うものでございます」と。
五月  創価学会、百四十万世帯。
五月二十九日  妙信講、第六回総会開催。(山口ホール)
六月一日  創価学会、「大白蓮華」 百九号。池田会長、「化儀の広宣流布とは、国立戒壇建立のことである。大御本尊様の御図顕によって、化法の広宣流布がなされ、一閻浮提の一切衆生の信行の中心道場であり、依所依託となるべき国立戒壇建立が、大聖人様御入滅後の弟子に残されたのである」、「この日蓮大聖人の仏法のすべて、国立戒壇論も、第二十六世日寛上人によって、教義上完全になった」と。
 『戒壇の研究』と題する記事では、「今日の戦の仕上げは、戒の流布、すなわち、国立戒壇の実現であると決定された。ここに初めて、あと二十年後には、大聖人の仏法も完成をみんとするわけである」、「創価学会は、今や、第三代会長池田先生のもとに、あと十九年、ひたすら国立戒壇の建立に前進をつづけている」と。
六月二十八日  創価学会、大宮支部幹部会。池田会長、『破和合僧』をテーマに講演。「御僧侶であっても、創価学会をバカにし、創価学会の団結を破壊した場合には、地獄に落ちるのです」と。
七月  創価学会、百五十万世帯。
七月十五日  妙信講、御書の「学習会」。青年部だけでなく、一般参加も許される。
八月七日  創価学会、全国の法華講講頭と懇談会。
八月二十七日  妙信講、夏期登山会で初の教学試験。(大石寺)
十月十六日  妙信講、青年部第二回結集大会。(板橋医師会館)
十月三十一日  創価学会、本部に海外部を設置。
十一月二十七日  創価学会、学生部機関誌 『第三文明』を創刊。
昭和三十六年         _
三月十二日  妙信講、教学部・第一回登用試験実施。
四月十五日  妙信講、教学部結成式開催。
五月三日  創価学会、文化部を文化局に昇格。文化局の下部組織として、政治部・経済部・言論部・教育部・学芸部(後に学術部・ドクター部・芸術部)の各部を設置。
五月三日  創価学会、『折伏教典』 第三版発行。「三大秘法とは、本門の題目・本尊・戒壇の三法である。しかして大聖人化導の順序を拝するのに、まず題目を流布せられ次に本尊の御建立があり、ついで国立戒壇の建立を予言あそばされている」、「戒壇とは、広宣流布の暁に本門戒壇の大御本尊を正式に御安置申しあげる国立の戒壇、事の戒壇である。それまでは大御本尊のいらっしゃるところが義の戒壇である」、「本門寺とは国立戒壇建立のとき、富士大石寺に名づける寺号である」、「広宣流布、国立戒壇建立の真近い現在」、「本門の戒壇に義の戒壇と、事の戒壇がある。義の戒壇とは御本尊の在します場所を指す。事の戒壇とは国立の戒壇である」と。
五月十一日  創価学会、広報局を設置。
五月二十八日  妙信講、第七回総会開催。(九段・千代田公会堂)
六月  創価学会、「大白蓮華」 六月号。池田会長、「しょせん、王仏冥合の実践の関所ともいうべき選挙戦は、日蓮大聖人の至上命令である」、「われらは政党ではない。ゆえに、けっして、衆議院にその駒を進めるものではない」と。
六月十日  由比宏道氏、『毒鼓の縁』を出版。(大白法書林) 日蓮正宗の日蓮本仏論を、慧心流の天台自受用身の亜流と。
六月十一日  妙信講、男子青年部に「参謀室」設置。
六月二十五日  妙信講、千三百世帯。
六月二十七日  創価学会、二百万世帯。
七月二十一日  創価学会、大客殿御供養金受付。百四十二万世帯から、三十二億七千万円を集める。
八月十日  宗門、松本・妙縁寺住職を能化に。「日仁」と号さる。
八月  創価学会、池田会長。法華講・平沢益吉氏宅を訪問、創価学会顧問への就任を要請。
九月一日  妙信講、教学誌「冨士」第一号を発刊。
十月八日  妙信講、青年部大会開催。(文京・社会福祉会館)
十月七日  創価学会、聖教新聞。池田会長、「宗教界にあって、(略)世襲制度ということは、もっとも誤った、いやしい姿」、「代々の財産をそのままうまく受け継いで、金儲けしようという、その縮図でもあるし、その一端だけをみても、(略)“邪教”であると断言できる」、「日蓮正宗、創価学会は、永久に世襲制度ではありません」と。
十一月二十七日  創価学会、文化局の政治部を解消。公明政治連盟(公政連)を発足。原島宏治委員長、辻武寿幹事長、小平芳平政調会長。
昭和三十七年         _
一月十七日  創価学会、公明政治連盟。「基本要綱」と「政策要綱」を記者発表。「基本要網」には 「一、われらの政治理念は、日蓮大聖人の立正安国論の精神を根本とし、その最高の哲理と最大の慈悲を基調とし、近代的にしてもっとも民主的な団体としての活動を行なうとともに、いっさいの不正に対し、厳然 たる態度を明確にすることを公約する」と。
一月二十五日  創価学会への、大阪事件判決。池田会長には無罪判決、他の創価学会員二十人には罰金刑、及び公民権停止。
 これについて、「池田が無罪となった理由は、一つには、学会側が仕立て上げた偽証によるものであり、二つには裁判長が検事の行き過ぎを見咎め、その取り調べでの調書を無効としたためであった。(もっとも、検事が厳重に対処したのは、前年における池田の大規模な選挙違反の反動であって、これ自体池田の身から出たサビだったのだが) けっして、池田の選挙違反指示が立証されたわけではない」(「慧妙」、平成九年三月一日)、「池田は大阪で傍若無人な選挙運動を繰り返しており、すでに悪名高かった。そのため、検察は池田に対し、かなり過酷な取り調べをしていたのだ。この事実をもとに裁判長は、池田に関する検事調書をことごとく却下した。池田大作は、この裁判長の情熱的な正義感のお陰で命拾いし、無罪になった」(龍年光著、『日蓮正宗の敵・池田創価学会を解散させよ』)、「検事が三人がかりで、池田に手錠をかけたまま、夜十一時まで食事も与えず調べた事、したがって検事調書はすべて却下」、「田中裁判長が一人で拘置所に赴き、職権で調査し検事の行き過ぎを発見したお陰」(龍年光著、『池田大作・創価学会の脱税を糾弾する』)等の指摘あり。
一月二十七日  創価学会、聖教新聞。『大阪事件に勝利の判決』、『無実の罪晴れる』、『むりやりにねつ造、反感と偏見の検察陣』、『拷問に等しい取り調べ』などの見出しで、判決批判の特集記事掲載。
三月三日  宗門、創価学会の建立寄進による大坊落慶式奉修。池田会長、「日本一国が広宣流布された暁には、民衆の総意によって国立戒壇を建立するのです」と。(「聖教新聞」)
三月三日  宗門、池田会長を「法華講大講頭」に任命。
三月十二日  妙信講、総本山大客殿の「内陣」御供養。
四月二日  創価学会、鳳書院より創価学会教学部編 『日蓮正宗・創価学会批判を破す』を発行。じつに、国立戒壇の建立こそは、第二祖日興上人にのみ御遺命になった」、「日蓮正宗のみが、大聖人の御遺命をうけて、富士山に事の戒壇(国立)を建立しようと、必死の努力を続けてきたことは明白になった。近ごろは、田中智学門流でさえも、囀っている」、智学はもともと邪宗身延派の出身だが、戒壇の大御本尊に反逆したほかは、ことごとく日蓮正宗の正義を盗みとって、富士戒壇説、蔓茶羅本尊論、法国冥合、三秘説などの邪義をかまえ、国柱会を創設して、おおいにその邪義を宣伝した」と。
四月二日  創価学会、「公明新聞」を創刊。(月二回刊行、二ページ建て)
五月三日  創価学会、第二十四回本部総会。東大法華経研究会、『日蓮正宗創価学会』を刊行。(山喜房仏書林)
五月六日  妙信講、千七百世帯突破。
六月三日  妙信講、第八回総会開催。(豊島公会堂)
六月十六日  創価学会、池田会長。『邪教などはみんなうまい事を言って、金を巻き上げ(略)、これが邪宗教の姿です。創価学会としては永久に皆さん方から、ただの一銭も寄付を願ったり、供養を願うようなことはいたしません』と。(「聖教新聞」)
七月  法華講連合会、結成。会長、平沢益吉氏(創価学会顧問)。
七月三十一日  日蓮正宗・法華講全国連合会、結成大会を開催。(大石寺・大講堂) 五千二百余名が参加。ただし宗門の正式な組織でなく、創価学会の発展に刺激されての自発的組織として活動を開始。
八月二十日  法華講連合会、機関紙を創刊。貎下、『大白法』と命名。
九月  法華講連合会、平沢会長。妙信講の浅井講頭・浅井本部企画室長、指導教師の妙縁寺・松本能化を自宅に呼びつけ、「創価学会・原島宏治理事長が、『妙信講が目障りだ。連合会の力で潰せないか』と言っている。私が抑えているが、連合会に従わなければそうせざるを得なくなる。だから全面的に従え」と脅迫。
九月八日  創価学会、『南無妙法蓮華経』の縦書きを「登録商標」に申請。後、これを取り下げる。
十月  創価学会、東洋哲学研究所を設立。
十月二十五日   妙信講、『冨士』 第四号(日蓮大聖人の御一生)発刊。
十一月二十七日  創価学会、三百万世帯となる。
十二月二十日  弘文堂、高瀬広居著 『第三文明の宗教 創価学会のめざすもの』を発行。
昭和三十八年         _
三月三十一日  宗門、全国法華講総登山。妙信講、千三百余名が参加。
四月四日  創価学会、池田会長。「私どもの選挙戦は、他の政権欲を考えておる政治、選挙とは違います。第一番目に、日蓮大聖人様のご遺命である王仏具合をめざしての、世界最高の崇高なる選挙戦であり、政治であります」と。(「聖教新聞」)
四月二八日  宗門、法華講全国連合会を認証。貎下、姻戚の平沢益吉氏を委員長に任命。
五月十九日  宗門、貎下臨席の下 「法華講東京地区連合会」の第一回大会を開催。(東京台東体育館) 参加者、五千余名。
五月二十六日  妙信講、第九回総会開催。(茗荷谷ホール) 宿願三千を目前に、九ヶ支部が揃う。
六月五日  文藝春秋、七月号。藤原弘達、林健太郎、宮城音弥、平林たい子氏等による「創価学会についての座談会」記事を掲載。このうち藤原弘達、平林たい子氏宅に学会員からの抗議の手紙が殺到。
七月  創価学会、言論部第一回大会。池田会長、「いままでは思い上がり・独断的であり・利己主義である彼ら(言論人)を、恐れさせて・身ぶるいさせて、ほんとうに正しい言論戦はこわい・どうしようもないというところまで、追って追って追いまくっていこうではありませんか」と。
七月  創価学会、聖教新聞 『社説』。「こうした事態は『言論部』の活動の前進であり、評論家に悲鳴をあげさせたのは、民衆の間から湧き起こった、たくましい真実の言論による勝利だ」と。
七月十五日  猊下、宗内教師僧侶一般、並びに法華講講員一般に 『訓諭』。「夫れ創価学会々員捨身弘法の熱誠たるや、宗門の古今に全くその類ひを絶せる熾烈さにして……その行業は正しく大聖人の御嘉納遊ばさるるところにして、宗門緇素の等しく満腔の敬意を表さずんばあるべからざるところなり。若し聊爾たりとも、此の清浄無比にして護惜建立の赤誠に燃ゆる一大和合僧団創価学会に対し、実にもあれ不実にもあれ謬見を懐き謗言を恣にする者ありとせば、其籍、宗の内外に在るを問はず、全て是れ広布の浄業を阻礙する大僻見の人、罪を無間に開く者と謂ふべし」と。(『大日蓮』、八月号)
七月三十日  創価学会、中部第二本部幹部会。池田会長、「今の政治家は、やれ勲章を貰うとか、金をとるとか、また有名人は利己主義になって、自分の名だけ売って、金儲けをするとか、めちゃくちゃな世界であります」、「私ども創価学会員は、位もいらない、名前もいらない、有名でなくともよい、大臣もいらない、また権力もいらない」と。(『会長講演集 第九巻』)
八月三十日  創価学会、渉外局を三局に分割。渉外第一局長は藤原行正氏(マスコミ対応)、第二局長は大野潔氏(内部トラブル対応)、第三局長は竹入義勝氏(外部トラブル対応)が就任。
九月一日  創価学会、東京・信濃町に創価学会本部完成、第二十六回本部総会を開催。(日大講堂) 池田会長、「遣使還告であられる御法主上人猊下は日蓮大聖人であります」と。
九月二十六日  妙信講、宿願の三千世帯達成。
十月二十日  妙信講、御会式大法要で三千達成のご奉告。(茗荷谷大ホール)
十一月一日  妙信講、法華講全国連合会からの激しい圧力により、やむなく機関紙 「顕正新聞」を廃刊。
十一月二十四日  宗門、日蓮正宗法華講全国連合会第一回総会開催。(於大石寺御影堂前)。八千余名が参加。
昭和三十九年         _
一月一日  創価学会、 『日達上人御講演集』を鳳書院より刊行。「国立戒壇」の語を、「本門戒壇」と改竄
一月一日  猊下、『大白蓮華』 一月号に寄稿。「今や池田会長は四菩薩の跡を継き、折伏の大将として広宣流布に進軍しております」と。
一月五日  妙信講、三千達成報告の総登山。千五百余名が参加。
二月一日  創価学会、『大白蓮華』 二月号。秋谷栄之助氏、(広宣流布の時には)『わが男子青年部の手によって内閣を組織して…』と。
二月  韓国・朴政権、文教部と内務部に創価学会内偵を命ず。文教部宗教審議会は、「創価学会は日本天皇と皇室を崇拝し、東方を遥拝するなど、日本の国粋主義的傾向が濃く、政治思想からみて明らかに侵蝕性を帯び、それは邪教であるばかりでなく、韓国にとって、反国家的、反民族的宗教であるゆえに布教は禁止すべきである」と報告。国務会議は、創価学会の布教活動防止対策を講じる事を決議。これをうけて全国の警察、創価学会の集会の禁止・通信の調査・刊行物の廃止等、布教活動を妨害。(『覚醒運動の興亡』)
二月二十八日  宗門、総本山大客殿完成。
四月一日  宗門、総本山大客殿落成慶讃大法要を奉修。池田会長、「“三大秘法抄”に『時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり』との大聖人の御聖訓がございます。その時がついにやってきたとの感を深める者は、私ひとりではないと信じます」と。
四月一日  宗門、池田会長を「法華講総講頭」に任命。
五月三日  創価学会、第二十七回本部総会。池田会長、戸田城聖会長から「大客殿の建立が終わったならば、ひきつづいて、すぐに正本堂の建立をしなさい」との遺言があった旨を述べ、さらに、「正本堂の建立は、事実上、本山における広宣流布の体制としてはこれが最後なのであります。したがってあとは本門戒壇堂の建立を待つばかりとなります」と。
 また、「公明政治連盟を一歩前進させたい。すなわち、王仏冥合達成のために、また民衆の要求、民衆の要望にこたえて、政党にするもよし、衆議院に出すもよし、このようにしたいと思いますけれども、いかがでございましょうか。(略)恩師戸田先生も、時きたらば衆議院へ出よとのご遺訓があったのです」と、公明政治連盟の政党化と衆院進出を発表。
五月  創価学会、四百万世帯となる。
六月十二日  創価学会、『巻頭言・講義集第三巻』発行。『御法主上人猊下は遣使還告で、日蓮大聖人と拝し奉るのです。このことは信心の上からはっきりしたものです。創価学会の会長を過大評価したりしてはいけないのです』と。
六月三十日  創価学会、第二十七回学生部総会。池田会長、『創価大学の設立、王仏冥合の理念』等について講演。「それで『創価学会は国立戒壇をめざしているからよくない』このように陳腐な論議をしております。まったくナンセンスのかぎりであります」、「御書には”国立戒壇”ということばはどこにもありません。戸田先生も、ちょっと”国立戒壇”ということばをもらしたことがありますが、私も先生がおっしゃったから申し上げたことも一、二ありますけれども、御書にも日興上人のおことばにも、日寛上人のおことばにも”国立戒壇”ということばはないのです。”戒壇”といえば”本門戒壇建立”となるのです」、「戒壇建立ということは、ほんの形式にすぎない。(略)ひとつの石碑みたいな、しるしとして置くのが戒壇建立にすぎません。したがって、従の従の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえないわけでございます」と。(「聖教新聞」 七月二日に掲載)
八月一日  妙信講、再建・満七周年記念班長会。
八月十九日  妙信講、大客殿落成慶祝登山。一千余名が参加。
十月二十五日  妙信講、第十回総会開催。(神田共立講堂) 「信心一本の伝統精神を見つめよ」と。
十一月  創価学会、大白蓮華十一月号。青木享氏、「学会の目的はただひとつであり、それは広宣流布といい、王仏冥合といい、国立戒壇建立といい、ぜんぶ同じことを指している」、「民主国家における民衆の総意は、同時に国家の意思であるから、それが国立戒壇と呼ばれても何ら不思議ではない」と。
 これが創価学会における、「国立戒壇」主張の最後となった。
十一月十七日  創価学会、公明政治連盟を改組し『公明党』を発足。日大講堂で結党大会開催。委員長・原島宏治氏、書記長・北条浩氏。結党宣言では、『立正安国論』を引用して「王仏冥合の大理念に立つ」と。
 綱領には、1)王仏冥合と地球民族主義による世界の恒久平和、2)人間性社会主義による大衆福祉の実現、3)仏法民主主義による大衆政党の建設、4)議会制民主政治の確立、を掲げる。
十二月九日  公明党、原島宏治委員長死去。後任委員長に辻武寿氏。
昭和四十年         _
一月一日  創価学会、『大白蓮華』 一月号。猊下、寄稿文の『新年の辞』で、「思えば昨年春、会長池田先生との談話の時に、私が『すでに広宣流布しておる』と語ったら、会長は、『そうです舎衛三億です』と即座に答えられたので、私はその見識に内心感嘆したのである」と。
二月  公明党、辻武寿委員長。東京・信濃町の聖教新聞社に隣接した、文部省の職員住宅地約二千五百uを、公明会館別館を建てるとの明確な理由で大蔵省に払い下げを申請し取得。当時、田中角栄蔵相の小佐野賢治氏と関連した虎ノ門公園跡地不正払い下げ事件が問題化しており、公明党も追及質問の先陣に立っていた。公明党は払い下げから二年間放置した後、その土地を創価学会に贈与。国が宗教団体に国有財産を払い下げれば、憲法に抵触するため、公明党をトンネルに利用。
二月  評論家・村松剛氏、「創価学会にはさわらない方がいい、という一種の暗黙の申しあわせが、このごろのジャーナリズムにはできかかっているようにみえる。……ことに大新聞は二、三年前からこの宗教団体にたいして何も批判めいたことを言わなくなった」(「中央公論」 三月号)と。
二月十六日  宗門、第一回正本堂建設委員会を開催。(大石寺大講堂) 猊下、「いよいよ、きょうこの委員会が開かれるにあたって、初めて私の考えを申し上げておきたいのであります」、「これについて一般の見解では、本門寺のなかに戒壇堂を設けることであると思っているが、これは間違いであります」、「大御本尊のおわします堂が、そのまま戒壇であります。したがって、大本門寺建立の戒も、戒壇の御本尊は特別な戒壇堂でなく、本堂にご安置申し上げるべきであります」、「今日では、戒壇の御本尊を正本堂に安置申し上げ、これを参拝することが正しいことになります。ただし末法の今日、まだ謗法の人が多いので、広宣流布の暁をもって公開申し上げるのであります」と。
 後に、正本堂完工式における北条浩建設委員会副委員長の経過報告で、「このとき猊下が、正本堂は戒壇の大御本尊を御安置申し上げる本堂であると決定」と。
三月十五日  宗門、『大日蓮』 三月号。(正本堂建設委員会での)「猊下のお言葉は、戒壇に対する一般の見解についての誤りを御指摘なされ(略)、正本堂建立が実質的に戒壇建立と同じ意義であるという、日蓮正宗の奥儀にわたる重大なお言葉があった」と。
三月二十六日  宗門、正本堂建設委員。『正本堂建立御供養趣意書』(宗務役僧・宗内高僧等二十一名が委員として連名)を発表。「かねてより、正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成であるとうけたまわっていたことが、ここに明らかになったのであります」と。
四月六日  宗門、総本山六壷落慶入仏式。大石菊寿宗務支院長、「この度池田大作先生によって御供養されるところの正本堂は、実質において、まさに本門戒壇堂の建立となったのでございます」と。
四月十八日  妙信講、男子部。北区公会堂に一千名を結集。「黎明」の幕を開く。
六月二十八日  創価学会、九州臨時幹部会。池田会長、参院選を前に「王仏冥合の指導者は私であります。創価学会の前進は宗教のための宗教の実践ではありません。あくまでも政治の源泉になり、社会革命の源泉になり、……これが真実の宗教のありかたです」と。
七月十二日  創価学会、青年部最高幹部会。池田会長、「来年には衆院選挙が予想されるにあたり、今後十年先・二十年先のため、王仏冥合の根本的なあり方を、ここに強調しておきたい」、「創価学会は宗教団体であり、公明党は政治団体である。ともに日蓮大聖人の教えを奉じ、王仏冥合をめざす同体異名の団体である」、「創価学会を離れて公明党はありえない。されば創価学会と公明党は、永遠に一体不二であります」と。
七月二十三日  東京都議選、公明党二十三名全員当選。元・都議会公明党幹事長、龍年光氏、「もともと公明党の原点は都議会。東京都が宗教法人創価学会を認証した所轄庁だったため、創価学会は殊の外東京都を重視した。また、創価学会の選挙は戸別訪問が主体であり、警視庁が本気で捜査を開始したらひとたまりもない。昭和三十二年の大阪の参議院補欠選挙で、買収や戸別訪問を指示して逮捕・勾留された経験を持つ池田は、そのことをひどく恐れていた。そこで、警視庁の予算と人事を審議する都議会を重視した」と後に暴露。「昭和四十年代から五十年代にかけて、公明党は築地の料亭を警視庁幹部の接待場としており、手の空いている議員は、昼からそこに詰めていた。そうして得た警察情報や人脈を活用し、竹入委員長をはじめ、現在の都議会公明を牛耳る藤井富雄都議、大川清幸都議などが選挙の度ごとに全国の警察幹部を接待。創価学会・公明党の選挙活動に手心を加えてくれるよう依頼していた」と。また、「学会員に対する都営住宅や低利融資の斡旋、清掃事業をはじめ公共事業への学会系企業の参入など、都議会公明党は都議会での政治力を背景に、学会に対して有形無形の大きな利益を今までもたらしてきた」と。(「諸君」、平成十一年七月号)
七月二十五日  創価学会、本部幹部会。猊下臨席の元、池田会長「広宣流布の時には、不開門が開きます。その時は、どういう儀式になるか」、「それが創価学会の究極の目的の一つです。その時には不開門が開く。一義には、天皇という意味もありますが、再往は時の最高権力者であるとされています。すなわち、公明党がどんなに発展しようが、創価学会がどんなに発展しようが、時の法華講の総講頭であり、創価学会の会長がその先頭になることだけは仏法の方程式として言っておきます。(大拍手)後々のためにいっておかないと、狂いが生ずるから言うのです。私は謙虚な人間です。礼儀正しい人間です。同志を、先輩をたてきっていける人間です。そのため、かえってわからなくなってしまうことを心配するのです。そうなれば、こんどは皆さん方が不幸です。学会も不幸です」、「その意味において、きょうは、いいたくないことでありますが、将来のために、私はいっておきます。私が御法主上人猊下様、大聖人様に、不開門を開いて、このように広宣流布いたしましたと、猊下をお通し申して、一閻浮提総与の大御本尊様にご報告することが、究極の、広宣流布の暁の、その意義なのであります。それまでがんばりましょう。(大拍手)」と。
七月二十六日  創価学会、聖教新聞。第一面に、『感激に沸く七月幹部会 会長が“不開門”開く 広布の大儀式楽しみに』の見出しで、本部幹部会の池田会長講演を掲載。
七月二十八日   妙信講、四千世帯突破。安田生命ホールで幹部大会開催。浅井昭衛・本部企画室長、本部長に就任。
九月  創価学会、大白蓮華九月号。池田会長、「永久に創価学会と公明党は、一体不二の関係で進んでいこうではありませんか」と。
九月十二日  猊下、正本堂御供養に関し 『訓諭』。「日達、此の正本堂に本門戒壇の大本尊を安置して、末法一切衆生の帰命依止、即身成仏の根源となさんと欲するなり」、「冀くは、本宗緇素、仏恩を深く思い、能く鑑みて蔵の宝に執著することなく大本尊に供養して、以て身の福運を安明に積まんことを」と。
九月十二日  宗門、院達を発布。「今般、管長猊下より、別紙の通り訓諭が発せられたので通達いたします。今回の正本堂建立は宗門僧俗にとって此の上ない誠に重大な事業であります。すなわち、訓諭に仰せ遊ばされてあるように、本門戒壇の大本尊を奉安申しあげる清浄無比の大殿堂であり、このことは、大聖人の御遺命にしてまた我々門下最大の願業である戒壇建立、広宣流布の弥々事実の上に於て成就されることなのであります。此の千載一遇の秋に当り、宗内各位には、訓諭の御意を体し、総講頭発願のもと打って一丸となり、その浄財を尽して深信の御供養を下種三宝の御宝前に捧げ、以て未曾有の鴻業達成を期されんことを願います」と。
九月二十日  創価学会、池田会長。「戸田先生も我々も、一時『国立戒壇建立』といってきました。どこを捜しても御書には『国立戒壇建立』ということばは無いのです。大聖人様はちゃんと未来を考えていらっしやったのです。いまの評論家どもは『創価学会は国立戒壇を目標にしているからけしからん』と云いますが、私は何をいうかと云いたい。そんなことは御書にはありません。彼等はなにもその本義を知らないのです。猊下が正本堂が本門戒壇の戒壇堂であると断定されたのであります。……私ども創価学会員ならびに日蓮正宗信徒の真心の結集によって本門の戒壇堂はもうできてしまうのです。安保間題のある一番大事な年である昭和四十五年にできるのです」と。
十月九日  創価学会・宗門。十月十二日までの四日間、正本堂御供養金を全国一万六千ヶ所で受付、三百五十五億円を集める。これに先だって、メーンバンクの三菱銀行、水色の貯金箱・五百万個を配布。
 山崎正友氏の告発によれば、『第二十七回本部総会で、「正本堂建立寄進」を発表した当初の計画では、昭和四十年十月九日から十二日までの四日間で三十億円を集める、というものであった。(略)日達上人が、「正本堂建立は、実質的に戒壇建立と同じ意義を持つ」と述べられたことから、募金活動は過熱化していった。集まった金額は...目標の十一倍余に及ぶ巨額に達し、世間に衝撃を与えた。(略)ただし、渡されたのは“目録”のみであり、金は、創価学会の銀行口座に入ったままであった」、「もうこれが最後の御供養です。逃したら二度とチャンスはない」、「この御供養に参加したら福運がつき子や孫の代はおろか、生まれかわるたびに金持ちになれる」等、ありとあらゆる意義づけで、御供養への参加がしつようにくりかえされた。(略)学会員は、生命保険を解約し、老後のためのなけなしの預金をとりくずし、結婚資金や毎日の食費をけずって「御供養金」をつくり出した。指輪などの貴金属はおろか、家財道具から衣類までー切売り払った会員もいた。最後には、先祖代々の土地を売り、或いは内職用のミシンを売り払ったり、商売の運転資金をはたいたため、後に路頭にまようといったケースも少なくなかったし、亭主や妻に内緒で一家の生命づなの預金をはたいて寄付したため、離婚さわぎや家庭騒動を惹起した例も多々みられた。要するに、“あとさきを考えず”あらんかぎりの方法で会員からしぼりあげた結果が三百五十億円という途方もない金額となったのであり、その後遺症は後々まで社会問題となった(『池田大作 日本経済乗っ取りの野望(一)』)
十月十七日  創価学会、十月度本部幹部会。池田会長、日達上人猊下に正本堂御供養金全額、三百五十五億三千六百万四千三百九円を奉呈。
 評論家・室生氏、「こうなることは初めから池田の読みだったのである。だから、建築費を支払うまでの金利は全部自分のものとなった。それだけではない。建築費そのものにも疑義がある。学会本部の発表によれば、直接工事費二百億円、間接工事費を合算して三百五十五億円としているが、到底それだけ掛かったとは思えない。公表の半額程度ではないかと思われる。あの建物は素人目にもちゃちで安っぽい感じがする。金を掛けたように見せ掛けるためコケ威しばかりに重点をおいた、売春婦の厚化粧みたいな建物」、「しかも業者への支払いは、五年から十年の手形だった。『利息だけで作れたはずだ』という声があがるのも当然」と。(『月刊ペン』、昭和五十一年四月号)
 また、「三百五十五億円は、全額すっぽり池田のポケットに収まったわけだ」(武田了円著、『悪魔の邪望』)とも。
 さらに、『御供養金約三百五十億は即刻奉納されたのではなく、正本堂が建立した昭和四十七年まで三菱銀行等に預けられたのでございますから、右御供養金約三百五十億を元金とする、複利約二百億をも新たに得たのでございます』(内田和子、『大日蓮』 平成三年六月号)と。
十月  産経新聞、石原慎太郎議員の新興宗教論、『巷の神々』を連載。池田会長、石原慎太郎議員と接触。古参幹部の証言によれば、 「池田氏が石原氏に『一緒に天下を取りましょう』と何とも嫌らしいおべんちゃらを言ったことがあったんです。しかしそれに対して石原氏は話を合わせることをせず、嫌悪感を露骨に示した。それからだったと思います。池田氏が石原氏を『悪党』と罵るようになったのは」(「諸君」、平成十一年七月号)と。
十一月十日  宗門、第二回正本堂建設委員会。(品川、妙光寺) 三百五十五億円に驕る池田会長、猊下と総講頭の席次の同列化を要求し、会議の準備に当たった柿沼総監を面罵。 「池田会長は、日達上人と、立派な正本堂の寄進者である自分の席が同等でないことに怒り、会議の準備に当たった柿沼広澄総監を面罵し、結局このツルの一声で委員会は流会になってしまった。日達上人がわざわざ富士宮から出てきたのに、である。しかも、柿沼総監はこの責任をとって辞任」(『週刊文春』、昭和五十一年九月一日号)と。
十一月十九日  宗門、宗務院通達第九百八十号。『宗内一般』宛に、『法華講総講頭の待遇について』と題して指示。三百五十五億円にひれ伏すが如し。
 「法華講総講頭は、仏法守護の総領として僧俗挙って尊敬すること、たとえば、
 @法要の席は、特に設け
 A行列の場合は、仏法守護のため先陣をなし
 B法要以外の席は、猊下に並び
 C末寺へ来寺の通知があった場合は、住職は出迎え
 Dその他の場合もこれに準じて尊敬のまことをつくして待遇すること」と。(『大日蓮』、昭和四十一年一月号)
 さらにこの徹底のため、総本山の費用負担で末寺の僧侶を本山に呼び指導。(『週刊文春』、昭和五十二年九月一日号)
昭和四十一年         _
一月五日  創価学会、『折伏教典』 改訂十一版を発行。 「戒壇とは、広宣流布の暁に本門戒壇の大御本尊を正式にご安置申し上げる本門の戒壇、事の戒壇である。それまでは大御本尊のいらっしゃるところが義の戒壇である』と。 ただし、『国立戒壇』の語はすべて、『本門戒壇』に置き換えられた。
一月十五日  宗門、『大日蓮』 一月号。椎名日澄宗務支院長、「正本堂はいよいよ現実に建立されるのであります。『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法というは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり』との七百年来の尊き御遺命が、時来りて今こそ霊峰富士の麓に堂々と建立されるのであります」と。
二月一日  創価学会、『大白蓮華』 二月号。主師親の三徳と池田会長を結びつけた『講師筆記試験優秀答案』を掲載。(「主師親の三徳を現代生活の上から説明しなさい」) 
 「主徳 眷属をまもる力。 …全日本を、そして、世界を守る池田先生のみ、現在において主徳をそなえてらっしゃる」「師徳 眷属を指導する力。 …私たちの師匠池田先生のみ師徳具備でいらっしゃる」「親徳 眷属を慈愛する力。 …身命を惜しまず、われわれ学会員のしあわせを願ってくださる池田先生こそ、親徳具備でいらっしゃる」と。
四月四日  妙信講、「日蓮大聖人御書 十大部」を刊行。
四月十五日  創価学会、小説『人間革命』 第二巻。 「戸田は、いつか牧口という一人の不世出の教育者に、『主』『師』『親』を見出し、終生献身をもって、純真に仕えたのである」と。
五月三日  創価学会、第二十九回本部総会を開催。 阿部教学部長、広宣流布の条件として三大秘法抄を引いた上で「この御文は(略)大指導者たる会長池田先生が身をもって示される、法主上人猊下と宗門に対する不惜身命の御守護をもって、いよいよその時が到来した事を、だんじてはばからぬものでございます」と。
 猊下、「いまの時代は御本尊を護持し、付属してあることあらしめておるのはだれでありますか。学会であります」、「また、あらゆる謗法の難を破折し、六難九易を身をもって行ない、末法の広宣流布を実現しておるのも学会であります」、「法華講の真の精神は、いまの学会員にあるのであります。かかるがゆえに私は、その学会の会長である池田先生を、法華講総講頭に依頼したのであります」と。
 池田会長、「昭和五十四年から十一年目の昭和六十五年、西暦一九九〇年、この年を目標として、広宣流布の大総仕上げにかかりたい」、「釈尊の“舎衛の三億”の方程式は、事実上間違いなし、それ以上の結果になることは明らかです」と。
五月八日  創価学会、本部幹部会開催。池田会長、「今後、国立戒壇という言葉を使わない」と厳命。さらに、「正本堂は、天皇帰依や国会議決によらない『「民衆立』である」と。      
六月一日  創価学会、池田大作著『指導メモ』を刊行。 『師弟』の項で、「たとえ師匠が地獄に落ちようと、師匠のそばへ行くと決めていた。(略)それが師弟相対だ」と。
六月五日  妙信講、第十一回総会開催。(神田共立講堂) 浅井本部長、「捨て身の信心に立たん」と講演。
七月  創価学会、正本堂建設に関連して墓苑を増設するため、大石寺名義で静岡県富士宮市・上井出の土地約六十七万平方メートルを購入。(富士桜自然墓地公園)
七月三日  創価学会、池田会長の『日蓮大聖人御書十大部講義』の第一巻として、『立正安国論講義』を刊行。猊下、「この立正安国論講義は、会長池田先生の畢生の大講義の一つであると信じて序となす」と、その『序』に記す。
 『公明党とは即、創価学会の異名であり、一体不二の関係にある』『三大秘法抄の「王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて」「勅宣並に御教書を申し下して」、身延相承書の「国主此の法を立てらるれば」とは、即・主権在民なれば、全民衆が創価学会・公明党の主張を納得し、全民衆の総意において王仏冥合を実現すること』『広宣流布・王仏冥合の達成、本門戒壇の建立・人類三千年の夢は、創価学会の前進によって虚妄でないことが明らかにされようとしている』『国権の最高機関たる衆議院に、三大秘法の仏法を奉じした真の民衆の代表を送り出すことこそ、現代の国家諌暁』『正本堂、すなわち事実上の本門事の戒壇が建立されるのである。正本堂建立こそ、日蓮大聖人の御遺命たる本門戒壇建立の具体化であり、宗門七百年来待望の壮挙』『日蓮大聖人御建立の三大秘法は、われわれ創価学会員の手による正本堂建立をもって完全に終了するのである。これによって、大聖人の三大秘法の威光は一段と輝きを増し、末法万年尽未来際までの平和楽土が実現される』、『この正本堂は、実質上、日蓮大聖人御遺命の本門戒壇になる。したがって、正本堂御供養をもって、奉安殿、大講堂、大客殿と、戸田前会長の時代から続けられた、学会総力を結集しての御供養は終わったことになる』『日蓮正宗、創価学会は、大聖人の御遺命である化儀の広宣流布を成し遂げ、本門事の戒壇を建立すべく立ち上がった唯一の団体』『本門の戒壇を建立せよとの御遺命も、目前にひかえた正本堂の建立によって事実上、達成される段階となった。七百年来の念願であり、久遠元初以来の壮挙』『広布達成・事の戒壇建立は、国土の成仏を意味する。ゆえに、国土世間の地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界の生命は冥伏して、天災地変が起きなくなるのである。だが、依正不二であり「法妙なれば人貴し人貴ければ所尊し」の原理である。戒壇が建立されたからといって、人々が形式に流され、信心の血脈を失い、謗法を犯すようなことがあれば、ふたたび悪国土となる』と。
八月  中国で「文化大革命」がはじまり、紅衛兵が各地で実権を掌握し破壊活動。日本のマスコミ各社、これを賛美。
九月二十五日  創価学会、本部幹部会を開催。海外で、創価学会が政治団体とみられることを受け、摩擦を回避するため海外法人の名称を『日蓮正宗』と改め、政治活動を行わないことを決定。
九月二十五日  宗門、大客殿のガラスが強風のため割れる。
十月二十五日  妙信講、五千世帯突破。
十二月  創価学会、池田会長。小説『人間革命』 第三巻を、新聞に連載。 「この若い革命家の『妙法への帰命』という理念は、具体的な実践でいうならば、稀有の師匠への帰命、すなわち『戸田城聖への帰命』でなければならぬことを、彼は知ったのである」と。
十二月十八日  妙信講、五千法城達成幹部大会開催。(安田生命ホール) 浅井本部長、「妙信講は在野の諌暁団体」と初めて宣言。
昭和四十二年           _
一月一日  猊下、『大白蓮華』 一月号に寄稿。「日蓮正宗総本山に、事の本門戒壇堂ともいうべき、正本堂の建立起工式が行なわれる」と。
一月二十九日  第三十一回総選挙。公明党、衆議院初進出でいきなり、二十五名が当選。
一月三十一日  創価学会、池田会長。突如、辻武寿公明党委員長を更迭、竹入・矢野体制に移行。(竹入氏はそれまで都議会議員、創価学会・世田谷第一本部長)
二月十三日  公明党、第四回党大会。竹入義勝委員長、矢野絢也書記長が就任。
五月二八日  妙信講、第十二回総会開催。浅井本部長、「仏法の正義曲げずに唯一筋、妙信講は在野の諌暁団体」と講演。
六月二十五日  創価学会、池田会長。外郭企業の社長等を集め、『社長会』を発会。「広布の闘いで、政党・学校・文化・民音等もできた。最後に残ったのは経済だ。これから社長会を中心に、経済革命をする」と。
九月  創価学会、十月に刊行予定の植村左内・編著『これが創価学会だ、創価学会幹部四十三人の告白』のゲラ刷りを入手。
 辻武寿・矢野絢也・竜年光の三氏、自民党本部に福田赳夫幹事長を訪ね、『これが創価学会だ』の出版中止を依頼。福田氏の拒絶により、さらに自民党・賀屋興宣氏に依頼。賀屋氏これを承け、出版元の「しなの出版」に働きかける。
九月十二日  猊下、正因寺にて説法。「今年その正本堂の発願式が、十月十二日に行なわれる次第となっておるのでございます。そこにいたって初めて、一切衆生成仏ができるその成仏の根本である、本門の戒壇が建立せられるのでございます」と。
九月二十二日  創価学会、第四回社長会開催。池田会長、「広宣流布への挑戦をして行こう。天下を取らなければ、途中の苦労が何にもならない」と発言。
十月三日  創価学会、池田会長・竹入委員長。連名で、植村左内・編著 『これが創価学会だ』の出版中止仮処分申請を、東京地裁に提出。
十月十二日  宗門、正本堂建立発願式。創価学会、池田会長。発誓願文にて、「夫れ正本堂は、末法・事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又、仏教三千余年・史上空前の偉業なり」、「今・茲に発願せる正本堂は文底独一本門の戒壇にして、唯・我が日本民衆の鎮護国家の道場なるのみならず、世界人類の永遠の平和と繁栄とを祈願すべき根本道場なり」と。
 さらに、「向後、慈折宣化の精進勇猛によりて全国民の仏性覚醒し、挙って妙法を願求するに到らば、その時正に不開の門は開かれ、茲に本門戒壇の意義、その完結を見るものか。夫れ民衆は、国家の主権者たり。されば斯くの如き大戒壇は正しく、民衆立の戒壇と呼ばれるべきなり。その時代は未だ未来に居すと雖も、而も亦・甚だ近きを信ず。我等末弟、その日の実現の一日も早からん事を希い願うて、日々・月々・年々に、更に折伏行に断固邁進せんことを堅く誓うのみ」と。
十月十三日  東京地裁、創価学会の 『これが創価学会だ』の出版禁止仮処分申請を、却下す。
十月  植村左内・編著、『これが創価学会だ』 出版さる。大手取次店等、悉く取り扱いを拒否、書店の店頭に並ぶことなし。
十月  創価学会、『これが創価学会だ』の出版に対し、名誉毀損で告訴。加えて、謝罪広告を求める民事訴訟を起こす。さらに同書出版は新宗連の企てとして、新宗連理事長・立正佼成会庭野日敬会長を告訴。
 この後、日本大学・古田重二良会頭(社団法人宗教センター理事長)の仲介が成立。古田会頭、『これが創価学会だ』を廃棄処分。
十一月十五日  宗門、『大日蓮』 十一月号発行。先の正本堂発願式に際し、宗門高僧等の阿諛追従の記事を多数掲載す。
 1) 阿部信雄教学部長、「宗祖大聖人の御遺命である正法広布・事の戒壇建立は、御本懐成就より六百八十数年を経て、現御法主日達上人と仏法守護の頭梁・総講頭池田先生により、始めてその実現の大光明を顕わさんとしている」と。
 2) 大村寿顕宗会議員、「本門戒壇堂の建立をば『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり時を待つべきのみ』云々と、滅後の末弟に遺命せられたのであります。その御遺命通りに、末法の今・機熟して本門寺の戒壇たる正本堂が、御法主上人猊下の大慈悲と、法華講総講頭・池田大作先生の世界平和実現への一念が、がっちり組み合わさって、ここに新時代への力強い楔が打ち込まれたのであります」と。
 3) 佐藤慈英宗会議長、「この正本堂建立こそは、三大秘法抄や一期弘法抄に示されたところの『事の戒法』の実現であり、百六箇抄に『日興嫡々相承の曼茶羅をもって本堂の正本尊となすべきなり』と御遺命遊ばされた、大御本尊を御安置申し上げる最も重要な本門戒壇堂となるのでございます」と。
 4) 椎名日澄宗会議員・参議・宗務支院長、「『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ』との、宗祖日蓮大聖人の御遺命が今正に実現されるのである。何たる歓喜、何たる法悦であろうか」と。
 5) 藤本日潤庶務部長、「私共は、子供の時から『広宣流布』とか『戒壇建立』とかの言葉を常に耳にし口にしながらも、何か遠い未来の夢の如くに考えておったものでありますが、それが私共の時代に先づもって『戒壇建立』の実現を見ることが出来るということは、本当に身の福運を感ぜずには居られません」と。
 6) 豊田広栄宗会議員、「『霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か、時を待つ可きのみ。事の戒法と申すは是なり』、霊山の誓いが今ここに実現しようとしているのである」、 「事実上の広宣流布、そして本門戒壇の建立発願と言う大偉業は、……『三国並びに一閻浮提の人、懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王、帝釈等も来下してふみ給うべき戒壇なり』の御金言にふさわしく」云々と。
 7) 梶原慈霑宗務支院長、「三大秘法抄の事の戒壇ここに成り、梵天帝釈等も来下してふみ給うべき戒壇」、「本門戒壇建立こそ、七百年来宗門の僧俗全てが宗祖日蓮大聖人の御遺命として受け継ぎ、瞬時も忘れることなく抱き続けてきた願いであり、使命であり一大目標である。それが今此処に池田会長によって、全ての者を代表して発誓願せられたのである」と。
十一月十五日  手塚寛道氏、「法華本門思想通要」を発刊。「広布のとき建立せられるとする戒壇を、義の戒壇とするに対して事の戒壇と称する」、「進んでは国家的に建立される戒壇を本門の戒壇と称せられるのは、三大秘法抄の文による」と。
十二月  大正大学、竹中信常教授(宗教学)。 『創価学会』を出版(労働法学出版)。
 創価学会、山崎尚見渉外局長。校正段階より介入し、ゲラを見せるよう強要。約一ヶ月の後、ゲラに朱を入れ「この本は、創価学会を正しく書いていない。手を入れたように変えて刊行せよ」と要求し、もし原文通り刊行するなら、名誉毀損で訴えると脅迫。よって同書の刊行、二ヶ月の遅れを来す。
昭和四十三年           _
一月一日  猊下、『大白蓮華』 一月号に寄稿。「この正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も教化の儀式も定まり王仏冥合して、南無妙法蓮華経の広宣流布であります」と。
一月二十八日  妙信講、幹部大会開催。(豊島公会堂) 浅井本部長、「日目上人の御振舞いを偲び奉り、生命かけて一万世帯を達成せん」と講演。
二月五日  松本佐一郎氏遺著、『富士門徒の沿革と教義』発行さる。(大成出版社)
 「三大秘法は..閻浮同帰を目標にする。国立戒壇は、閻浮同帰への前提だ。国立戒壇の前提は、異体同心である。下々の下々たる土民までが聖人の師子王の心に同心し得たとき、国立戒壇への道が開ける。勅宣はその結論である」と論ず。
二月十一日  隈部大蔵著 『日蓮正宗・創価学会・公明党の破滅』の出版に際し、日本大学・古田会頭等が介入。初版からただちに絶版、市販されず。
二月十六日  宗門、歴代上人墓地御遷座法要・新墓苑起工式を奉修。
三月十五日  創価学会、池田会長。聖教新聞に「政治の正邪を決する公場対決とは、選挙のことをいうのです。すなわち仏法、政治ともに、その正邪は折伏と選挙によって、民衆の前で決定していくべきである、との大聖人の御金言であります」と述ぶ。
三月二十五日  妙信講、六千世帯達成。
五月三日  創価学会、第三十一回本部総会を開催。猊下、「化儀の折伏は、政治、経済、文化、あらゆる方面にわたるべきであります」と講演。池田会長、正本堂を「法華本門の大戒壇」と呼ぶ。
六月一日  宗門、高野日海宗会議員。『日蓮正宗・創価学会の時間』なるラジオ番組で、「正本堂と申しますのは、日達現猊下が事実上の本門の戒壇であると御説法下さいましたが、(略)この戒壇建立と云う事は、実に日蓮大聖人七百年来の悲願でございまして…」と述ぶ。
七月十日  毎日新聞等・新聞各社、「投票入場券、十万通消える 大量の不正投票か」、と報道。(七月七日、第八回参議院選挙)
 後に東京地裁、「新宿替え玉投票事件」に判決。「他人の投票入場券を盗み..公明党候補に詐偽投票をおこなった」として、宮本孝・砂川昭夫被告に禁固一年・執行猶予四年、北林芳典被告に禁固四ヶ月・執行猶予三年など、創価学会員・被告八名に有罪判決を下す。
 後日の山崎証言では、「これは新宿区総指令(選挙責任者)八矢英世氏直々の指図で行われた、組織ぐるみ事件である。(略)池田大作は..『覚悟して、腹を決めて対処しろ』と竹入氏に指示した。私も公明党都議、区議団とともに必死の証拠隠滅工作に奔走した。(略)竹入義勝委員長は警視総監と会い、手加減を頼みこんだ。(略)結局八人に有罪が宣告されたが、摘発は組織末端に止まった」と。(山崎正友、週刊文春 平成八年九月十二日号)
九月十日  猊下、日正寺において、「法華講総講頭・池田先生の大発願のもとに、本門の戒壇堂とも云うべき正本堂建立が、来月の十二日に着工」と説法。
九月十一日  公明党、北条浩副委員長。隈部大蔵氏を赤坂プリンスホテルに呼び、創価学会・公明党を批判する者に対して、「創価学会という象は、蟻の一匹といえども全力をもって踏みつぶすことを、十分承知されたい」と脅迫。
 隈部氏、五月から執筆していた『現代のさまよえる魂、釈尊と邪教の対話』なる、学会教義批判書の出版を断念。
十月十二日  宗門、正本堂建立着工大法要を奉修。池田会長、「この法華本門の戒壇たる正本堂の着工大法要を、血脈付法第六十六世日達上人猊下の御導師により、無事終了することができました」と挨拶。
十一月十七日  創価学会、猊下臨席のもと第十七回男子部総会開催。池田会長、「私どもの最大の念願であった本門の戒壇たる正本堂」、「一閻浮提総与の大御本尊まします本門戒壇」、「広宣流布は、今や名実ともに総仕上げの段階」と講演。
十一月二十一日  創価学会、『日蓮正宗教学小辞典』を刊行。『戒壇建立』の項で、「本門戒壇即正本堂の建立が実現」と記載。(後にカットさる)
十二月八日  妙信講、臨時班長会開催。浅井本部長、「躍進」の大号令。
昭和四十四年           _
一月七日  妙信講、総本山大石寺に七百名代表登山。平沢法華講連合会委員長の「三大秘法抄・一期弘法抄に云われた戒壇が、いよいよ昭和四十七年に立つ」なる講演を聞く。
一月二十五日  猊下、第一回寺族指導会で「昭和四十七年、法華講総講頭池田大作先生の大発願によって本門戒壇が将に建たんとしている」と指南。
二月二十六日  創価学会、七百万世帯となる。
四月六日  宗門、御虫払法会。猊下、「法華講総講頭池田大作先生が大願主となり、事実上の本門戒壇堂である正本堂の建立が進行中」と説法。
四月二十七日  妙信講、第十三回総会開催。浅井本部長、「もし客観情勢がその必要を迫るのなら、それこそ日蓮大聖人の御命令なりとして、妙信講の命運を賭しても、いつでも法の為、国の為、宗門の為に敢然と立ち上がらん」と講演。
五月三日  創価学会、第三十二回本部総会開催。池田会長、「本門戒壇たる正本堂の定礎式を…」と、猊下臨席の元で講演。
五月七日  「聖人展」、都内デパートにて開催。大石寺、興師御影像を出展。
五月十二日  妙信講、「聖人展」の即時中止を、書状を以て宗務院に訴う。
五月十八日  妙信講、「聖人展」につき、二度目の諌訴状を宗務院に提出。
五月二十四日  妙信講、臨時班長会開催。浅井本部長、「聖人展」の謗法同座と宗門への諌訴の事実を明かす。
五月二十一日  宗門、阿部教学部長。法道院で妙信講と面談。妙信講、謗法同座の違法を責め、即時中止を迫る。
六月一日  妙信講、七千世帯突破。
六月三日  宗門、能化会議の使者。妙縁寺にて、「聖人展」につき妙信講を慰撫。
六月十八日  妙信講、「聖人展」につき、三度目の諌訴状を宗務院に提出。
八月三十一日  創価学会、藤原行正渉外第一局長。池田会長の指示で、藤原弘達氏邸を訪問。「創価学会を斬る」の出版に際し、「五項目の依頼」を提示するも拒絶さる。
 以後、数度の交渉もことごとく一蹴され、創価学会は自民党田中幹事長や出版社を通じて、同書の出版を妨害。藤原弘達氏は、経緯をマスコミに公表して応戦。大きな社会問題となり、国会でも激しく追求さる。
十二月二十二日  妙信講、正本堂につき宗務当局と妙縁寺にて面談。阿部教学部長、「猊下は未だ一度も正本堂を事の戒壇と仰せられず」と言明。
昭和四十五年          _
一月五日  公明党、記者会見。竹入委員長、「出版会社に出版のとりやめを依頼したおぼえはない」、「自民党の実力者を通じて出版を取り止めるよう依頼した事実はない」と発言。矢野書記長、「事実無根としかいいようがない。それを一方的に事実というのなら、立証責任は向うにある」と語る。
一月六日  藤原弘達氏、「まぎれもない事実だ。電話の録音テープもあるし、国会での証言もいとわぬ」と発言。(朝日新聞)
 田中幹事長、記者会見。「藤原弘達への執筆中止依頼は公明党に頼まれてではなく、つぶやきを聞き、おせっかいを焼いた」と発言、「出版妨害」に自身の関与の事実を認める。
一月十一日  公明党、渡部一郎国対委員長。創価学会の学生部幹部会で「言論の自由の問題について」講演。「社会党のうすバカどもが調子にのって」等と暴言。二月二十七日に国対委員長を辞任。
一月十六日  公明党、矢野書記長。記者会見にて「著者に対して正確な認識と客観的な批判を要望した事実は認められる」と、事実無根の全面否定を撤回し反省の意を表明。
二月一日  妙信講、浅井本部長。「出陣の本年を迎えて、今や恐れる何ものもない」、「講中七千六百有余世帯の命運を賭して、いささかも諂わず御意に叶わん御奉公を熱顧するのみ」と、『冨士』巻頭言に述ぶ。
二月初旬  創価学会、池田会長。国会証人喚問が取り沙汰される中、創価学会の箱根研修所へ一部側近のみを連れ逃避行
三月二日  社会・民社・共産の三党、「調査特別委員会設置」を要求。池田大作・田中角栄・竹入義勝氏等、十二名の証人喚問を検討。
 その後、民社党の塚本三郎議員。衆議院予算委員会で「国立戒壇・王仏冥合は憲法違反」だとして、池田会長の国会喚問を要求。
三月二十五日  妙信講、「正本堂に就き宗務当局に糺し訴う」を宗務院に提出。
四月三日  猊下、妙信講講頭・本部長を本山に呼び、「この本は本当に宗開両祖の仰せのまま、宗門七百年の伝統のままです。一分の誤りもありません」、「国立戒壇は当然であり、場所は天母山である」と指南。
四月六日  宗門、御虫払法会。猊下、「王仏冥合の姿を末法濁悪の未来に移し顕したならば、必ず勅宣並に御教書があって霊山浄土に似たる最勝の地を尋ねられて戒壇が建立出来るとの大聖人の仰せでありますから、私は未来の大理想として信じ奉る」と説法。正本堂が御遺命の戒壇ならざることを明言。
四月八日  共産党、谷口善太郎代議士。「国立戒壇」につき、質問趣意書を国会に提出。「国立戒壇」は憲法違反であり、かつ宗教団体が、違憲の国立戒壇の実現を目的として政治活動を行うとすれば、その活動も憲法違反ではないかとして、政府に答弁を求む。
四月九日  政府、創価学会に対し正式に「国立戒壇」について照会。
四月十四日  創価学会、池田会長。早瀬総監・阿部教学部長を学会本部に呼び、「政府照会」への対策会議を開催。そこで、
 1) 宗門が公式に国立戒壇の永久放棄宣言をすること、
 2) 宗内でひとり国立戒壇を主張する妙信講を抑えこむこと、
が決定された。このときの『阿部教学部長の直筆メモ』が、後日流出。
四月十六日  猊下、常泉寺に下向。妙信講に共産党の「質問主意書」を見せ、「国立戒壇を捨てて下さい。国立戒壇をいうと、日蓮正宗は潰される」と述べるも、妙信講の諫めを諒として池田会長に誑惑を訂正させると約す。
四月十七日  猊下、妙信講に電話で「四ヶ条」を示し、従うよう命令。
  一、日蓮正宗を国教にはしない。
  二、国立戒壇とはいわない、民衆立である。
  三、正本堂を以て最終の事の戒壇とする。
  四、今日はすでに広宣流布である。だから事の戒壇も立つ。
四月二十日  創価学会、北条副会長。山崎顧問弁護士に対し、共産党への電話盗聴を承認し、工作資金として三百万円を渡す。(山崎正友著、「盗聴教団」)
四月二十二日  宗門、総本山大客殿にて、「臨時時局懇談会」開催。猊下、神力品結要付嘱の文の曲解を、妙信講に指摘され閉口。国立戒壇放棄の宗内合意ならず。
四月二十三日  創価学会、「国立戒壇の意義」についての照会に対し、窃かに詐りの回答を政府に提出。
五月三日  創価学会、第三十三回本部総会開催。猊下、「国立戒壇という名称は世間の疑惑を招くし、かえって、布教の邪魔にもなるため、今後、本宗ではそういう名称を使用しない」と、“国立戒壇否定”の公式宣言。さらに「本門戒壇の大御本尊安置のところは、すなわち事の戒壇であります。…正本堂は本門事の戒壇であります」と発言。
五月二十四日  妙信講、第十回総会開催。浅井本部長、「大聖人の御遺命を曲げては宗門も国家も危うくなる。妙信講は講中の命運を賭しても、誑惑の訂正を迫る決意である。もし妙信講が憎いとならば、潰したらよい。しかし正義だけは取り入れて頂きたい」と、御遺命守護の決意を述べる。
五月二十九日  猊下臨席の元、総本山対面所で妙信講代表、学会代表と諭判。猊下、「正本堂は未だ御遺命の戒壇ならず、未だ広布ならず」と述べ、学会に訂正を命ず
五月三十一日  猊下、寺族同心会大会で、「国立戒壇と云う名称は使わない」と云う事に対し、「大変あちらこちらで不平の方もあったらしい」と述べる。
六月十日  創価学会、山崎謀略師団。共産党宮本議長宅前の電柱に、発信器式盗聴器を仕掛ける。
六月十一日  創価学会・妙信講代表、猊下に目通り。森田副会長、猊下に対し「猊下の仰せを守り、今後学会は絶対に『正本堂は御遺命の戒壇』、『広布はすでに達成』とは言いません。あらゆる出版物からこの意の文言を削除し..」と誓う。
 猊下、「宗門でいちばん大きいのと、いちばん強いのがケンカしたのでは、私が困ってしまう。これからは仲よくやって下さい」と述べる。
 妙信講、将来の違約なき事を期して「確認書」を求む。学会は拒否。
六月十六日  宗務当局立合いの元、確認書をめぐって妙信講と創価学会の論判開始。
七月九日  創価学会、山崎謀略師団。共産党側に盗聴器を発見されたことを察知、ひそかに盗聴器を撤去。
七月十二日  マスコミ各社、「共産党宮本議長宅で電話盗聴器発見」を報ず。
八月四日  創価学会、猊下への誓いを破り、再び聖教新聞に「正本堂は事の戒壇」と掲載。
八月十九日  妙信講、創価学会の違約を面詰。創価学会、ついに二度と歪曲せざる誓状(確認書)を猊下に奉るむね、妙信講に約束す。
九月十一日  妙信講代表と創価学会代表、「確認書」に署名。早瀬総監、猊下に納める。その文面には「正本堂は三大秘法抄・一期弘法抄にいうところの最終の戒壇であるとは、現時において断定しない」と。誑惑の主犯・創価学会とこれを糺した妙信講が署名し、誑惑与同の宗務当局が立会って猊下に納め奉り、ここに誑惑訂正の全宗門的合意形成なる。
十月二十五日  妙信講、晴れて総登山。参詣二千有余名。感涙の御開扉の後大講堂にて浅井本部長、「講中の命運を賭しての御奉公、遂に九月十一日を以て決着」、「今日からは十万達成に向けて前進を開始する」と講演。
十二月二十日  妙信講、男子青年部大会開催。浅井本部長、「教条主義との非難甘んじて受く、御金言のままの実践こそ如説修行、一筋に謗法厳禁と国立戒壇を一国に叫ばん」と講演。
 昭和四十六年          _
五月二十六日  妙信講、幹部大会開催。浅井本部長、「去年...九月十一日一応の決着を見たが、その後の経過を見るに未だ事終わらず」、「見ながら知りながら気付きながら、権威を恐れて云わないのは不忠のものであり、仏弟子ではない」、「妙信講はただ大聖人の御目を恐れる」と講演。
八月二十日  宗門、阿部教学部長。所用で妙信講本部を訪問、「妙信講のいうところ大聖人の御意に叶えばこそ、宗門の大勢も変った。宗門がここまで立ち直れたのも、妙信講のおかげである」と述べる。
八月二十八日  妙信講、総登山。参詣二千百余名。浅井本部長、御開扉の後「昨年九月の決着より、沈思するに本質は変わっていない」、「いまこそ宗門は御法主上人猊下のもとに団結し化儀化法純然として...、全信徒が一丸となって一国に警鐘を乱打しなければならない」、「ただいま九千世帯、これから一万世帯までの間に、大事な御奉公をせねばならない」と講演。
九月一日  猊下、法華講富士会館創立五周年記念法要にて、「法華講の大指導者が、出現せられたのでございます。...この時代に広宣流布をさせんがために、大聖人様がそうなさった、と推測するのでございます」、「この法華講総講頭という大指導者を得た今日、皆一致して、そして広宣流布へ邁進して、大聖人様の御意を達成していただきたいと思うのでございます」と説法。
十月十二日  宗門、正本堂躯体完成式を開催。池田会長、「止住の戒場正本堂」と講演。ただし、『大白蓮華』の躯体完成式の記事に、上記池田発言は掲載されず。
十一月十五日  創価学会、再び違約をくり返す。妙信講、「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」を、池田会長に送附。その骨子は以下の二点。
 1) 全宗門信徒に対し、正本堂が御遺命の戒壇でないと公表せよ。
 2) 政府に対し偽りの回答を撤回し、国立戒壇の正義を示せ。
 昭和四十七年          _
一月七日  創価学会、『南無妙法蓮華経』の横書きを、商標登録申請。
二月五日  妙信講、池田会長に「訂正の意志ありや否や」の確認の一書を送る。
二月十三日  宗門、宗務院が介入して妙信講を説得。妙信講、「院達をもって、正本堂の誑惑訂正と国立戒壇の正義を、全宗門に布告されたらどうか」と提案。
二月十五日  妙信講、浅井本部長。臨時班長会において妙信講全班長に、御遺命守護の全貌を初めて明かす。班長一同、「聖人展」以来の妙信講の御遺命守護の御奉公の全容を耳にし、感激止まず。
二月二十四日  宗務院、妙信講に「正本堂は現時点における事の戒壇である」、「ただしこの『事の戒壇』とは、御遺命の戒壇を意味しない」旨の了解を求む。
 妙信講、「三ヶ条」を示し正義の宗門声明を重ねて要求。

 1)正本堂は三大秘法抄・一期弘法抄に御遺命の事の戒壇ではない。
 2)正本堂は奉安殿の延長として、大御本尊を厳護し奉る殿堂である。
 3)正しく御遺命の事の戒壇とは、一国広布の暁、国立の戒壇である。
三月一日  妙信講、全班長に初めて二冊の『諌暁書』を配布。全講、「三ヶ条」に対する四月十日の宗務院の回答を注視。
四月九日  宗務院、「三ヶ条」に対し妙信講に無慚の回答。宗務当局、創価学会からの激しい圧力に屈し、誑惑に与同。創価学会、宗門に「月例登山会」の激減・本山への経済封鎖等、種々の圧力を加う。
四月十六日  妙信講、法道院にて宗務当局と論判。宗務当局、沈黙す。
四月十七日  妙信講、浅井本部長。臨時班長会で、池田会長との「公場対決」を宣言。
四月二十八日  宗門、「訓諭」を発布。「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」と。
四月二十八日  妙信講、浅井本部長。ただちに、池田会長に対し公場対決を求む。
五月五日  宗務院、妙信講に対し「公場対決取り消し」を迫る。
五月十日  妙信講、猊下へのお目通りを宗務当局に願い出るも、当局拒否。
五月二十三日  妙信講、「聖人展」における諌訴状を、始めて公表。(「冨士」、第百六号)
五月二十六日  妙信講、浅井本部長。総幹部会において「御遺命の正義、いまぞ全宗門にこだまさせん」と講演。御遺命守護の為、全講員決起。組織を挙げて、宗内に文書を配布。
六月十二日  宗務院、「国立戒壇論の誤りについて」を刊行。
六月十三日  宗務院、“除名・解散”を以って「文書配布の中止と公場対決の取り消し」を迫り、弁疏を求む「通告書」を妙信講に送付。
六月二十二日  妙信講、宗務院に「もし敢えて違法を強行するとならば、すでに止むなし。これ大聖人の御命令なりとして、妙信講は非常手段を以てしても断じて御遺命を守り奉る」との回答文を送付。
 阿部教学部長と早瀬総監、共に猊下に辞表を提出し失踪。
七月一日  妙信講、浅井本部長。班長会において「国立戒壇論の誤りについて」の曲文を、完膚無きまで破折。
七月三日  妙信講、男子部。御遺命守護の為、組織的行動を開始す。
七月六日  猊下、妙縁寺へ下向。「今回、確認書の約束が破られたような形になったことは、まことに遺憾に思っている」、「訓諭については不本意な箇所がある。よって新しい解釈を『大日蓮』八月号に発表する」と指南。さらに。聖教新聞社へ「国立戒壇論の誤りについて」の連載中止を命令。
 山崎謀略師団、この会見を盗聴。後に東京地裁が盗聴事実を認定
七月十日  猊下、訓諭について「大日蓮」に掲載すべき訂正原稿を、妙信講に示される。
七月十七日  六藝書房、蓮悟空著、『変質した創価学会---現創価学会大幹部の告発』を発行。「保田妙本寺の『万年救護の御本尊』こそ信仰の対象」とする。            
七月十八日  妙信講、臨時男子部指導会。浅井本部長、胸中の決意を披瀝。男子部精鋭一同、共に御遺命守護の重大御奉公に殉ぜんことを誓願、決意を表明す。
七月二十六日  妙信講、浅井本部長。総幹部会において「訓諭はやはり御本意にあらず、一死を賭して最後の御奉公貫かん」と講演。
八月十二日  猊下、再び妙縁寺に下向。「大日蓮」への訓諭訂正の発表不可能を告げ、学会と妙信講の討論を許可する。
八月  創価学会、大石寺で夏季講習会開催。原島教学部長、このとき池田会長に「日達上人が時には学会側に、時には妙信講側に立った」と話す。
九月十三日  創価学会・妙信講両代表、常泉寺にて討論開始。これより七回にわたり討論。山崎謀略師団、この会見も盗聴。発信機を仕掛けたアタッシュケースを会場に持ち込み、隣家の学会員宅に集まった配下の広野輝夫、竹岡誠治のほか、学会弁護士の桐ヶ谷章・八尋頼雄、現職検事の神崎武法らに受信・録音さす。
九月二十八日  討論決着。創価学会、「聖数新聞」に訂正を誓う。原島教学部長、後に「このうち『の完結』の三文字を入れるか入れないか、最後の争点」であったことを明かす。
十月一日  宗門、正本堂落成慶讃大法要に先立ち、正本堂完工式を営む。創価学会、完工式にローマ法王庁特命全権大使ブルーノ・ヴェステンベルグ大司教とデュモリン神父を招待。ヴェステンベルグ大司教、「正本堂完工式に出席できましたことは、デュモリン神父および私自身にとりまして非常な喜びであり、また名誉でありました」とメッセージ。
十月三日  創価学会、聖教新聞に「正本堂の意義について」の訂正記事を、和泉理事長名で約束通り掲載。
十月四日  宗門、機関紙「大日蓮」。妙信講に対し、不当記事の取り消しと、陳謝を表明す。
十月七日  宗門、大御本尊御遷座お練りを奉修。
十月十一日  妙信講、浅井本部長。「御遺命の正義・本宗七百年の伝統は辛じて此処に死守された。...今は静かにその誠意を見守らせて頂く。もし不実ならばすでに仏天これを許さず、自らその身を亡ぼすのみ」と、冨士・巻頭言に述べる。
十月十二日  宗門、正本堂落慶大法要。
十月十二日  創価学会、池田会長。落慶式の後・下山するバス車中の創価学会員に、「本日、七百年前の日蓮大聖人の御遺命が達成されました。ありがとう」とメッセージ。
 原島教学部長、妙信講との信義を守り、ただちにそれを一切打ち消すように手配。池田会長、これに激怒。
十月十七日  宗門、正本堂記念品埋納大法要。池田会長の「慶讃の辞」やモーニング等々の記念品を、妙壇の基底部に格納。池田会長、「この部屋は...第一回は今日より七百年後、第二回は三千年後、そして第三回は一万年後に開かれることになっております」と講演。
十月二十二日  妙信講、第十五回総会開催。浅井本部長、「日本の広布・国立戒壇こそ世界平和の鍵、国家諌暁なくして国家体験はおこらず」、「十万世帯、御入滅七百年(昭和五十六年)までに達成せん」と講演、国立戒壇への大路線を打出す。
十一月十一日  創価学会、民音職員・松本勝弥氏。「正本堂御供養金返還請求」訴訟を、東京地裁に起こす。
十一月二十八日  妙信講、宿願の一万世帯達成。
昭和四十八年         _
一月二十九日  創価学会、池田会長。第三回全国寺院総代会で「寺院というものは、たとえ法そのものが正しくても...権威主義や法権の牙城化によっても白法隠没を引き起こすことになる」と発言。 
三月一日  宗門、東北地方を中心に宗門末寺において妙信講の弘通に対し、不可解な御授戒拒否を頻発す。末寺住職の意志に非ず。宗務当局、言を左右し理由も責任の所在も不明。妙信講、「激しい憤りはすでに胸を衝いている」と表明。(「冨士」、三月号)
三月二日  創価学会員ら十五名、正本堂御供養金の返還を求め、東京地裁に訴訟を起こす。
三月七日  創価学会、池田会長。千葉県幹部会で「学会活動をしている人にのみ、法華の血脈が存在している」と発言。
三月二十六日  宗門・妙信講、全国地方寺院の御本尊下附問題、解決す。
五月二日  創価学会、第三回教学部大会。記念文集として、『教学と私』第一巻を刊行。八矢英世、「池田先生こそ本門弘通の大導師」と述べ、平塚一雄、「池田先生と境地冥合できる人材になろう}と述べ、福島副会長、「『人間革命』は現代の御書である」、「大聖人との不可思議な血脈の相承がある」と述べる。
五月二十六日  妙信講、浅井本部長。総幹部会において「本部会館・顕正新聞復刊等、本年中に」、「十万の基礎、断じて築かん」と講演。十万達成の基礎たる六綱目として、1)全国地方寺院における御本尊下附問題の解消、2)本部会館の建設、3)顕正新聞の復刊、4)折伏手引き書の発行、5)御書要集の発行、6)日寛上人要集の発行 を挙げ、以て一国諌暁の基盤とする。
六月  富士宮市の一部市議ら、猊下と池田会長を「市道を廃道に必要な手続をしないまま勝手に破壊し、正木堂建設のための敷地にしてしまった」とし、道路法違反・侵奪罪で富士宮署に告発。創価学会、市政に協力するという名目で、池田教育基金三億円と池田公園(二億六千五百万円)の寄付、天母山公園(四千五百万円)の市民開放などを行ない、告発を取り下げさせる。
七月十五日  妙信講、「顕正新聞」復刊第一号を発行。
八月二十三日  猊下、『賞本門事戒壇正本堂建立本尊』を書写し、池田会長に授与。池田会長、ただちに写真に撮らせ模刻複製の板本尊を造る。さらに翌年、裏書草案の作成を原島嵩教学部長に命じ、「この本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇たることの証明の本尊也」との草案を作らせ、猊下に提出するも拒絶さる。 
九月  公明党、中道革新連合政権構想を発表。「日米安保の即時廃棄」に方針転換。
十月十四日  宗門、正本堂記念大法要。池田会長、正本堂から退出される猊下に対し正本堂東側広場にて、大衆の面前で「約束の十億円をはやく出せ」と面罵
十月十七日  宗門、早瀬日慈総監。宗門から学会へ、十三億七千万円を寄付するという覚書を、北條副会長と取り交わす。
十一月  第一次・石油ショック。各地のスーパーで“買いだめパニック”が発生。
十二月二十二日  妙信講、常盤台に本部会館を新築・落慶。講員に一切の負担をかけず、浅井講頭・本部長が私財を投じての建設。松本日仁能化、「猊下の御恩召をゆるがせにせず、ひたすら宗祖大聖人様の御書の御正意を遵守し一意専心教学の研讃と折伏弘教に邁進し、更に聖人展についての諌訴、つづいて御遺命守護の為めに日夜挺身、奮戦努力邁進せり」と慶讃。
十二月二十九日  創価学会、池田会長。第二回御義口伝受講者大会で『賞本門事戒壇正本堂建立本尊』を、すでに板本尊として模刻してある事実を明かす。「実は、本門事の戒壇は正本堂という御本尊がある。猊下と私だけの唯仏与仏だ」と語る。
 昭和四十九年          _
一月  創価学会、「正本堂事業の会計上のつき合わせをしておかないと国税局にふみ込まれる」との名目で、大石寺の法人事務と経理のすべてを公開させ、詳細な検討作業に着手。
一月十五日  創価学会、第五回教学部大会開催。原島教学部長。「池田先生が何回も重ねて表現する『創価教学』とは一体何なのか。端的に申し上げれば未曾有の仏法実践者である会長に直結する教学であります。即ちこれこそ日蓮大聖人にダイレクトにつながっていく教学」と講演。
一月二十八日  創価学会、聖教新聞に『本当の仏法は僧侶仏法ではない』と掲載。
三月十四日  創価学会、聖教新聞に戸田会長の獄中の悟達を、「自らの生命を燃え尽くすような実践があって『自解仏乗』は可能になる」とし、「御本尊、池田会長に直結し」と、本尊と池田会長を同列に並べる。
四月一日  創価学会、池田会長。「創価仏法の原点は、いうまでもなく戸田前会長の悟達にあります」と発言。(大白蓮華、四月号)
四月十二日  創価学会、山崎正友・八尋頼雄顧問弁護士。報告書、『本山について』を作成・提出。(「山崎・八尋報告書」)
 「報告書」では本山への対応として二つの方策を示し、1) 本山とは(略)いつでも清算できるようにしておく、2) 本山管理を実施し背後を固める..の選択肢を提示。その上で、本山管理は火中の栗をひろう危険があるが、本山・正宗は、党・大学・民音以上に学会にとって存在価値のある外郭であり、これを安定的に引きつけておく...とし、後者の路線で進むことを結論。
 その本山管理を進めるに当り、当面打つべき布石として、1)本山事務機構(法人事務、経理事務)の実質的支配、2)財政面の支配(学会依存度を高める)、3)渉外面の支配、4)信者に対する統率権の支配(宗制・宗規における法華講総講頭の権限の確立、海外布教権の確立)等を提案。
四月二十五日  猊下、法華講連合会春季総登山で、「最近ある所では、新しい本仏が出来たようなことを宣伝しておるということを薄々聞きました。大変に間違ったことであります。もしそうならば正宗の信仰ではありません。...そういう間違った教義をする人があるならば、法華講の人は身を以てくい止めて頂きたい。...教義の間違った広宣流布をしたら大変であります」と、学会の“会長本仏論”を批判。(『蓮華』、六月号)
四月三十日  宗務院、無懺にも「国立戒壇を捨てねば登山禁止」と、妙信講に正式通達。
五月六日  創価学会、池田会長・猊下に目通り。「賞 本門事戒壇正本堂建立」本尊の裏書に、「此の御本尊は、正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇たることの証明の本尊也」と付け加えるよう猊下に要求。猊下これを退け、「此の御本尊は、正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇であることを願って建立されたのを証明する本尊』と修正。(藤本メモ)
五月九日  創価学会、北条副会長。「日蓮正宗国際センター」設立の承認を求めて猊下に目通りするも、猊下これを強く拒否。猊下、「日蓮正宗とは別個に学会として作ればいい」、「正宗は小さいままでけっこう」、「教義はどんなことをしても守らなければならぬ。国際センターのことは学会だけでやったらよい」、「いくら学会が折伏して増えたといったって、謗法する人が増えたのでは何もならん」と述べる。
 北条副会長、学会本部に戻るや烈火のごとく顔を紅潮させ、「もうこれでハイ、オサラバだ」と怒り、後に池田会長に「本山の件」とする報告書を提出。「広布の上に重大障害となり、また宗門僧侶の問題等の一切の根源がここから出ている」と報告。
 日蓮正宗から分離独立し一宗一派をつくるその土壌は、創価学会内に池田会長中心に十分できあがっていたからこそ「北条報告書」もそれをかくことができた。(原島嵩、『池田先生への手紙』)             
五月十九日  妙信講、第十六回総会開催。浅井昭衛本部長、理事長に就任。浅井講頭、「すでに七十歳をこえ、(略)若き新理事長に一切の指揮采配を一任」と述べる。以て、浅井理事長に以後・講務を統括し、対外的に講を代表する一切の責任と権限が附与された。
 浅井理事長、「仏法が曲がれば国が亡ぶ、国立戒壇への怨嫉断じて粉砕」、「一切の責任はこのわたしにある」と講演。
(「冨士」、六月号)
五月二十四日  妙信講、創価学会に公開討論申し入れ。
五月二十七日  創価学会、聖教新聞第一面の『名字の言』で、「仏法僧の三宝であるが、この『僧宝』が問題なのである。『僧宝』と言っても僧侶を意味するのではなく、社会の中で実践し『法』を正しく伝持する人々のことである」、「今日における『僧宝』つまり仏法実践者の組織としては創価学会」なる文を掲載。
五月三十一日  猊下、寺族同心会大会で、学会批判。「このままでは軒を貸して母屋を取られる」と説法。
六月三日  創価学会、妙信講との公開討論を拒否。
六月十三日  妙信講、重ねて創価学会へ念告。
六月十五日  猊下、「信徒が、もし僧侶を驕慢の心をもってばかにし、あえて、僧侶をなき者にしようとする心がもしあるならば、それは信徒としての道を誤る」と説法。(応供師満山供養、法華講目通りの際)
六月十八日  猊下、富士学林研究科において、「大聖人以外に本仏があるなど日蓮正宗ではない」、「(戒壇建立の)この建立という言葉が、建物を建てると、こう決まっているものではない」、「じゃ、建物が国立っていう、誰か偉い人が立ててくれなければ、そこへお参りしてもさっぱり御利益がないのか、というような考えではしかたがない。建物なんかどうでもいいんです」と、創価学会・妙信講の双方を批判。
六月十八日  創価学会、北条副会長。報告書 『宗門の件』を、池田会長に提出。『長期的に見れば、うまくわかれる以外にないと思う。本質は、カトリックとプロテスタントのような違いである。戦術的には、すぐ決裂状態となることは避けて、早瀬理事とのパイプ(山友、八尋が話し易い関係にあります)を太くするとか、当面(G)の異常心理をしずめ、新しい進路を開きたいと考えます。但し、やる時がきたら、徹底的に闘いたいと思います』と報告。
六月二十六日  妙信講、一万二千世帯突破。
六月二十六日  妙信講、顕正新聞十八号を百万部配布
七月  猊下、大白蓮華七月号の謗法容認記事について『蓮華』にその破折特集を組むよう指示。ただちに全国僧侶から、破折論文が集められる。         
七月  宗門、『蓮華』七月号に、「この辺でも最近、人間革命が御書だということを盛んに言われてきております。……また、誰が本仏であるという言葉も、この近所できかれるのであって、私は非常に憂慮しています。...日蓮正宗の教義でないものが、一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります」なる、猊下の指南を掲載。
七月六日  創価学会、池田会長。お詫び登山の体裁で、猊下に目通り。謗法の是正と正宗の厳護を約束し、『蓮華』での破折論文掲載の中止を求む。
七月二十日  創価学会、聖教新聞で周徳光議長(東南アジア仏教会議)の「香港メンバーは、久遠の師である池田会長を大歓喜の中で迎えることができ……」との、海外代表挨拶を掲載。
七月二十七日  猊下、『宗門の現況』なる指導会で、「先月の中頃でしたか。...北條副会長ならびに山崎弁護士が...創価学会と日蓮正宗とのまん中に、もう一つに日蓮正宗国際センターというものを造るという趣旨で来られました。私ははっきり断りました。...正宗としてはその上に一つ、また被宗教法人ができることになる。...こっちもその下につくんだから何ともする事ができなくなる。その意味からはっきり断りました。どこまでも日蓮正宗は、たとえ小さくても宜しいから、大聖人の教義を守っていきます」、「会計を、大石寺の会計を調べるという。大石寺も宗教法人で、その年その年に税務署へちゃんと会計報告して通っておる。それにもかかわらず、また第三者が来て会計報告まで調べるというのは、どうも私には意味がとれない。その時に北條さんがいうには、もし調べさせなければ手をわかつ。おさらばする、とはっきりいったのです」、「一人でもお山を守りたい。たとえ学会と手を切っても、百姓をしてもいいからお山を守ろう、と皆にも言っているんです」、「それは正本堂を造ってもらって有り難い。...もし学会が来なくて、こちらの生活が立たないというならば、御本尊は御宝蔵へおしまいして、御開帳願う人があったら御開帳しよう、と覚悟を決めたわけです」等と述べる。
七月  創価学会、池田(名誉)会長。山崎正友裁判における法廷証言。(昭和五十八年)
 弁護人:「…先程あなたは昭和四十九年の七月ごろ、日達上人が学会とは手を切るという発言をしておられたことをきいた覚えがあると、こう言われましたね」
 池田:「手を引くですね。手を引いてもいいという意味の話があったようです」
七月二十八日  妙信講、明治公園で立正安国野外大集会を開催。学会・公明党に「八月十五日までに、国立戒壇を否定した政府への欺瞞回答を撤回せよ。もし撤回しなければ、妙信講が文部省に対して訂正する」とした決議文を創価学会本部に届ける。
七月三十一日  宗務院、妙信講に解散を前提とした「通告」なる書状を提示。「訓諭に従わず機関紙配布・デモ等を強行したのは宗規違反、八月七日までに弁疏せよ」と。
八月四日  創価学会、池田会長。大石寺における高等部夏期講習会で、「仏法者として、本門戒壇の大御本尊を、一生涯忘れないでください」と指導。
八月六日  妙信講、宗務院へ条理を尽し回答書を提出。
八月六日  創価学会、聖教新聞に西口浩・学生部副教学部長の、「原典」について論じた文章を掲載。『仏教という大きな立場で言えば、それは「法華経」であるといえます。そして、大聖人門下という観点からいえば「御書」であり、さらには創価学会という立場からいえば、小説「人間革命」であります』と論述。
八月十二日  宗務院、妙信講に暴戻なる「解散宣告書」を発令。
 『宣告書 一、主文 講中解散に処する。右妙信講は、数年来「国立戒壇の名称を使用しない」旨の宗門の公式決定に違反し、更にまた昭和四十七年四月二十八日付「訓諭」に対して異議を唱え、数度におよぶ宗務院の説得、誡告等にも従わず、かえって宗務院並びに他の信徒に対して非難中傷を加え、機関誌の大量配布、デモ行進などを行なった。これは、宗門の秩序と統制を乱す行為であり、甚だ許し難いものである。従って、七月三十一日付をもって弁疏の提出を求めたところ、八月七日文書の提出があり、その内容を検討したが、右行為を正当とする事由は見当らず、また情状酌量の余地も全くないものである。よって宗規第百六十四条(旧第六十一条ノ三)の二号の処分事由に該当するものと認め、頭書の如く処分する』と。
八月十二日  宗門、細井管長。(以下、管長と記す)全妙信講員宅に自筆の手紙(写し)を発送。「一宗の統率者として宗門の秩序を守り、統制を保っていくためには、万やむを得ないこととして、遂に今回の措置をとらざるを得なくなった」とし、四ヶ寺の寺院を挙げ「今日より六十日以内にその寺へ申出」よ、「その寺においては、他の法華講員と何ら変らぬ平等の気持ちをもって遇」すと述べ、講中壊滅を期す。
 管長からの手紙にかかわらず、妙信講を離れる者なし。
八月二十日  妙信講、豊島公会堂にて臨時幹部会。浅井理事長、「妙信講は断じて解散せず、仏法の破壊者池田大作こそ宗門追放を」と宣言。
八月二十六日  妙信講、「偽善者池田大作の仮面をはぐ」の号外、再び百万部配布
九月六日  妙信講、男子部百五十名。学会本部前にて、抗議演説。
九月十五日  妙信講、男子部代表五十数名。宗務院におもむき、解散理由を詰問。全役僧等、ただ逃避するのみにして回答なし。
九月十九日  法華講連合会、岩井氏。「大白法」の発送は、「北条浩副会長の指示」と告白。
九月二十二日  妙信講、男子部。大阪・京都にて、顕正新聞号外を配布。
十月四日  妙信講、男子部八十余名。創価学会本部前にて、北条浩副会長の卑劣を糾弾。全員、「暴力及び家宅侵入」の現行犯容疑で逮捕、四谷警察署に連行さる。



 
当・「御遺命守護資料館」サイト開設一周年を自祝し、昭和四十九年までの「御遺命守護年表」を作成してみました。
 わたしとして極力・正鵠を期したつもりですが、もし誤り等があればよろしく諸賢・諸氏のご指摘を賜りたく存じます。


                             
( 平成十四年六月十三日、櫻川 記 )


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